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ケイト・マンの理論は同型の男性差別問題にも適用できる

 ケイト・マンのミソジニー理論はフェミニストのお気に入り理論だ。フェミニストが男性を糾弾するときに実によく登場する。もちろん、実際にケイト・マンが主張するミソジニーの型はあるし、彼女が主張する構造によって対女性暴力を犯すミソジニストもいる。

 だが、ケイト・マンのミソジニー理論で説明される事態をそっくりそのまま性別を反転させた具体的な事態も存在する

 今回のnote記事ではケイト・マンが説明する構造は決して男性特有のものではなく、女性もまた同様の構造を創り出すことを見ていきたい。とはいえ、いきなりケイト・マン理論を男女反転させて考えるのは難しいと言えるので、まずはケイト・マンのミソジニー理論を確認していこう。


性差別エコシステム

■ケイト・マンのミソジニー理論

 ケイト・マンは女性差別現象をエコシステム上の現象と捉え、女性差別エコシステムの「イデオロギーと暴力装置の構造」を明らかにした。そして、彼女の特殊な定義による「家父長制」がイデオロギーに相当し、「ミソジニー」が暴力装置に相当すると考えた(但し、「家父長制」の語の定義について、彼女の理論の登場以降はフェミニズム界隈において彼女の定義が主流となっている)。

 ただし、ケイト・マンの理論には「エコシステム」の用語自体は無いのだが、彼女の女性差別を捉え方の背景に「エコシステム」の概念によって容易に把握することが可能になる枠組みがある。そこでまず簡単にエコシステムの概念を説明しておこう。

 さて、エコシステム概念は"エコ"と付いているところから見当がつくように元々は生態学における概念で、「同じ領域で暮らす生物や植物が、お互いに依存しながら生態系を維持している仕組み」を指す概念だ。そこから生態学が対象とする植物や動物や生態系といった範囲に限定せず、人間社会の現象に適用範囲を広めたものが現在のエコシステム概念である。つまり、「活動圏を同じくする別個の主体が、相互に依存しながら系を維持している仕組み」となる。

 方向性はともかくフェミニズムに関心のある人達には説明の必要もないと思うが、昭和時代の家庭、すなわち「生活圏を同じくする別個の意志や欲求等を持つ男女が、『男性は家計負担、女性は家事負担』といった形で相互に依存しながら家庭という系を維持する仕組み」が典型的なエコシステムに当たることは容易に理解できるだろう。また、家庭というエコシステムを前提として、地域社会のエコシステム、さらには一国の社会全体というエコシステムへの敷衍もまた可能であることも分かるだろう。

 このエコシステムにおける相互依存のパターン、あるいは主体間の序列といったものに決定的影響を持つものとしてイデオロギーがあり、またエコシステムの統制や維持あるいは防衛のための暴力装置が存在することがある。

 ケイト・マンは上記のエコシステムの構造から「女性差別およびミソジニー」を説明したのだ。つまり、女性差別という社会のパターンや男女の序列家父長制というイデオロギーによって決定され、ミソジニーという暴力装置によって維持・統制・防衛されているとしたのである

 ただし、注意が必要なのだが、ここでの"家父長制"の概念の定義は本来の形とは転倒する形となっている。すなわち、「(ケイト・マンの)"家父長制"とは『女性差別という社会のパターンや男女の序列を生み出すイデオロギー』として定義される概念」といった形になっている。つまり、「歴史的制度である家父長制」と全く異なる概念なのだ。

 おそらく、この「定義の転倒現象」というものは理解しづらいと思う。それゆえ、一旦ジェンダー問題とは離れて、無関係のハンサムを意味する「二枚目」という語を用いて「定義の転倒現象」を説明しよう。

 江戸時代の劇場が「掲げる看板の2枚目」に演劇一座のスター俳優の看板を掲げた(因みに1枚目は座長)。それゆえ、2枚目の看板はハンサムな男性の看板になった。そこからハンサムな男性を二枚目と呼ぶようになった。つまり「ハンサムが置かれるのは2枚目の看板」から「二枚目とはハンサム」という形で意味の転倒が生じたのだ。

 この言語現象は通常、換喩表現(メトミニー)が長期に用いられた場合に生じる。しばしば生じる言語現象でそんなに珍しいものでもない(他の例としては政治家界隈を指す「永田町」や官庁・官僚界隈を指す「霞が関」など)。 また、学術の世界では用語を厳密に使用しようとする意図から生じることが多く、「文の修飾を目的とした換喩」とはやや意味合いが異なることもある。

