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55年続いたおもちゃ屋を閉店するまで2.不振の原因と社長としての取り組み

この連載では、私の父が昭和27年に創業し、私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」の歩みをお話しています。
さくらトイスは、私が社長になってから約10年後に、全店を閉店しました。平成19(2007)年のことです。

前回の記事では、戦後40年好調だった玩具業界が段々曇り始めてきたことを書きましたが、今回はさくらトイスの不振の原因や、私が社長として取り組んだことをお話します。


閉店に至る10の原因

当時、不振の原因を書きだした資料がありますので、ご紹介します。

1.少子化

年間出生数が1971~73年には約200万人、2005年には約100万人と、半減しました。ちなみに現在(2023年調べ)は、約75,8万人とさらに減っています。
子どもが少なくなることは、お客様が減ってしまうのでおもちゃ屋にとっては致命傷です。
当時一緒にテナント出店していたベビー服屋さんも、同時期に何軒か閉店してしまいました。

2.企業格差

私たちのような専門店だけでなくトイザらス・量販店(ダイエー・ジャスコ等)・家電量販店・大手通信販売が、おもちゃを販売するようになりました。
出店の速度、大きさで会社規模の違いを思い知らされました。

3.流通の変化(問屋・メーカーが消費者に直説販売)

全国の玩具小売店が閉店し始め、危機を感じた問屋やメーカーが直営店を展開したり、ネット販売を始めました。そのことで、小売店の状況がさらに厳しくなっていきました。

イオン津田沼にオープンした「キッズ共和国」 トイジャーナル2003年11月号より

4.価格競争・価格破壊

トイザらスが日本に来る前から少しずつ価格破壊が始まっていましたが、本格的におもちゃの価格競争が始まり、消費者もおもちゃは安く買えることを認識し始めました。
特にネット販売での安売りにより、消費者はどこにいても、より安い価格でおもちゃを買うことが可能になりました。

5.玩具価値の変化

私は「子どもにとって、おもちゃはビタミン」と考えています。
「与えすぎてもダメ、少なくてもダメ、適正に与えるのが一番」と言ってきましたが、デジタルゲームが販売されたことにより、年齢別に与えるおもちゃが変化し始めました。
それまでは、各メーカーとも、年齢別に子どもの発達にあったおもちゃを出していましたが、各家庭がデジタルゲームを子どもに与える年齢が下がり、1~2歳でデジタルゲーム遊びを始めるようになりました。
デジタルゲームは情報量が多く刺激が強いおもちゃなので、そこからアナログなおもちゃに戻ることは難しく、いわゆる一般玩具が売れなくなりました。

6.消費者購買の変化 静(アナログ)から動(デジタル)へ

これもデジタルゲームの影響ですが、おもちゃ屋で売れるおもちゃの傾向が変わってきました。
消費者は、一般玩具は価格の安い量販店やネット通販で買うようになりました。
私たちのような専門店で売れるのは、ゲームソフトかカード類(遊戯王など)、1000円以下の低単価のおもちゃ、または超売れ筋で、どこも品薄になっているおもちゃです。
これらはすべて、掛率が高く粗利がとれない「儲からない」商品なのです。

7.粗利が取れない

6の補足ですが、ゲームの販売が伸びるほど、粗利益が減少していきました。
ふつう一般玩具は販売価格の65%で小売店に納品され、店の利益(粗利)は35%でした。
ところが上記のように一般玩具が売れなくなり、粗利の少ない商品が売上げの半分を占めてきました。
当時は、カードが25%、ゲームソフトと筐体(ムシキングやラブ&ベリーなどのマシン)が20%、ゲーム機本体に至っては5%でした。

8.ヒット商品が「放物線」から「筒型」の短命に

昔はおもちゃがヒットするとブームが数年続き、売れ行きは放物線を描いいていました。
ところが、2000年代のはじめ頃からはヒット商品の寿命が短くなり、パッと売れてすぐに売れなくなってしまう「筒形」になっていました。

