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ケイト・マンのミソジニー理論の罪状

 ケイト・マンのミソジニー理論の功罪は、スケールダウンさせたダーウィンの進化論に擬えることができる。つまり、ダーウィンの進化論が生物の進化に関する人類の知識を向上させる一方でレイシズムに正当性を与えた優生学を生み出したように、ケイト・マンのミソジニー理論は性差別イデオロギー(=家父長制)とミソジニーの関係性を明確にしたのと引き換えに男性差別とミサンドリーを正当化する理屈として社会に害悪を振りまくようになっている。

 とりわけ、害が大きいのはケイト・マンの「道徳財の経済(economy of moral goods)」理論である。道徳財とは「愛情・敬意・やさしさ・憐み・配慮・気配り・慰め・安全・安定等」を指し、彼女はその道徳財に関して、社会は女性が男性に一方的に与えるものとしてコード化しているとしたのである。言い換えると、道徳財に関して男性はtakerで女性はgiverと同理論では考えるという訳である。そして、ミソジニー犯罪を行う男性異常者の犯行の動機となった思想について、「俺は男だから社会に出たら参加賞として道徳財が女性から貰えるはずだ。それにもかかわらず、俺には参加賞の道徳財が与えられていない。これは女性の義務の懈怠であるのだから罰しなければいけない」といったものであると、同理論で説明したのである。更に、同理論では社会における体制側イデオロギーとして、当該男性異常者と同じ思想が採用されているのだと主張するのである。

 しかし、ケイト・マンが「道徳財の経済(economy of moral goods)」理論において主張するような、「道徳財を与える義務について、女性だけが負って男性は義務から免れる」との片務的関係は、少なくとも現代の先進諸国社会において成立していない。すなわち、近現代以前の社会に関してはともかく、現代の先進諸国社会では程度の差こそあれ道徳財を与え合う双務的義務として男女共に負っている

 ところが、ケイト・マンの理論を振り回して社会にヘイトを撒き散らしているフェミニストは、そんな現代社会における道徳財に関する男女の双務的関係について認識しようとしていない。まぁ、フェミニズムの「加害者=男性,被害者=女性」の枠組みにとって不都合だから見ないことにしているのだろう。何時も通りのフェミニスト仕草というわけだ。

 もちろん、ミソジニー犯罪を行う異常者である男性の思想に関するケイト・マンの理論は説得的であり、実際にそうであるだろう。そこに異論は無い。

 しかし、ケイト・マンの道徳財の経済の理論が、「ある種類の異常者の思想はこんな思想なんですよ」という分析を超えて、それが社会の体制側イデオロギーであると敷衍しているから問題なのである。

 フラットに考えれば明らかだと思うのだが、周囲から道徳財が得られない人間に関して、獲得できない理由の如何を問わず、周囲にルサンチマンを溜め込む人間が存在することに、男女の性別の違いは無いだろう。そしてルサンチマンを溜め込む人間のなかには「自分が不遇であるのは、周囲の人間や社会が悪いのだ」との他責・他罰思考に陥り周囲や社会に対する暴言・暴力を振りまく人間が現れることにも性差は生じない。実際、"クソオス"などの言葉を吐くSNS上のフェミニストを自称する少なくない女性アカウントを見れば、そこに性差がないことは明々白々だ。また当然ながら、境遇が同じ全ての人間が暴発するわけではないが、境遇を同じくする集団の中の異常者の存在に関して、男性異常者は存在する一方で女性異常者は存在しないといったこともない。

 つまり、ケイト・マンのミソジニーを説明する道徳財の経済の理論は、不遇な立場の人間の中に男女問わず現れる異常者の中から、男性異常者だけを取り上げて「彼らの思考とはどのようなものなのか」を明確にしたに過ぎない。それにもかかわらず、「その男性異常者の思想が社会の体制側イデオロギーなのだ」という、実に奇妙な理屈を持ち出してくるのだ。

 もちろん、異常者の犯罪の動機を分析し、異常者自身の内面において犯行を正当化する妄想世界の大義が、我々の社会の体制側イデオロギーに含まれてはいやしないか、と検討することに意義がないわけではない。もしも異常者の妄想世界の大義と似通った部分があるのであれば、それが萌芽であっても注意しなければならない。異常者の妄想世界の大義と共通する体制側イデオロギーの該当部分を、社会が(異常者が実行したが如くに)無思慮・無制限に敷衍していけば、巨大な悲劇に繋がっていくことは人類の歴史の教える所である。

 例えば、証拠が確実な3人を含め48人の患者の不審死への関連が疑われる大口病院連続点滴中毒死事件での久保木愛弓、死者19人の相模原障碍者施設殺傷事件の植松聖の妄想世界の思想において、生命への尊厳の軽視・過度のメリトクラシーあるいは優生学思想が窺える。前者は思想性が希薄で後者は思想性が濃厚とも言われるが、前者であっても「面倒臭ければ殺してよい」という強烈な思想がなければ、そうそう実行できる人数ではない。そして、異常者である彼・彼女の思想と同根の思想が、ナチスの優生思想である。そんなナチスの思想が体制側イデオロギーになったために、WW2 においてドイツではT4作戦(※ホロコーストの前準備となったドイツ人も含めた障碍者の安楽死作戦)が実施され、ホロコーストが行われた。

 つまり、個人レベルなのか社会レベルなのかの違いこそあれ、イデオロギーは惨劇を正当化してしまう。それゆえにこそ、個人が引き起こした惨劇を正当化したイデオロギーと社会の体制側イデオロギーに共通する点が無いかをチェックすることには、惨劇予防の観点からの意義がある。

 しかし、そのチェックにおいて比較検討する前から「妄想世界の大義=体制側イデオロギー」との前提を置くことは妥当ではない。

 確かに、異常者は世の中に存在する何らかの思想から自己の妄想世界の大義を発展させたかもしれない。しかし、事前の段階で「異常者の妄想世界の大義が、社会の体制側イデオロギーと共通するからこそ、異常な犯罪行為を行った」と考えるべきではないのだ。異常者の妄想世界の大義と体制側イデオロギーはあくまでも別物と考え、他山の石として反省材料に使うものだ。

 そのことは次の慣用句で表される事態を考えてみれば理解できる。

 「人の振り見て我が振り直せ」という慣用句がある。この慣用句で表される事態に関して、自分のダメな部分を他人が真似をしたからソイツはダメな振舞をしているのだと認識するのは非合理的な認識である。根本的に、他人の振舞はあくまでも他人の振舞であり、自分の振舞は自分の振舞であると認識したうえで、他人の振舞を自分の振舞の反省材料にするのである。

 異常者の行動から社会の病理について考えるとき、その結論において異常者の行動の背景に体制側イデオロギーが存在するとの認識に至るのは問題はない。しかし、問題を考えようとする事前認識の段階において、「妄想世界の大義=体制側イデオロギー」との認識枠組みから、「かくかくしかじかの異常者の思想が明らかになった。『妄想世界の大義=体制側イデオロギー』なのだから、体制側イデオロギーにはかくかくしかじかの歪みがある」などと思考することを妥当とすることは到底できない


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