 例えば、経済学で「公共財」というテクニカルタームがある。元々の意味としては、当然ながら政府が供給することが多かった財・サービスを指していた。しかし、経済学が進展していく中、政府が供給する財・サービスの性質に非排除性・非競合性と呼ばれる性質があるケースが多いことが判明した。そこで逆に公共財の定義を「非排除性と非競合性があるものが公共財である」という形で公共財概念を厳密に用いられるようにしたのである。しかし、このような形で定義が転倒すると、政府が供給している財・サービスであっても非排除性や非競合性が無ければ公共財ではないし、逆に民間が供給している財・サービスであったとしても非競合性と非競合性があれば公共財となる、ということが起こる。このような事情があるために、元々の用語の意味のイメージのまま定義の転倒現象が発生した用語を使用・解釈していると、齟齬が生じることが少なくない。したがって定義の転倒現象が生じた用語の使用や解釈には注意が必要であるのだ。

 さて、ケイト・マン理論の「家父長制」の用語に話を戻そう。

 家父長制の用語は、当然ながら元々は歴史的制度である家父長制を指していた。そして、ケイト・マンは「歴史的制度である家父長制を形成したイデオロギー」が女性差別という社会のパターンや男女の序列に決定的影響を与えていることに注目した。そこで、ある意味で厳密に語を用いるために、「家父長制」とは「"歴史的制度の家父長制”を創り出したイデオロギー」であると用語の意味を転倒させることにしたのである。それゆえ、ケイトマンの理論における「家父長制」という用語は「女性差別という社会のパターンや男女の序列を形成するイデオロギー」の名称となったのである。

 したがって、"歴史的制度の家父長制"にはケイト・マンの用語のイデオロギーとしての家父長制には還元され得ない要素が存在し、また逆に"歴史的制度としての家父長制"とは関係の無いものであってもケイト・マンの用語の「家父長制」に含まれてしまうこともあるのである。

 以上の事情がケイト・マンの用語の「家父長制」を巡る議論において混乱が生じる元となっている。この点はケイト・マンの理論およびミソジニーを巡る議論に際して、注意を要する点である。

 これまでの議論は、ケイト・マンの理論構造の話であったので、具体的にはケイト・マンが理論で何を言っていたのかよく分からない人も多かったであろう。そこで、もっと情景が浮かぶような「自動車の交通」の譬え話でケイト・マンの理論を解説しよう。

 交通法規と交通規制は様々なルールの束からなっている。例えば「この道路は40km/h以下で走行しなければいけない」といったようなものだ。ケイト・マン理論に関して、この交通法規や交通規制に当たるものが「イデオロギーおよびイデオロギーに基づく規範としての家父長制」である。

 我々は交通法規と交通規制に従って自動車を運用するのだが、このとき必ずしも交通法規や交通規制の内容に意義や価値を感じて遵守している訳ではない。例えば、40km/h制限がある道を制限速度で走行しているとき、「確かにこの道は40km/h以下でないと危ないなぁ」と納得して制限速度を遵守して走行する場合もある一方で、「制限速度40km/hを守らないとネズミ捕りに引っかかって罰金とられるのは嫌だな」と警察の交通取り締まりで捕まることを忌避して制限速度を遵守する場合もある。

 そして、実際に40km/h制限がある道を制限速度を超過して走行している自動車があるとき、交通取り締まりをしている警察官がその制限速度違反を見つけたならば、直ちに制限速度違反で捕まえ罰金を科す(ここでは実際上細かな司法上の取り扱いは省く)。ケイト・マン理論では、この警察官による交通取り締まりや罰金を科すことに当たるものが「暴力装置・強制力としてのミソジニー」なのである。

 交通法規や交通規制が自動車の運用上において有意義であるからそれらが遵守されているという要素だけでなく、違反したときに取り締まりをうけるからこそ交通法規や交通規制が遵守されて交通法規や交通規制に則った体制になる。それと同様の構造が女性差別を巡る体制には存在しているとケイト・マンは指摘したのだ。すなわち、反抗したときにミソジニーを受けるからこそ女性は家父長制に従順になり、社会は家父長制が実現する体制(=女性差別エコシステム)になると彼女は主張したのである。

