「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」の図を象徴とする、女性差別を訴える人間の不誠実な態度
X(旧Twitter)上でしばしばネタになる有名な「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」というイラスト図がある。先日も以下のnote記事においてこのイラスト図を題材として取り上げたのだが、そのときは"サラリーマンの一日"を中心に論じた。
今回は逆側の"専業主婦の一日"に関して論じていきたい。とはいえ、件のイラスト図の"専業主婦の一日"の問題はかなり多岐に亘る。したがって、本稿で取り上げるのはその一部であり、他の観点から問題視できる箇所は別稿に譲ることにする。
さて、件のX(旧Twitter)上でしばしばネタになる有名な「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」というイラスト図とは以下の図である。
上の図を見てまずツッコミたくなるのは"サラリーマンの一日側"だろう。「このサラリーマン、仕事してないんだけど、どういうこと?」とマトモな思考ができる人間なら気付くと思うのだが、この図の作成者は気付かなかったらしい。この段階で「この図をつくった奴の香ばしさがプンプン臭ってくるなぁ」と分かるので、ゴチャゴチャ書いている"専業主婦の一日側"はチラッと眺めてお終いにした人も少なくないのではないだろうか(何を隠そう、かつての私自身がそうだ)。
今回改めてキチンと"専業主婦の一日側"に目を通してみると「やっぱり、コッチ側もトンデモか」と予定調和の認識が得られた。
まぁ、トンデモを垂れ流す人間など腐るほど居るので、「あくまでもその一つ」である当該イラスト図の内容そのものに価値は無い。しかし、イラスト図Ⅰはネットミームとして有名なので、ある意味でのベンチマークとして価値がある(この図を取り上げる記事において今後「イラスト図Ⅰ」と呼ぶ)。すなわち、「お前さんの男女の大変さの比較は、あの『専業主婦の一日、サラリーマンの一日』の比較みたいだな」と指摘できるようになるという形でイラスト図Ⅰはトンデモ比較のベンチマークになるのだ。
したがって、イラスト図Ⅰがベンチマークとして「それがどれくらいトンデモなのか」と明確にしておくのはそれなりに意義があるだろう。そこで何回かの記事に分けてイラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」のトンデモっぷりを見ていこうと思う。
■書き込まれたタスクの転記
「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と題されたイラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」を考察するにあたって、イラスト図Ⅰの文字では見えにくいので、テキストデータとして転記し、さらに番号を付しておこう。また、考察の便宜のために、各項末尾は適切になるよう改変して、イラスト図Ⅰにおいては単一の項であってもタスクとして異なる場合は分割しておこう(分割の結果で分りにくくなった場合は補足も追加)。もし、加工前の状態について確認したい場合は、列挙の順番自体には手を加えていないので適宜もとの引用済みのイラスト図Ⅰで該当部分を確認して欲しい。
イラスト図Ⅰに書き込まれた「専業主婦の一日」は以上である。これを用いて書き込まれた「専業主婦の一日」の内容と、そこから窺えるイラスト図の作成者の態度や認識・思考および価値観について考察していこう。ただし、本稿で扱うのは、イラスト図Ⅰの作成者の態度についてである。
■正確な状況説明なのかポジショントークなのか
自分が大変な状況や惨めな状況に陥っていると正確に伝えることを目的した説明にはある特有の困難さがある。その状況説明の特有の困難さとは、それが大変さアピールや惨めさアピールとして誤解されやすいために、その類のものではないと相手に理解してもらうことの難しさである。仮に「本当に大変な状況であり、惨めな状況であった」としても、その自分の置かれた状況に対する「相手から誤解を受けずに正確に状況が伝わる説明」のハードルは中々に高い。
「大変だけど頑張っている」「惨めな状況だけど頑張ってる」というものは御伽噺・小説・漫画・映画等で手垢のついたお涙頂戴のクリシェである。大変さアピールや惨めさアピールは「だからもっと評価しろよ!」「だからもっと同情しろよ!」という要求を言外に含んでいる。また、自分の大変さを誇張することは最早お約束として人口に膾炙している。それゆえ、大変な状況や惨めな状況に陥っている状況に関する十分な説明が無い場合の、「私は大変or惨めな状況にある!」との主張は、「ハイハイ、そういう風に自己演出したいのね。そして、アナタはズルしてでも、本当に大変な人間や惨めな目に遭っている人間と同じ特別扱いをして欲しいのね」と解釈される場合が多い。
