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男性の性的活動の自主権否定の為のミサンドリー

 本稿は、前回のnote記事「性差別エコシステムの暴力装置としてのミサンドリーとミソジニー」の続編となる記事である。前回記事で触れた男性差別エコシステムにおける離脱者に対する懲罰としてのミサンドリーの具体例を実際に見ていく、という位置づけの記事である。とはいえ一応、独立した記事としても読めるようにはなっているとは思う。そうはいっても、やはり分かり難い部分も多々存在すると考えられるので、出来るのであれば以下の二つのnote記事に目を通してもらえると幸いである。


■アナウンスメント効果を持つミサンドリーの典型例

 離脱者に対する懲罰としてのミサンドリーに関してアナウンスメント効果が顕著である典型例として、日本を代表するフェミニストである上野千鶴子氏の有名なギャルゲーオタクに対するミサンドリー発言をここでは取り上げる。

 上野千鶴子氏のミサンドリー発言は、もちろん、具体的個人を名指しして非難するものではなく、ギャルゲーオタクといった生活様式に対する侮蔑である。それゆえ、それが懲罰であるとの印象を抱きにくいかもしれない。

 しかし、"世界的に正しい"というフェミニズムというイデオロギーの権威、上野氏の日本におけるフェミニズムの第一人者という声望、また、国内の大学で最も権威のある大学である東京大学の教授が持つ権威、そして、学術全般が獲得している社会からの信頼を背景に、彼女のミサンドリー発言は「我々の社会において彼らを嘲って公然たる蔑みの対象にしてよい」とのスティグマをギャルゲーオタクという生活様式を持つ男性に焼き付けるものだ。すなわち、彼女のミサンドリー発言は、権力者からの「アイツらは村八分の対象だ」との宣告に他ならないのである。それゆえ、上野氏のミサンドリー発言は、「男性差別エコシステムにおいて懲罰の対象となる人物像」を指し示す顕著なアナウンスメント効果を持つ、懲罰としてのミサンドリーなのである。

 では、実際に上野氏の発言を以下に引用しよう。

上野千鶴子ほか(2026)『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎

 フェミニズムにカブれて上野千鶴子というビッグネームの権威に目が眩む人間は理解しようとしないかもしれないが、実にミサンドリックな発言ではないか。もちろん、語彙や口調から罵倒しているという表層的な話ではない。もっと根本的なところで彼女の発言はミサンドリー言説なのだ。

 そのことを理解するために、引用の上野氏の発言とパラレルの関係にあるミソジニックな言説を提示するので、その言説のなかに如何に明白な家父長制イデオロギー(=女性差別的イデオロギー)に従属させようとする無意識的なミソジニーがあるかを観取して欲しい。

「お一人様女性たちは自由でいたいから、今後も結婚する気も無くて働き続ける気でいるんだって。彼女らの老後は誰が面倒みるんだろうねぇ。きっと高齢者になった彼女らは不良債権化するね。まぁ、親兄弟に迷惑を掛けることなく平和に死んでくれたらいいですよ。ワガママで自分勝手な女を再生産しなくてすむからね。ところが、彼女らが間違って子供をつくったら大変だ。子供が出来たら自由気ままには生活できないんだから。不自由が我慢できない親のもとに生まれた子供は災難ですよ。そう考えると少子化はOKですよ。」

上野千鶴子氏のミサンドリー発言とパラレルなミソジニー言説 (筆者作成)

 さて、2020年代の日本に暮らしているかぎり、余程の旧時代人でなければ「家父長制イデオロギー」から我々は解き放たれている。したがって、私が作成した上記のミソジニー言説を読んだときの感想は以下のようなものだろう。

ほっといてやれよ。男に向かって彼女らがギャーギャー文句を叫んでるわけでもないのに、なんでアンタは彼女らを声高に罵倒しているわけ?彼女らは男に頼らずに一人で生計費稼げているんだろそれでいいじゃないか。あと、赤の他人のアンタが彼女らの老後や産むつもりもない子供についてアレコレと口出ししてバカにしていい理由なんて無いだろ。もし仮に彼女らが子供をつくって彼女の子供が彼女と似たような人間になったからってアンタに何の関係があるというんだい?それから、上から目線で随分偉そうにご高説垂れているけど、どういう根拠からアンタが彼女らより上の立場と思っているんだね。まったくアンタの主張は彼女らにとって大きなお世話だろうよ」

上野発言とパラレルなミソジニー言説に対する架空の感想 筆者作成

 ミサンドリー言説である上野発言および私が作成したミソジニー言説を読み比べ、その上でミソジニー言説に対する架空の感想に目を通したならば、上野発言のミサンドリーがどのような構造を持っているか把握できたのではないだろうか。

