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心理支援職者が男性差別を助長している

■アメリカでも男性弱者は公的支援から疎外されている

 トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』(原題『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success』)への感想を述べた、以下の女性心理支援職者の発言が炎上している。

 この伊藤絵美氏は肩書だけの三流ペーパー臨床心理士ではなく、界隈ではの重鎮の公認心理師・臨床心理士・精神保健福祉士であるようだ。心理療法に関する著作も単著・共著を含め数多くあり、また翻訳もかなりの数を手掛けている。つまり、そこいらの木っ端心理支援職者ではない。こういった心理支援職者が、男性の孤独死について自己責任論を振りかざしている。もっとも大元の『男はなぜ孤独死するのか』自体がかなりの男性差別的認識枠組みのもとでのトーマス・ジョイナーの見解が述べられたものなので、彼女にとってみれば我が意を得たりといったものなのだろう。

 しかし、トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』は、心理学の学術的手続きをすっ飛ばした、彼の印象論に過ぎない見解が多数存在している。もちろん、学者が学問的手続きを経ていない仮説を述べることそれ自体は別に構わない。しかし「仮説に過ぎない見解」という評価を超えて認識されることは問題である。しかも、心理支援の実務に携わる人間が「ジェンダー差別的で男性に対して二次加害を齎す、仮説に過ぎない見解」に賛意を示していることは、心理支援を受けようとする男性困窮者に対して不利益を生じさせる。

 この事態は譬え話でいえば、「○▽薬はコロナに効く」として一人の薬理学者が主張している作用機序も副作用も確かめられていない薬に対して、臨床医が「○▽薬はコロナに効く」と思い込むようなものだ。あるいは、実験機段階の飛行機を実用段階にある飛行機と勘違いして、そこで生じる問題を無視するようなものだ。

 更に言えば、トーマス・ジョイナーが『男はなぜ孤独死するのか』の中で述べた「男性は女性よりも平均的に自己中心的であると言えるだろう。男性が孤独な性であるのは、自己中心的で甘ったれた性であることもその一因だ。(p.102)」に関しては、事実に即しているかどうか疑問である。むしろ、アメリカ社会に存在する「(男性は)自己中心的で甘ったれた性である」との社会意識によって、社会が男性を支援することなく孤独に放置しているのではないかとの疑念を私は強く持っている。

 ここでアメリカでも男性弱者は助けないという、物的・制度的なジェンダー非対称性が存在していることを確認しよう。以下にアメリカにおけるジェンダー格差を取り上げた新聞記事を引用する。

 フェミニストの女性監督が男性差別の現実を撮ったドキュメンタリー映画『The Red Pill』(2016年、米国)が近く日本でも公開されます。男性差別は存在するのか、その実態は? 男性差別の研究者、久米泰介さんが解説します。
                (中略)
 例えば、ある男性は自分の妻からDVを受けていた。しかし我が子を置いて逃げることはできず、男性権利運動家である友人が彼のためにシェルターを探した。ところが驚くべきことに、電話をかけたすべてのシェルターが「我々は、男性のDV被害者は助けない」と言ったのだ。憲法が保障する男女平等の下、税金で運営されている公的なDV被害シェルターで、なぜこのようなことが起きるのだろうか。

 米国のDV被害者の4人に1人は男性である。そして全米で公的に運営されるDV被害シェルターは女性用が2000カ所あるのに対して男性用シェルターは1カ所しかない(これも近年、男性DV被害者が自主的に動いて何とか実現した貧弱な施設だ)。映画の中で監督のジェイは問う。「自殺者の70%以上が男性だ。ではそれを理由にして国が自殺防止の援助対象を男性だけに限ったら、それは性差別と呼ばれないのだろうか」

 リプロダクションや親権に関する男性差別の実態を取り上げたシーンは相当にショッキングだ。性被害を受けても警察に信じてもらえなかった男性。息子の健康に気を配り、熱心に育児をしていたにもかかわらず、家庭裁判所が息子の親権を「女性である」という理由で妻に渡し、離婚後ほとんど息子と会えなくなってしまった男性。男女平等とは何なのだろうか。女性差別をなくすときだけに男女平等をうたい、男性差別に対しては無視するのだろうか。男性活動家のフレッド・ヘイワードたちはこう言っている。「これらが起こり、放置されるのは、社会が男性を人間(human being)として見ていないからさ」