9.ヒット商品の売れ筋が大手に流れる

そんなヒット商品は、トイザらス、量販店、家電店、ネット通販店など大手に流れ、私たち専門店には入荷しなくなってきました。
おもちゃの生産量が決まっているのでその中の取り合いとなり、どうしても力の差で負けてしまうのです。

10.業界の壁が無くなり、異業界が簡単に参入

靴屋・釣具屋がロードサイドに手掛けたおもちゃ店から始まり、スーパーマーケット・家電量販店などが続々と玩具を扱い始め、価格競争が激しくなりました。

閉店までに、社長として取り組んだこと①もしもの時のために、少しでもよい会社に

私がさくらトイスの副社長になったのが平成元(1989)年、社長になったのが平成8(1996)年です。私が関わり始める前から少しずつ玩具業界に変化が見え始めたのは、前回の記事に書いた通りです。(ご興味のある方は、こちらもご覧ください)

私が社長になったときには、このままでは、会社の存続が難しいと考えていました。
そこで考えたのは、「会社を整える」ということです。会社を少しでも上向かせるためというのはもちろんですが、もしかしたら将来会社を手放すことになるかもしれない。そのときのためにも、少しでも会社の価値を上げようという気持ちもあったのです。

まず、今までの雛型通りの就業規則を、現状の会社に合ったものに作り直しました。
給料規定も年功序列で上がっていくものではなく、会社貢献度で決めて、「上がるし下がりもする」という規定にしました。退職金も点数制度にして、計算をしていくようにしました。

また、各店の採算もディスクローズして、店長会で見せました。店長たちに、売上・仕入れ値・経費を意識してもらうためです。

一方、毎年の経営方針も立て、今までピラミッド型の経営を私が直接店長に指揮するオーケストラ型にしました。
この頃には、店舗数もかなり少なくなっていました。粗利が段々取れなくなってきたので、家賃を見直し、採算の取れない店を閉めていったからです。
ダイエーや駅ビルのテナントに入ると固定家賃+変動家賃となり、それに共益費と広告費が加わります。これが売上げの15%~20%を超えると、経営としてやっていかれません。
閉店直前の2006年、実店舗は、中野、国分寺(ファンシーショップの「リトルプリンセス」と合わせて2店舗)、草加、溝口の5つだけで、すべて丸井内のショップでした。これに通販部門もありました。

人件費も見直して少数精鋭にし、忙しい時は以前勤めていた人に声を掛け来てもらいました。

ヒット商品の仕入れは、各店では確保が難しいため、本部で集められるだけ集めました。

閉店までに、社長として取り組んだこと②各店の良さを引き出し、スタッフのやりがいを

ただ、何もかも本部で、社長主導で動かしてしまうと、スタッフのやりがいがそがれてしまいます。

そこで、各店の強みを生かした売場にして、店のスタッフが楽しく働きやすい、やりがいのある仕事場にと心がけてきました。
店長会では自店で「マイショップブーム」を作ってくださいと指示を出しました。これは、自店での売れ筋商品を見つけ、メーカーの協力のもと、他店より商品を拡大展開して、お客様を巻き込むように仕掛けました。

店長によって得意分野が違うので、ミニカー・カードゲーム・ジグソー・盤ゲーム・マジック等のさまざまな売場ができていきました。
昔から父も、「店の楽しさは自分で商品を仕入れること、そして工夫して売り場を作ること。それが売れればやりがいもあるし、仕事に対する意欲も出る」と言っていました。

ただ、弊害もあります。店長たちに仕入れを任せると買いすぎてしまい、支払いが大変になりがちです。そこで仕入金額を決め、常に本部で見ていました。

こうして社長になってから10年間過ごしてきましたが、とうとう閉める決断の時がきました。
その原因や、閉店までの日々のことは、次回の記事でお話しします。


なお、今回も、玩具業界紙「トイジャーナル」さんに、過去の記事の画像を提供いただきました。
トイジャーナルのホームページには、おもちゃの新商品やイベント情報などの読み物も多数掲載されていますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。


昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。毎月11日に公開予定ですので、続きをお楽しみに!

また「さくらトイス」のことを覚えている方、ぜひコメントをくださいね。

編集協力:小窓舎

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