状況説明を受ける側に生じている、あまり望ましいとは言い難いひねくれた事態は、そもそも情報発信側の事情である「正確で誤解のない情報伝達などよりも自己利益を優先する」という態度の人間が少なくないことに起因している。得てして、本当に大変・惨めな人間と理解されれば殊更に大変さ・惨めさを訴えずとも必要な範囲で特別扱いされるため大仰には騒がない一方で、大して大変でも惨めでもない奴ほど大騒ぎして特別扱いを得ようとすることが多い。実に皮肉なことに、「誤解のない情報伝達という言論上の行為」と「大変さアピールや惨めさアピール」とは論調の抑揚が真逆になるため、大変な状況・惨めな状況を巡る言論は混沌となる。それゆえに、状況説明の受け手側からすると、周辺事情や前後の状況なども同時にみることで初めて、当該状況が本当に大変だったのか、本当に惨めだったのかが判断できるようになる。
大変さアピールや惨めさアピールと解釈されかねない状況において、相手に自分の状況を正確に伝達することを目的とするときは、客観的に見て自分の置かれた状況が「大変・惨め」と評価され得るかどうか判断しなければならない。なるべく誤解を与えないように相手に伝えることを志向するのであれば、自分が大変と感じている、自分が惨めと感じているときほど、自己の置かれた状況に対する客観的判断が重要となってくる。そして、自己の大変さ度合いや惨めさ度合いによって状況説明の論調を抑制的にするか強調的にするか適切に選択しなければならない。
実際の状況が誰の目から見ても「大変そうな状況だ」「惨めな状況だ」と判断してもらえる状況であるならば、状況説明に強調的表現を用いても大変さアピールや惨めさアピールとの誤解を受けない。しかし、そのような状況に無いとき、大仰な表現による状況説明は大変さアピールや惨めさアピールと解釈されてしまうのだ。したがって、客観的には大したことに見えない場合においては抑制的表現を心掛けなければ、正確に状況を伝える説明として素直に解釈してもらえない。すなわち、主観的にはともかく客観的には大した事が無さそうな場合の大仰な表現の状況説明は大変さアピール、惨めさアピールといったポジショントークとして捉えられてしまうのだ。
また逆に、客観的のみならず、主観的にも大したことのないと理解しつつ大仰に状況説明をするとき、それはポジショントークをしているのであり、状況説明をする人間としては利己主義で不誠実な態度なのである。
■比較というものは、比較対象を「天秤にのせる」ということ
何事かを比較する際に注意すべきことは、事前の段階において「一方は過大となり、他方は過小となる」ような扱いをしてはいけないという点である。このことは、天秤でイメージすると理解し易い。
天秤で二つの物体の重さを比べるとき、天秤自体に関して「同じ重さの物体を左右に載せたときは釣り合い、一方が重いときは重い方に傾く」という状態にしておかなければならない。つまり、事前に天秤の左右の腕の長さを変えて一方の側が重く見えるように調整して「同じ重さの物体を天秤の左右に載せても釣り合わずに一方が下がる、あるいは一方が重くて他方が軽くとも釣り合う」という状態にしてはいけないのだ。
同様に、比較を行うときには「同じものは同じ、違うものは違う」と認識できるようにしなければならない。逆に言えば、同じであるにもかかわらず異なるように認識する、あるいは異なるにもかかわらず同じであると認識するような比較は、方法論の観点から失格である。狂った計量器を用いて何かを測定しようとしても間違った値しか得られないように、方法論の観点から間違っている思考でマトモな主張が出ることは無い。
また、天秤に載せて比べるものについて、コッソリと入れ替えてしまえば当たり前のことだが、マトモに比べることなどできない。比べようとするならば比べようとする当のものを天秤に載せなければならない。もし、そこでコッソリと別の物を天秤に載せるようであれば、そのようなことをする人間はズルをする不誠実な(態度の)人間である。
同様に、比較を行うときには比較対象そのもので比較しなければならないにもかからわらす、別の対象にコッソリ入れ替えて比較するとき、マトモな比較にはならない。そして、比較対象をコッソリと入れ替えて比較するようなズルをする人間は不誠実な(態度の)人間である。
本稿で取り上げる「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」の比較について述べよう。
「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と銘打たれた比較は、通常、「専業主婦の特別でもない何気ない普段の一日」と「サラリーマンの特別でもない何気ない普段の一日」との比較と解釈される。すなわち、「専業主婦の特別な一日」と「サラリーマンの特別な一日」の比較ではない。更に言えば、「専業主婦の特別な一日」と「サラリーマンの特別でもない何気ない普段の一日」の比較でもなければ、「専業主婦の特別でもない何気ない普段の一日」と「サラリーマンの特別な一日」の比較でもない。もしも例示したような特殊な比較なのであれば、その旨を断り書きに入れなければならない。そのような断り書きも入れずに、普段の一日ではなく特別な一日に入れ替えて特殊な比較をコッソリと行っているようであれば、それは比較を行う人間の利己的で不誠実な態度を表しているのだ。
■普段の睡眠時間が3時間だって?
