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性差別エコシステムの暴力装置としてのミサンドリーとミソジニー

 本稿は下に挙げたnote記事「ケイト・マンの理論は同型の男性差別問題にも適用できる」の続編である。ただし、本稿はケイト・マンが説明したミソジニーと同型のミサンドリーをテーマにした、ある程度独立した論考となっているため、単独でも一応は完結してはいる。しかし、本稿での議論の前提としている以下のトピックの詳細を知りたい場合は前編に当たるnote記事を参照して頂きたい。

●ケイト・マンの理論は「女性差別エコシステム」に関する理論である
●エコシステムとは「活動圏を同じくする別個の主体が、相互に依存しながら系を維持している仕組み」である
●あるタイプのエコシステムは「イデオロギーと暴力装置」によって、その社会のパターンや秩序が形成され、維持・統制・防衛される
●イデオロギーはそのタイプのエコシステムのパターンや秩序を形成する
●暴力装置はそのタイプのエコシステムの維持・統制・防衛を行う
●ケイト・マンは女性差別エコシステムにおけるイデオロギーを「家父長制(という名称のイデオロギー)」であるとした
●ケイト・マンは女性差別エコシステムにおける暴力装置はミソジニーであるとした
●男性差別問題に対してもケイト・マンの理論は性別を反転させて適用できる
●男性差別エコシステムにおけるイデオロギーの典型はフェミニズムである

本稿の議論の前提となる前編に当たるnote記事でのトピック




■ミサンドリー及びミソジニーの分類

 本稿のテーマは「ミサンドリーおよびミソジニー」である。しかし、一々「ミサンドリーおよびミソジニー」と表記すると冗長に過ぎる。それゆえ、本稿限定の表記として「ミサンドリーおよびミソジニー」を指し示す場合は「ミサンドリー*」とアスタリスクを付けて表記する。字面上はミサンドリーしか現れていないが、ミソジニーも含んでいることを了承されたい。

 また、全てのタイプのミサンドリー*を網羅して論じる訳ではない。そこでまず先に、本稿では扱わないミサンドリー*も含めて大まかに分類し、本稿の議論対象とするミサンドリー*の位置づけを明確にしたい。

 さて、ミサンドリー*は大別すると、体制内ミサンドリー*と体制外ミサンドリー*に分類できる。体制内ミサンドリー*は基本的に内部統制の為のミサンドリー*であり、体制外ミサンドリー*は性差別エコシステムそのものへのエコシステム外部からの攻撃に対する防御反応または反撃としてのミサンドリー*である(註1)。したがって、ケイト・マン理論に登場するミソジニーないしはそれと同型のミサンドリーは、体制内ミソジニーないしは体制内ミサンドリーなのだ。

 本稿ではケイト・マンの理論を男女反転させる形で適用して男性差別の事態の分析を行う。それゆえ、本稿で扱うミサンドリーは体制内ミサンドリーである。また、体制内ミサンドリー*について、ミサンドリー*が向かう先の抗議者・反抗者・離脱者・未達者等といった対象毎にミサンドリー*は様々な違いがある。とはいえ、体制内ミサンドリー*に限定しても詳しく網羅的に取り扱うことは、分量から考えて一つのnote記事には収まらない。したがって、本稿では「離脱者・未達者」に対するミサンドリー*についてだけ扱う。また、体制外ミサンドリー*も本稿では扱わないに注意されたい。


■議論対象のミサンドリー*

 本稿において取り上げるミサンドリー*は以下のミサンドリー*だ。

  1. 性差別エコシステムからの離脱者(ないしは逸脱者)に対する懲罰としてのミサンドリー*

  2. 性差別エコシステムにおいて期待される水準に満たない人間(=未達者)に対する懲罰としてのミサンドリー*

 この二つのミサンドリー*を口語表現で一言でいえば、前者が「勝手なことをする奴への罰」であり、後者が「ポンコツへの罰」である。そして、勝手なことをする奴を罰することやポンコツを罰することは、なにも性差別エコシステムに限った話でもない。説明の必要は無いかもしれないが、一応説明しておこう。 

 なぜ勝手なことをする奴を罰するのかと言えば、ソイツが勝手なことをすることが害であるだけでなく、罰しないで放置すると他の奴が勝手なことをするようになるために困るからである。また、なぜポンコツを罰するのかと言えば、ソイツ自身がポンコツであることが害であるだけでなく、ポンコツを罰しないで放置すると他の奴がサボるようになって困るためである。

 つまり、エコシステムに上下の序列が存在して下位者から上位者が何らかの奉仕を受けている場合、それが片務的関係ではなく双務的関係であったとしても、下位者が勝手にエコシステムから抜けることは上位者にとって不都合なのである。また同様に、エコシステムにおいて奉仕を受ける上位者は、奉仕する下位者のレベルが低いようだと不都合なのだ。更に、罰する対象自身が齎す害もさることながら、伝染性があるために罰するのである。