 ミソジニー言説に登場するお一人様女性が、男性と一切関係が無い所で生計費を獲得して暮らしているのと対になる形で、上野氏が痛罵しているギャルゲーでヌく男は、女性と一切関係の無い所で性欲処理をして暮らしているのだ。つまり、両者とも「異性に依存することなく独立して生活している」のである。それゆえ、両者とも外野からアレコレと口を出される理由はどこにも存在しない。そんなスタンドアローンの存在に対して「お前たちは出来損ないで社会のお荷物だ!」と罵倒することが如何に不当か理解できるだろう。そして、不当であるにも関わらず「私たちの社会に適合していない」という形で圧力をかけているからこそ、ミサンドリー(あるいはミソジニー)言説は性差別イデオロギーに奉仕する暴力装置として機能するのである。

 では、なぜフェミニストである上野氏はミサンドリー言説をギャルゲーでヌく男に叩きつけたのかを考察しよう。

 結論を先に言えば、「ギャルゲーでヌく男」という存在が男性差別エコシステムにとって不都合だからだ。男性差別エコシステムにおいて性欲処理(の実作業)を女性に依存しない男性は、女性差別エコシステムにおける生計費の獲得を男性に依存しない女性と同じなのだ。異性の存在が必須ではない人間は、「オマエとはペアになってやらないぞ!」という脅しが通用しない。まぁ必ずしもペアである必要は無いのだが、供与する性愛上の便宜(因みに、女性差別エコシステムにおいては経済上の便宜)を特段必要としないならば、供与する便宜を人質にとってお互いの関係性における序列の上下を押し付けることはできないのだ。それゆえ、「ギャルゲーでヌく男」という存在が男性差別エコシステム(=女性が上位存在であり、男性が下位存在であるエコシステム)にとって不都合なのだ。

 そこには、家父長制イデオロギー=女性差別イデオロギーに不都合な「生計費の獲得を男性に依存しない女性」を、ミソジニーの強制力によって家父長制イデオロギーを遵守する存在に変える、あるいはミソジニーの恐怖を他の女性に与えることによって「生計費の獲得を男性に依存しない女性」となることを予防したのと同じ力学が働いている。すなわち、男性差別イデオロギー(=女性優遇を目指すフェミニズム)に不都合な「性欲処理(の実作業)を女性に依存しない男性」を、ミサンドリーの強制力によって男性差別イデオロギー(=フェミニズム)を遵守する存在に変える、あるいはミサンドリーの恐怖を他の男性に与えることで「性欲処理(の実作業)を女性に依存しない男性」となることを予防しているのだ。

 つまり、上野氏のミサンドリー言説および、それとパラレルなミソジニー言説は「それぞれの性差別エコシステムから離脱する存在への懲罰という形で機能しているのである。


■サンクション効果を顕著に持つミサンドリーの典型例

 これまで述べた上野千鶴子氏のミサンドリー言説の構造の分析を見ても、「それはアナタの感想ですよね?」とヒロユキ流に一笑に付す人もいるかもしれない。そこで、男性差別エコシステムからの離脱者への懲罰としてのミサンドリーが物理的暴力となっている事例を、次のXのポストから確認しよう。 

 言い逃れできない程に明確なDV(ドメスティックバイオレンス)である。もっと言えば、他人の財産権の侵害であり、器物損壊罪に当たる犯罪行為である。それにもかかわらず、「相方のスマホをハンマーで叩き割ったこと」を社会において成立すべき正義の執行として認識し、当該DV女性は当然の権限行使であるかのように振る舞っている。このことは自身の行為を正当化するイデオロギーを彼女が保有していることの証左である。

 では、このときの彼女が保有しているイデオロギーの性質を考察しよう。

 Xのポストにおいて「男性の皆さん」という呼びかけで自己の考えを当該DV女性は述べているところから、彼女個人と彼女の彼氏という彼女ら特有の関係性ではなく、男性と女性という一般的な関係性において「男性は女性からの権利侵害を当然のものとして受け止めるべきである」と考えていることが分かる。つまり、彼女のイデオロギーには明らかに権利ないしは権限において女性上位男性下位のジェンダー非対称性が存在している。したがって、自己のDV行為を正当な行為と認識させている彼女のイデオロギーは、男性差別イデオロギーであると断定できる。

 次に、「男性のスマホをハンマーで叩き割ったこと」とのミサンドリーが何に対する懲罰なのかについて考察しよう。

 当該DV女性が「彼はDVで懲らしめられるに値する」と判断した理由として挙げたものは「彼が2次元の同人誌で自慰行為をしたこと」である。つまり、フェミニストの上野千鶴子氏がミサンドリー言説を浴びせかけたケースにおける「ギャルゲーでの自慰行為」と同種の行為である。すなわち、「現実の女性から供与される性愛以外の形で性欲処理を行った」ということが、懲罰対象となった理由である。