さて、「専業主婦の一日」についても書かれた内容はツッコミどころ満載なのだが、真っ先に異常なことに気づくのが最初[1]と最後[87]に書かれた起床時刻と就寝時刻である。
これを計算すると一日3時間睡眠となる。もちろん、睡眠時間が3時間となる日が存在し得ないとは言わないが、普段から睡眠時間3時間であるような生活はまずあり得ない。たとえ事実として睡眠時間3時間であるような特別な一日が存在していても、そんな例外であるような事態を「専業主婦の(特別ではない)一日」としてシレっと入れ込むようでは、自分の生活パターンすら正確に把握していないことを窺わせる(※前回のnote記事で取り上げたイラスト図Ⅰを批判するための2つのイラスト図でも当初のイラスト図に合わせて睡眠時間を3時間にしているが、これはイラスト図Ⅰのヘンテコさを明確にするために作為的に行ったものだろう)。
また、私個人も繁忙期に睡眠時間が3時間程度となるような日々が2-3週間続く仕事を体験したが、アレは3か月も続けば心身に深刻なレベルの失調が現れる生活だ。私個人の体験談だけでなく、医学的な研究からも3時間睡眠の日々を送ることが不健康であることを示す結果を容易に見つけることができるだろう。つまり、個々人で違いはあるだろうが、睡眠時間3時間で健康な日々を過ごせる人間はごくごく例外的な存在といえる。そして、おそらくなのだが、イラスト図Ⅰの作成者であるputten 氏は睡眠時間3時間が連続する日々というものがどういうものなのかの理解が全くない。それゆえ、睡眠時間3時間の生活が"普通の一日の生活"であるかのように「専業主婦の一日」と称してもバレないと考えているのだろう。
このことは、putten 氏の認識に関して、局所的・部分的には専業主婦の実態に関する解像度が(自分事だから)細かかろうが、大局的・全体的には自らがそうである専業主婦の実態すらマトモに把握できていないことを示している。そして、普段の一日を伝える文脈において特別な一日を提示するという不誠実な態度を取るのである。
■熱いコーヒーも飲めなければ湯舟にも浸かれないだって?
イラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」における、純粋に自分の為だけの生活上の行為を次に見てみよう。
上記の内容は情景を想像するとかなり惨めである。それが明確に分かるように夫と妻を対比させて表してみよう。
サラリーマンの夫は朝食で熱々のコーヒーを飲む一方、専業主婦の妻は朝食で冷めかけたぬるいコーヒーを飲む
夫の昼食は弁当で妻の昼食は菓子パン
夫は保温された水筒のそれなりに熱いコーヒーを飲む一方、妻は昼食で冷めきったコーヒーを飲む
夕食について夫は同僚と外食するが、妻は一人さびしく自分だけで食べる
湯舟にお湯を張っている(そして夫は湯舟に浸かる)のに、妻は湯舟に浸かることなくシャワーのみ
だが、コレが普段の日々の情景と考えるには無理がある。もちろん、夫婦は千差万別なので普段の日々の生活が上記の状態となっている夫婦がゼロであるとは言い切れない。また、個々の状況に関して或る日が偶々そうなっているということは十分に有り得ることではある。頻度についても、滅多に無いレベルではなく、しばしばある事といったレベルで生じるということも有り得るだろう。しかし、上記の状況が、専業主婦の一日としてデフォルトの状況なのだと主張されると首をひねらざるを得ない。
