映画『バービー』評を巡る事態に対する論評への感想
映画『バービー』を巡ってフェミニズム映画との評価も反フェミニズム映画との評価も双方出ている事態に対して論評する以下の記事が出た。ただ、フェミニストの論者もアンチフェミニストの論者も映画が出てすぐに各々の立場からレビューしていたために、今更ながらの感が拭えない論評な気もする。それゆえ、国際女性デーに託けた在庫一掃セールの記事なのかな、と邪推したくなる。まぁ、発表の時機はイマイチだろうが内容は変わらないので、内容に納得感があるのであれば問題が無いとも言える。しかし、どうにもこうにも、この論評が的外れなのだ。そこで今回はこの論評に関してnote記事を書こうと思う。
さて、この記事は、国際女性デー(3/8)一日後の記事だからか予想通りにフェミニスト寄りの記事である。どちら側に立とうがそれ自体は構わないのだが、もうちょっと真面目に反フェミニズムとして解釈するレビューを読解すればいいのにと感じる。ただ、フェミニスト側の人間はどうもフェミニスト愛用の二項対立図式の認識枠組みから逃れられないらしく、例にもれず記事の論者も二項対立図式の枠組みによって事態の認識がおかしくなっている。
そのことが窺える典型的な箇所が以下の引用部分である。
さて、反フェミニズム映画として解釈するレビューには、以下の揶揄が含まれているものが少なくない。
つまり、アンチフェミニストのレビュアーは記事の論者が指摘している「そこにどんな歪みや不公平や不実が描かれていても、それは現実の歪みや不公平や不実の裏返しに過ぎない」ことなど百も承知で、その上で「映画『バービー』はフェミニストを皮肉っている映画なのだ」と評しているのだ。
もちろん、映画『バービー』自体に関しては記事の論者の認識通りに、フェミニズムを巡る世の中の動きに関して方向性を問わずおちょくっている映画と言えるだろう。すなわち、旧来の性役割分業社会に対する風刺映画でもあり、フェミニズム側の言説や活動に対する風刺映画でもある。
ただし、このことは映画『バービー』のレビュアーのアンチフェミニスト側にとって何ら痛痒に感じるものではない。だが、そんな感覚になるアンチフェミニスト側の事情をフェミニストは根本的に理解しない。なぜなら、フェミニストは愛用の二項対立図式の枠組みから「アンチフェミニスト側=性役割分業社会を護持しようとする守旧派」と勘違いするからだ。
しかし、別にアンチフェミニスト側は守旧派の人間だけに限っていない。つまり、フェミニストに同調していないが、旧来の性役割分業社会に関しても批判的な人間がいるのだ。そして、映画『バービー』を反フェミニズムと評しているアンチフェミニスト側の論者は、大抵の場合に守旧派の思想的立場から映画『バービー』を反フェミニズムと評しているわけではない。
この辺の事情とフェミニストの認識がよく理解できない人もいるかもしれない。そこで記号も交えて抽象的に問題の事態の構造を示してみよう。
さて、フェミニスト愛用の二項対立図式より、フェミニストの事態の認識は以下であることが多い。
しかし、実際は以下である。
記事の論者もまた、アンチフェミニストを巡る上記の事情を理解せず、「Aと非A」の二項対立図式で事態を認識しているから、論評が頓珍漢なのだろうと思われる。
映画『バービー』を反フェミニズム映画と評するアンチフェミニストを巡る実態としては、フェミニストの認識とは異なって「AとBと非B」という関係にあり、レビュアーのアンチフェミニストは「非B」の存在なのだ。そして、守旧派ではないレビュアーのアンチフェミニストは、映画『バービー』が「AとBを同じ穴のムジナとして風刺している映画」として解釈しているからこそ反フェミニズム映画だと評しているのである。
根本的にそのことを理解しなければ、アンチフェミニスト側のレビューが映画『バービー』の何を評価しているのか分からないことだろう。
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