 また、1.と2.の性差別エコシステムにおける懲罰としてのミサンドリー*が共通に持つ性質としてアナウンスと威嚇とサンクションの3つの性質がある。それぞれについて説明しよう。

 一つ目のミサンドリー*が持つアナウンスとしての性質とは次のようなものである。ミサンドリー*によって性差別エコシステムにおけるネガティブリストが示される。つまり、ミサンドリー*の対象となる人間(※必ずしも具体的個人でなくともよい)を散々に扱き下ろすことによって「性差別エコシステムにおいて、なってはいけない下位者としての人間像」を指し示すのだ。

 二つ目のミサンドリー*が持つ威嚇としての性質とは次のようなものである。実際に性差別エコシステムにおけるネガティブリストに抵触した具体的個人がミサンドリー*に晒されることで、性差別エコシステムの構成員に対して四字熟語の「一罰百戒」の言葉通り、威嚇による予防効果を持つ。つまり、実際に具体的個人に対して行われたミサンドリー*を観察することで、ミサンドリー*の対象となるとなることを忌避させ、ネガティブリストに抵触する構成員を減少させる性質である。

 三つ目のミサンドリー*が持つサンクションとしての性質とは次のようなものである。実際に性差別エコシステムにおけるネガティブリストに抵触した具体的個人の抵触者の処遇として性質である。言い換えると、抵触者に与えられる苦痛としてのミサンドリー*の性質である。

 以上、三つの性質が懲罰としてのミサンドリー*には存在する。

 次に、1.と2.のミサンドリー*を個別に見ていこう。


■離脱者に対する懲罰としてのミサンドリー*

 1.のタイプのミサンドリー*、すなわち、エコシステムからの離脱者に対する懲罰としてのミサンドリー*の説明をしよう。このタイプのミサンドリー*は、鎌倉時代の将軍と御家人との関係、あるいは頼朝と義経の対立の構造との類比を考えると解像度が高くなる。

 さて、将軍と御家人の関係は「御恩と奉公」という関係にある。この関係は、所領安堵(=領有地の公認)や新規領地あるいは官職等を将軍が御家人に与えるから御家人は将軍に奉公(=軍役の提供)をするという関係だ。つまり、将軍だけが所領安堵や新規領地あるいは官職を提供するからこそ、将軍は御家人から奉公を受けることができる。

 しかし、もしも「将軍以外の誰か」から所領安堵・新規領地・官職等を受けることが出来るならば、なにも御家人は奉公先を将軍にする必要は無くなる。この時のポイントは、この事態は将軍は困るが御家人は何も困らないところにある。だからこそ、将軍は「将軍以外の誰か」から御家人が所領安堵・新規領地・官職等を受け取ることに対して危機感を持つのである。

 実際に「将軍以外のだれか」である後白河法皇から官職等諸々受け取ってしまって将軍頼朝から討伐されてしまったのが弟の義経である。将軍頼朝に反旗を翻す気がたとえ義経に無かったとしても、将軍頼朝にとって自分以外から御恩を受け取ることは支配体制を揺るがすことになるので義経を討伐したのだ。

 性差別エコシステムにおけるミサンドリー*の構造も同じである。性差別エコシステムにおける上位者が"御恩"を下位者に下げ渡すから、下位者は上位者に"奉公"するのである。この"御恩と奉公の関係"が確固たるものである場合に上位者と下位者の支配関係は確固たるものになる。しかし、性差別エコシステムにおける下位者が上位者の"御恩"を必要としなくなったとき、その支配構造が崩れてしまうのだ。それゆえ、自力で"御恩"を獲得する下位者に対して上位者はミサンドリー*を差し向けて討伐するのである。

 すなわち、性差別エコシステムにおける上下の序列を揺るがせるからこそ、自力で"御恩"を獲得する性差別エコシステムの下位者に、上位者に対する加害や害意があったかどうかすら無関係に、ミサンドリー*を向けるのである。

 この構造を実際に女性差別エコシステムと男性差別エコシステムに当てはめて考えよう。

 女性差別エコシステムにおいて男性が女性に与えていた"御恩"は家計所得であり、男性差別エコシステムにおいては性愛を女性が男性に与える"御恩"とするようだ。したがって、女性差別エコシステムにおいて男性は自立して所得を獲得する女性に対してミソジニーを向けていたのであり、男性差別エコシステムにおいて女性はギャルゲーなどの二次元キャラで現実の女性を必要とせず性欲を充足させる男性に対してミサンドリーを向けるのである。