 もっと正確にいえば「女性が許諾する形での性欲処理以外の手段で性欲処理を行った」が故に、当該DV女性は彼氏にミサンドリーである物理的暴力行為を懲罰として執行したのであり、上野千鶴子氏はミサンドリーである罵詈雑言を懲罰として浴びせかけたのである。言い換えると、当該DV女性も上野千鶴子氏も「男性の性的活動の自主権」を否定すべくミサンドリーを実施したのである。

 ここで誤解が生じないように注意しておくが、両性の性的活動の自主権は排反的ではない。すなわち、男性の性的活動の自主権は女性の性的活動の自主権を否定しないし、女性の性的活動の自主権もまた男性の性的活動の自主権を否定しない。そうであるにも拘らず、男性差別エコシステムにおいては、男性の性的活動の自主権を否定するのである。

 このことは、女性差別エコシステムにおける「女性の経済活動の自主権」を否定するミソジニーとの対比で考えれば容易に理解できるだろう。両性の経済活動の自主権もまた排反的ではない。すなわち、女性の経済活動の自主権は男性の経済活動の自主権を否定しないし、男性の経済活動の自主権もまた女性の経済活動の自主権を否定しない。それにもかかわらず、女性差別エコシステムにおいては、女性の経済活動の自主権を否定するのである。

 対比によって理解できたと思うが、ミサンドリストもミソジニストも「異性の自主権」をそれぞれの性差別エコシステムにおいて否定する為に、ミサンドリーやミソジニーを異性に対して実施するのである。

 異性の自主権を否定するために懲罰として実施されるミサンドリーやミソジニーについて事例に即す形で考察しよう。

 ギャルゲーで抜く男性を罵倒する上野千鶴子氏も当該DV女性も、懲罰対象の男性が性欲処理をするにあたって不同意性交等の女性の性的活動の自主権の侵害したから懲罰としてミサンドリーを行使したのではない。

 当たり前の話だが、ギャルゲーのキャラや同人誌の二次元キャラといったフィクション上の存在は、現実の女性とは異なって(性的活動の自主権を含めて)権利主体となることはない。つまり、ギャルゲーや同人誌で性欲処理をしようが、女性の性的活動の自主権を侵害することはそもそも起こり得ない。

 このことから明白なように、ミサンドリストにとっては女性の性的活動の自主権が問題なのではなく、男性の性的活動の自主権が問題なのだ。男性差別エコシステムにおいて男性には性的活動の自主権が認められていないにもかかわらず、「女性が許諾していないギャルゲーや同人誌という手段で性欲処理をする」という形で男性が性的活動の自主権を行使したことがミサンドリストにとっては問題なのだ。男性差別エコシステムにおける無権利者の権利行使であるからこそ、上野千鶴子氏や当該DV女性は「罵詈雑言を浴びせる/男性のスマホを叩き割る」というミサンドリー行為を、男性に対する懲罰として実施したのである。

 別の観点から見れば、性的活動の自主権を持った男性は、男性差別エコシステムが男性に課している頸木からの自由になった男性である。更に、ギャルゲーや同人誌で性処理する男性は、女性が供与する性愛上の便宜を必要としない。したがって、男性差別エコシステムにおいて従属的地位に甘んじる必要は無く、そのエコシステムから離脱することが可能となった男性である。男性差別エコシステムの維持にとって同様の男性の発生の防止は不可欠であるために、懲罰の威嚇効果を目的としてミサンドリー行為は実施されるのである。


■付記
 本稿は、ここ最近の一連のケイト・マンの理論およびミソジニー・ミサンドリー関連のnote記事の大元になった論考の、もっとも古い部分を独立させたものである(※元々の論考は「ケイト・マン型ミソジニーと同型のミサンドリー」との題名のものだった)。それゆえ、先の二つのnote記事との関係において、議論の流れが未整理のままである感が拭えない。

 しかし、議論の流れの整序を行う等の修正をすることは、これまでの経験上(実はnoteにおいて修正途中でお蔵入りしている記事がかなりある)論考を出稿する可能性をかなり低下させる。別に理屈が破綻していると気付いて取りやめた訳でもないのだが、「まぁ、仕事じゃないし」という私個人の気分によって完成させずに放置してしまうのだ。一通り自分のなかで理解しきった気になると、わざわざ公表するモチベーションが激減してしまうのだ。

 実に個人的で身勝手な事情ではあるのだが、そのような事情で乱雑で未整理な論考に付き合わせた読者諸賢にお詫び申し上げる。





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