 このミソジニーが女性差別エコシステムにおいて果たしている機能は、ケイト・マンが指摘するまではハッキリと理解されておらず、単なる男性の邪悪な差別的態度や差別的行動としてしか認識されていなかった。しかし、彼女はミソジニーが単なる態度や行動ではなく、体制側の暴力装置として体制の維持・運営に不可欠の要素であることを明らかにしたのである。


■ケイト・マン型の男性差別エコシステムも在るということ

 ケイト・マンのミソジニー理論が説明するエコシステムの構造は「イデオロギーと暴力装置(=強制力)の構造」である。そして、女性差別エコシステムにおけるイデオロギーとしての"家父長制"と、暴力装置としてのミソジニーの位置づけを明確にしたのが彼女の功績である。しかし、彼女(および多くのフェミニスト)は、女性差別エコシステムだけが存在しているかのように捉えているが、女性差別エコシステムと同型の男性差別エコシステムもまた存在している。

 女性差別エコシステムが女性差別イデオロギーである"家父長制"と暴力装置のミソジニーという構造を持つものである一方、その双対関係にあるものとして、男性差別エコシステムは男性差別イデオロギー(としてのフェミニズム)と暴力装置としてのミサンドリーという構造を持つのだ。

 なぜなら、「イデオロギーと暴力装置(=強制力)の構造」については、性別によって成立が左右されるようなものではない。そして、二つの性差別エコシステムは男女の位置づけが上下反転しているが、結局のところ「イデオロギーと暴力装置(=強制力)の構造」という構造には変わりがない。それゆえ、女性差別エコシステムと男性差別エコシステムのどちらか一方だけしか存在し得ないなどということはない。

 このことについて詳しく見ていこう。まず、それぞれの性差別エコシステムの本質である性差別イデオロギーについて考察する。

 最初に性差別イデオロギーに関する議論の結論を提示しておこう。

 女性差別イデオロギーは存在し得るが男性差別イデオロギーが存在し得ないなどということはあり得ない。なぜなら「アイツらは自分達よりも劣った存在だ」と"感じる能力"、その感覚を正当化して序列と役割を思いつく"思考能力"に関して、生物的に女性が男性に劣るということは無いからだ。

 ではなぜ上記の結論になるか、これから述べていこう。

 さて、差異を認識してそれらを区別する能力、複数の対象に対して価値評価を行う能力に男女の生物的性差は無い。また、差異の識別能力や価値の評価能力を前提とした、異なる価値をもった対象に異なる対応を取ることのできる能力もまた男女で生物的性差は無い。

 もしも「そんなことはなく男女には生物的性差があるのだ」と主張するのであれば、上記の能力を必須とするタスク管理や人事評価に関する能力に関して男女で生物的性差があることになる。そうなると、ジェンダーギャップ指数の構成項目にも採用されている管理的職業従事者の男女比において男性が女性に勝ることは、タスク管理や人事評価に関する能力についての生物的性差が反映された結果のジェンダーギャップであって、なんら問題視する必要は無いということになってしまう。当然ながらフェミニスト達はそんなことは認めないだろう。

 つまり、「異なる価値をもった対象に異なる対応を取ることのできる能力」に関して男女の生物的性差は無いと考えてよいのだ。もちろん、はるか遠い未来において科学的に当該能力には生物的性差があることが確かめられる可能性はゼロではない。しかし、現代を生きる人間が生存している程度の期間においては当該能力には生物的性差が無いと考えることに何の非合理性もない。それゆえ、当該能力には生物的性差が無いことを当然の前提として置いてよいだろう。

 以上の議論は「主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)」の図式でいえば主体(サブジェクト)側の性質の議論だ。主体-客体図式は「『見る側=主体、見られる側=客体』として捉えらる図式」と考えてもいいものである。つまり、これまでの議論の主体側の議論だけでは片手落ちであることが分かるだろう。それゆえ、次に客体(オブジェクト)側の性質を見ていくことにしよう。ただ、いきなり客体としての人間の男女の性質で構造を説明をすると、論点でないところに突撃して議論内容を把握しようとしない人間が出てくる。それゆえ、まずは客体として「車とバイク」を題材にして説明しよう。

 さて、客体として車とバイクは様々な観点から評価され、そして対応が取られる。また、それぞれの評価軸のどれを重視するのかといった総合評価のされ方も多様である。さらに、それらの総合評価と各々への対応も多種多様だ。