 そして、女性差別エコシステムにおいて自立して所得を獲得する女性が「男性の職を奪うかどうか」すら関係なくミソジニーが向けられ、男性差別エコシステムにおいては「2次元キャラの存在が現実の女性に対する加害かどうか」は全く関係なくギャルゲーオタクの男性にミサンドリーが向けられるのである。


■未達者に対する懲罰としてのミサンドリー*

 では次に、2.のタイプのエコシステムからの未達者に対する懲罰としてのミサンドリー*の説明をしよう。

 このミサンドリー*は先にも簡単に触れたようにポンコツを罰するという形のミサンドリー*である。そして、下位者のポンコツを罰することで性差別エコシステムにおいて上位者にとって快適な環境を創り出す機能を果たす。この機能のメカニズムを教育機関の譬え話で説明しよう。

 まず、未達者に対する懲罰としてのミサンドリー*を理解するにあたって必要な大学の仕組みをまず示そう。

 大学等の教育機関において、学生は卒業単位を揃えなければ卒業できずに退学となる。また、各科目において単位が認定される際も、単位認定基準をクリアしなければ単位不認定になる。この制度によって、学生は卒業単位を揃え、また各単位をクリアするにように努力する。また、各科目において単位認定基準を卒業までにクリアできない人間は単位認定者としては排除され、卒業に必要な単位数に満たなければ卒業者から排除される。このセレクションによって大学卒業者の人材としての水準は確保される。そして、この大学のメカニズムによって大学卒業者を採用する企業側のリクルート環境は良くなる(註2)。

 最終的に優良な大卒者を企業に提供して企業にとって快適な環境をつくり出す、大学において働いているメカニズムと同様のメカニズムが、性差別エコシステムにおいて優良な下位者の性別の人間を提供して、上位者の性別の人間にとって快適な環境を創り出すのである。

 このメカニズムにおいてミサンドリー*は、ミサンドリー*を浴びせかけることで「上位側の人間から見て"単位不認定=未達者"となる下位側の人間像」をアナウンスし、実際に「上位側の性別の人間から見て未達となる下位側の人間」を罰して、未達の下位側の性別の人間を「上位側の性別の人間のパートナー」となることから排除し、同時に、その罰による威嚇によって下位側の性別の人間が上位者から見て未達者になることを予防するのである。

 更にこのときに注意が必要な事として、未達者に対する懲罰としてのミサンドリー*の発動は、上位側の性別の性別の人間に対する下位側の性別の人間の加害や害意の有無を問わないことである。

 このことをミソジニーおよびミサンドリー毎に分けて具体的に見よう。

 まずはミソジニーついて見よう。

 女性差別エコシステムにおける未達者に対する懲罰としてのミソジニーは、典型的には「メシマズ女性や不器用な女性等」に対して浴びせられる。もちろん、男性であってもメシマズであることや不器用であることは美点とはされない。しかし、女性差別エコシステムにおけるメシマズ女性や不器用な女性に対する苛烈な蔑視と比較すれば、女性差別エコシステムにおけるメシマズ男性や不器用な男性への評価はそよ風のようなものだ。女性差別エコシステムにおいて公然と吊るし上げられるメシマズ女性や不器用な女性の存在は、「料理の技能や器用さ」において一定の基準以下であると女性差別エコシステムにおいて懲罰の対象となることをアナウンスする。また、メシマズ女性や不器用な女性を「男性のパートナーとして相応しくない」と見做して罵倒と共に排除する。そしてそのミソジニーの恐怖によって料理の技能や器用さの向上の努力を女性に払わせ、メシマズ女性や不器用な女性になることを予防するのである。また女性差別エコシステムにおける未達者に対する懲罰としてのミソジニーは、メシマズ女性や不器用な女性が男性に対して敵意や害意あるいは加害行為が無かったとしても、浴びせかけられるのだ。

 次はミサンドリーについてみよう。

 男性差別エコシステムにおける未達者に対する懲罰としてのミサンドリーは、典型的には「"チー牛"と侮蔑される男性等」に対して浴びせられる。もちろん、女性であっても"チー牛"男性のような、野暮ったく覇気の無い容姿がいまいちパっとしない陰キャであることは望ましくない。しかし、男性差別エコシステムにおけるチー牛男性に対する激烈な蔑視・敵視と比較すれば、野暮ったく覇気の無い容姿がいまいちパっとしない陰キャの女性への軽視など蚊に刺されたようなものだ。男性差別エコシステムにおいて公然と吊るし上げられるチー牛男性の存在は、如何に「洒脱さ、明るさ、覇気、容姿等」において一定の基準以下であると男性差別エコシステムにおいて懲罰の対象となるかを如実にアナウンスする。そして、チー牛男性を「女性のパートナーとして相応しくない」と見做して罵詈雑言と共に排除する。そして、そのミサンドリーの恐怖によって「洒脱さ、明るさ、覇気、容姿等」の向上の努力を男性に払わせ、チー牛男性になることを防止している。また男性差別エコシステムにおける未達者に対する懲罰としてのミサンドリーは、チー牛男性が女性に対して敵意や害意あるいは加害行為が無かったとしても、浴びせかけられるのだ。