そのヘンテコさ加減について個別的に見ていこう。
朝食のコーヒーについて「夫と同時に朝食を食べれば熱々のコーヒー飲めるじゃないか」という疑問が湧く。妻の昼食が菓子パンなのも「嫌なら昼食作ればいいし、一人分作るのが手間なら夫の分と併せて弁当を自分の分も作ればいいだけじゃない?」と思える。また、昼食のコーヒーも新しく淹れ直せばいいし、朝のコーヒーがいつも残っているならば単にそれは朝に淹れ過ぎなだけである。更に、夫の夕食がいつも同僚との外食で妻はいつも一人で食べているならば、(後述するが)夫の分の夕食がどうのこうのといったタスクが存在しないハズである。しかし、夫の分の夕食を用意したにも関わらず無視されて激昂している様子から判断すると、普段は二人で夕食を食べていると判断できる。まぁ、同じ料理は食べるが時間差でお互い一人で夕食を食べている可能性はあるが、それならば不満気な様子を見せていることが不可解である。
もっともヘンテコに感じるのが、「夫の為に湯舟は保温にして自分はシャワーを浴びる」である。
もちろん、単に「自分が湯舟に浸かった後シャワーを浴びて湯舟の湯を抜かずに保温にしてそのままにしている」という事態を表している可能性も無くないが、それならば普通の事なので「入浴する」と書くだけで十分に伝わる。つまり、態々「夫の為に湯舟は保温にして自分はシャワーを浴びる」と書く以上、「夫の為だけに湯舟にお湯を張り、自分はシャワーだけで済ます」という行為を指していると考えて良い。
だがそうすると奇妙な話に聞こえる。
「妻はシャワーだけでいいのに、夫が風呂好きだから湯舟にお湯を張らざるを得ず不満である」という事態を指しているのだろうか。しかし、現代日本人の生活習慣として毎日の入浴はごく一般的であるので、夫の風呂に対する普通の嗜好を非難することは、妻の言い分に道理が無い。
では、「妻が一番風呂に入ること、ないしは毎日湯舟に浸かること自体が許し難い」と夫が感じて、妻が湯舟に浸かることを禁止しているのだろうか。そんな封建時代か明治時代の旧家の話と同様のことが、西暦2000年から20年も過ぎようとしている現代日本でも、普通にあるのだろうか。もしそれが普通ならば、どうも私が生きている世界線とは異なるか、私の周囲は不思議と異常者の集まりであったらしい。
それとも、月経血で汚れたお湯に浸かることを嫌がる夫が、妻に月経中は湯舟に浸かることは自分よりも後にして欲しいと要請し、そして妻はひと月のあいだ月経が途切れることないために、夫が先に入浴する場合を除いて妻は湯舟に浸かれないのだろうか。
当て擦りはこの辺にして、イラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」における、純粋に自分の為だけの生活上の行為について判断しよう。
すべてが事実無根の作り話とは思わないが、それぞれ日々の食事や入浴のシーンにおけるデフォルトのシーンなのではなく、偶に生じる「嫌だった体験」の詰め合わせなのだろうと思われる。つまり、嫌だった体験を寄せ集めて「惨めで大変な専業主婦の日常」を演出しているのだろうと窺える。
このことは、取りも直さず、イラスト図Ⅰの作成者であるputten 氏が専業主婦の置かれた状況についての誠実な伝達者などではなく、単なるポジショントークを繰り出す利己主義者・ご都合主義者に過ぎないことを示している。
■ソレは偶にしか発生しないことでしょ?
イラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」として列挙されたタスクの中に、恰も毎日のルーチンであるかのように「毎日のルーチンではないタスク」がシレッと存在している。まずこの事を確認しよう。
少し考えれば分かる通り、銀行に行くことや宅配便荷物の受け取り、そして町内会関連作業は毎日発生するタスクではない。
夫がサラリーマンで妻が専業主婦であるような夫婦に、毎日のように銀行に行かなければならない用事などない。もちろん、まったく銀行に行く機会が無いという話ではなく、日々のルーチンとして銀行に行くことはないという話である。また、宅配便の荷物が毎日届く家など普通の家庭ではあり得ない。Amazonのヘビーユーザーでも、何らかの事業的利用をしているのでなければ、せいぜいが三日に一度の頻度で宅配便の配達が家にやってくる程度と言ってよいだろう。さらに、どこの世界の町内会が日々活動を行い、会合を開いているだろうか。毎日チラシ発行を行う町内会が何処にあるというのだろうか。町内会関連作業が専業主婦の毎日のルーチンワークとなることなどあり得ない。
このように、ひと月に数度行う機会があるかどうかのタスクと毎日行うルーチンワークの切り分けをせずに「専業主婦の一日」として挙げてしまうところに、自分の毎日のルーチンワークのタスクすらキチンと理解していないことが窺える。より正確にいえば「毎日のルーチンワークのタスク」として挙げると不自然となるタスクを理解していないと言った方がよいだろう。それゆえに、偶にしか行わないタスクを専業主婦の「普段の一日」で熟すタスクに混ぜ込んでバレないと認識するのだ。
そして「偶にしかしていないのに毎日している如くに偽装する行為」を是とする態度は、専業主婦の実態を正確に伝えようとする態度とは、誠実さにおいて雲泥の差がある態度なのだ。
■比較において「量・質・頻度を誤魔化す」という態度
具体的にイラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」を見る前に、正確な状況説明と正確な比較が成立する条件を論じた。その観点から評価したとき、イラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」に関し、専業主婦とサラリーマンの普段の一日の比較という文脈において、以下の偽装が見られる。
大量のタスクがあり3時間しか眠れないと偽装
質において不満足な生活しかしていないと偽装
頻度に関して、偶にしかしないことを毎日していると偽装
当たり前のことではあるのだが、偽装が施されたイラスト図Ⅰの「専業主婦の一日」は、正確な専業主婦の状況説明足り得ない。また、偽装を施すことは当然ながら不誠実な態度であり、イラスト図Ⅰの作成者の正確な状況説明についての発信者資格を失わせる。
端的に表現すれば「不正するな」という話なのだが、ジェンダー問題が絡む議論において、女性側はこの批判に対してフェミニスト御用達の概念を用いて「トーンポシリングするな!」と言い出すことがある。つまり、女性がどんな不正行為をしていても「それ、不正でしょ?」と批判することすらまかりならんという訳である。これぞ、フェミニズムが作り出した女性特権の一つと言い得ることだ。
女性側論者が女性の負担を社会に誇大表現で訴えかけるとき、このフェミニストの「トーンポシリング反対!女性の声を封殺しようとするのは家父長制に基づく男尊女卑の女性差別だ!」のシュプレヒコールによって、自分達がどんな態度に基づいてどんな言論行為を行おうとも、それを批判することはトーンポシリングや男尊女卑価値観に基づく言論弾圧という邪悪な行為として社会から糾弾されるべきものと考えるようだ。したがって、自分達は言論行為に関する一切のフリーハンドを得ていると認識しているので、どんな不誠実な態度で不正行為を行っても社会は許容しなければならないと錯覚しているようである。
今回のnote記事で取り上げたイラスト図Ⅰにも、「男女の負担の比較をするときに、女性側は過大に男性側は過小となるようにしてよい」という女性側の論者の認識がよく表れている。そして、同様のことは新聞記事等のメディアに論考を発表できる女性側論者の認識においても頻繁に見られる。
具体例として、男女で数分しか違わない総労働時間(=有償労働時間+無償労働時間)を伏せつつ、無償労働時間だけを取り上げて「女性の無償労働時間は男性の5倍だ!!」として女性の負担を殊更に主張する言説の記事が幾度も新聞紙上に登場する。
別の角度から見た、女性の家事負担と男性の家計負担の比較記事においても同様だ。
例えば、従来型の性別役割分業体制下における、女性の家事負担が最も重くなる乳児・幼児が居る家庭の家事負担とその時点だけの男性の家計負担の軽重を比較する。生涯全体での男性の家計負担と生涯全体での女性の家事負担の話は一切触れない。生涯全体での男性の家計負担と生涯全体での女性の家事負担でも比較する必要性もあることすら触れない。「女性の特別な時期」と「男性の普通の時期」を比較しているにも拘らず、そのことに対する注意喚起もない。すなわち「本稿は紙面の都合上、人生全体で見た家計負担と家事負担については触れなかった」といった断り書きすらないのだ。
以上のように、世の中において当然の顔をして行われる、女性側論者の不誠実な態度に基づく言論を、戯画的・象徴的に示したものが、あのイラスト図Ⅰ「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」なのである。
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