 もっと具体的に言えば、車とバイクは「経済性・利便性・安全性・所有する満足度・ドライブやツーリングなどの楽しさ等」の様々な観点で評価可能だ。また、所有の満足度などは考慮外で経済性と利便性を重視する総合評価の有り方もあれば、所有の満足度とドライブ等の楽しさこそが最も大切で経済性や利便性は二の次といった総合評価の形も有り得る。そして、両方とも購入して普段は車で休日はバイクに乗る、通勤用にバイクだけを買う、どちらも買わず必要に応じて車をレンタルする等、総合的に勘案して車とバイクにどう付き合うか決めるといったことを我々は行う。

 つまり、「何をどの程度評価してどのような対応をとるか」ということを客体(オブジェクト)である車・バイクが持つそれぞれの性質に合わせて、主体(サブジェクト)が決定していく。そして、主体の能力と客体の性質を前提として、多種多様な「何をどの程度評価してどのような対応をとるか」との決定の元になっているものが、車とバイクに関するイデオロギー(≒価値に関する信念体系)である。

 この構造を掴んでおけば、客体(オブジェクト)を議論の本題である「男性と女性」に戻しても論点を掴み損ねることはないだろう。なぜなら、客体を「車とバイク」から「男性と女性」に変更したとしても枠組みは変わらないので、先の議論と同様に考えればよいからだ。

 人間の男女は生物的性差があるために男女で異なる様々な特性を持っている。例示すれば、運動能力・生殖能力・体格等の特性である。ただし、この男女の違いはあくまでも客体(オブジェクト)としての違いである。

 この客体(オブジェクト)としての男女に対する「何をどの程度評価してどのような対応をとるか」について、前述の通りに主体(サブジェクト)としての男女では差異が現れない。つまり、客体である男女に対するイデオロギーを形成することに関し、主体である男女に差異は生じない

 何を言っているのかよく分からないという人も多いと思うので、「画家がヌードモデルをデッサンする」ことの譬え話で説明しよう。

 ヌードモデルが男性のときと女性のときでは描かれたデッサンは違う。しかし、画家が男性でも女性でもそこに差異は生じない。

主体としての男女と客体としての男女 (筆者作成)

 主体と客体の両方に「男性と女性」が入ってきたので非常に理解しづらかったと思うが上記の譬え話で何を言っているのか理解できたであろう。ついでに、同様の画家の譬えを用いてイデオロギーを形成することについても男女差が無い事を説明しよう。

 同じ男女のヌードモデルを描いた絵画があったとして、ギュスターヴ・クールベのような写実主義の絵なのか、ゴーギャンのような印象派の絵なのか、ピカソのようなキュビズムの絵なのかでまったく違う。つまり、客体であるモデルの何処に注目して何を大切にして描くのかで絵画は全く変わってくる。言ってみれば絵画のイデオロギー(≒価値に関する信念体系)はそれぞれで異なる。このとき、男性画家なら(水準はともかくとして)写実主義でも印象派でもキュビズムでもそれらに則った絵画を描くことができるが、女性画家だと写実主義と印象派の絵画は描けるがキュビズムの絵画を描くことは不可能だということが有り得るか、と言う話なのだ。

 つまり、主体(サブジェクト)として男女が同等の能力を持つとき、同じ客体(オブジェクト)に対するイデオロギー形成能力に関して男女に差異が生じることはない。したがって、性差別イデオロギーのような邪悪なイデオロギーであっても男女は同様に形成し得る。換言すると「男性だけが女性差別イデオロギーを形成し、女性は男性差別イデオロギーを形成しない」などという女性だけが生来的にイノセントなのだというものはフェミニストの幻想に過ぎない。

 実際にフェミニストのヴァレリー・ソラナスが『男性根絶協会マニフェスト』(SCUM Manifesto)というものを著しているのだから事実として男性差別イデオロギーは存在している。

 また、暴力装置としてのミサンドリーもまた存在している。典型的なミサンドリーとしては、ギャルゲーオタクやチー牛あるいは弱者男性といった「(女性優遇思想としての)フェミニズムの視点からみて不都合な男性」に対する懲罰的なフェミニストの執拗な非難・侮蔑・蔑視がそれだ。

 この男性差別エコシステムにおける暴力装置としてのミサンドリーについては次回のnote記事で詳細かつ具体的に考察していこう。


※続きのnote記事は以下になります。



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