 ただし、ここでミサンドリー特有の事態がある。それはケイト・マンの理論が大きく関わる

 ケイト・マンの理論はもともと「ミソジニー」を説明する理論だ。そしてそれを悪用する形で、チー牛男性に対して事実無根の邪悪さのレッテルを貼り付け、その邪悪さ故に道徳的にチー牛男性は憎悪される存在なのだとの物語を捏造したのである。そう、「チー牛男性は、女性に対して逆恨みからくる敵意を抱いて加害行為を行う邪悪な男性である」というフィクションを、ケイト・マンの理論を援用することで創り出したのだ。

 このことは、女性差別エコシステムであった、かつての昭和時代の日本社会においても見られない現象だ。昭和時代にメシマズ女性や不器用な女性に対して如何にミソジニーが向けられようと、そのミソジニーを浴びせた上位側の男性はメシマズ女性や不器用な女性が男性に対して敵意や害意を持つ邪悪な女性であるというレッテルは貼り付けなかった。つまり、メシマズ女性や不器用な女性の邪悪さ故にメシマズ女性や不器用な女性が憎悪されるなどという物語を捏造しはしなかった。仮に、メシマズ女性や不器用な女性に対して「彼女らは男性への敵意や害意を持つ」という考えを男性が抱いたとしても、ケイト・マンのミソジニー理論といった権威を利用して正当性を主張し、「葵の御紋」を振りかざすチー牛男性に対するミサンドリーとは、大きく異なっているのだ



註1 体制外ミサンドリーについて簡単に触れておこう。その意図としては、体制外ミサンドリーは本稿では扱わないので概念の提示だけでは空疎な概念と感じられてしまう虞があるためである。早速、最近の具体的事例から一つ挙げておこう。
 日本でジェンダー関連にある程度の興味のある人なら周知の、領収書すら補助金を出した東京都に見せようとしない不適切な会計問題で住民訴訟の渦中にある某女性支援団体が起こした、「リーガルハラスメント記者会見」が典型的な体制外ミサンドリーである。それというのも、「まともな会計処理を行う」ということは性差別とは一切関係の無い価値体系(≒イデオロギー)からの規範であって、この価値体系によって形成されている、某団体よりも遥かに巨大な一般社会というエコシステムからの、「マトモな会計処理を行え」との圧力に対する反撃が、住民訴訟を提訴した男性に対するミサンドリーの形で現れているからである。
 換言すれば、フェミニスト・エコシステム外部からのキチンと会計処理を行えとの真っ当な干渉に対する、当該女性団体を含めたフェミニスト・エコシステムの防衛反応は、当該圧力を「イデオロギーとしてのフェミニズムを共有しない外部の男性社会が、フェミニスト・エコシステムに攻撃を仕掛けてきた」という形で解釈して、防衛反応を「外部からのミソジニーに対する女性の反撃」という形にしてしまっているために、体制外ミサンドリーと言えるのである。
 因みに、この圧力は女性支援団体にのみ掛けられるものではなく、公金を扱う全ての団体にかけられるものであるから性差別とは一切関係が無い。それゆえ、この「まともに会計処理を行え」との圧力はミソジニーではありえない。

註2 まぁ、日本の文系学部だとそのように機能しているかアヤシイ部分があるが、医療系や理工系であれば大体そのように機能すると想像しても、そこまで非現実的ではないだろう。



■付記

 離脱者に対する懲罰としてのミサンドリーとして「上野千鶴子氏のミサンドリー」と「同人誌の二次元キャラで自慰行為をした彼氏のスマホを叩き割ったミサンドリー」を実際の事例として挙げ、また、未達者に対する懲罰としてのミサンドリーである、チー牛男性に対するミサンドリーを詳細に取り上げた論考が、本来、この論考にはついていた。

 しかし、加筆した部分によってそれらを含めると長大になり過ぎるため、次回の以下のnote記事とに回すことにした。また当該記事は、離脱者に対する懲罰としてのミサンドリーの事例の考察だけを独立させて記事にしてある。

 また、未達者に対する懲罰としてのミサンドリーである、チー牛男性に対するミサンドリーを詳細に取り上げた論考については、現段階では未投稿だが「チー牛男性はなぜ謂れなき罪を被せられるミサンドリーに遭うのか」という題名のnote記事にする予定である。

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