 男性差別の実態は様々だ。DVや性被害、親権における不利以外にも、教育の男女格差、就労中の死亡・負傷率の男女差、兵役、自殺率、平均寿命、ホームレスにおける男女差など。

 多くの男性は、差別を訴えても社会的には無視されてきた。ひどい場合は攻撃すらされた。この映画では、声を上げた男性がどのような暴力や妨害、脅しに遭ってきたかを見ることができる。映画自体も、16年にオーストラリアでの公開が「一部の」フェミニストの抗議で一時的に中止になり、報道でも取り上げられた。

男性差別は存在するのか 女性運動家が撮った現実
久米泰介 2018年4月5日 日本経済新聞

 アメリカにおいて「弱者に対する支援についての社会のコンセンサス」に関してジェンダー格差が存在している。そうでもなければ、上記の新聞記事において太字で強調した「全米で公的に運営されるDV被害シェルターは女性用が2000カ所あるのに対して男性用シェルターは1カ所しかない」というジェンダー格差は生まれない。「女性は助けなくっちゃいけないけど、男性は助けなくていいだろ」という意識、もっと言えば「助けるべき男性なんていないだろ?男性を助けるなんて『男性に対する甘やかし』では?」との意識がこのようなDV被害シェルターについてのジェンダー格差になっているのではないかとさえ言えそうである。

 「男性が対人関係において甘やかされた結果、自ら対人関係を築いたり維持する努力ができず、結果、孤独から自殺に繋がる」という、トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』を伊藤絵美氏が読了した後でXのポストで開陳した見解は、自殺する男性について正しいのかどうが疑問である。むしろ、「全米で公的に運営されるDV被害シェルターは女性用が2000カ所あるのに対して男性用シェルターは1カ所しかない」という事実に表れるアメリカ社会の社会意識から「女性と違って男性が弱者となったとき、その男性を周囲が助けなければというコンセンサスが無いために、結果、孤独から自殺に繋がる」と考えるべきではないか。

 女性に生じる社会問題と比べて男性に生じる社会問題は、自己責任論で片付けられることが多い(註)。女性に生じる社会問題はジェンダー差別問題として問題視されてきたが、男性に生じる社会問題はジェンダー差別問題としては無視されていることが殆どだ。このことは先に引用した新聞記事でも触れられている。

 これまで「男性差別」や「男性の権利」は社会的、学術的にほとんど相手にされてこなかった。世界のあらゆる社会は、男性が権力者で女性が被害者である「パトリアキー」の下に成り立っている、という前提があったのだ。

 パトリアキーは日本語で「家父長制」と訳されたりするが、それだと「家制度」と関係あるようなイメージになってしまうので「男社会」と訳されることもある。「男が権力と利益を得て、女性が搾取される社会システム」のことだ。「政治家に男が多いのは、パトリアキーだからだ」というように使われる。

 しかしこの前提に疑問を投げかける人々もいる。それがマスキュリスト(男性差別をなくして男女平等を目指す男性運動家)だ。パトリアキーは科学的データや実証に基づく客観的事実ではなく、あくまで仮説、思想だとする。もともとフェミニズム(女性の権利運動)は男性差別の是正に対しては関心がなく、学問や社会運動において男性差別を是正する動きもほとんどなかった。

同上

 余りにも社会において上記に引用したようなフェミニズムの風潮が強すぎて、特にジェンダー論を専門としていない学者の認識の枠組みすらおかしくなっているように思われる。「男性が人間関係において甘やかされる構造」というのは、どうみてもフェミニズムが喧伝する科学的データや実証に基づく客観的事実ではないパトリアキー(家父長制)という認識枠組みからの、事実かどうかアヤシイ仮説に過ぎない。

 フェミニズムが喧伝する思想であるパトリアキーという幻想によって認識枠組みがおかしくなった心理学者の仮説を、フェミニズムに被れた女性臨床心理士が「やっぱり自分達のフェミニズム的認識は正しかったのだ。男性はパトリアキー構造によって甘えている」とする再帰的認識によって支持するという、冗談のような状況が生まれている。そして、そんなフェミニズムに被れた女性臨床心理士によって男性弱者が二次加害されている状況である。


■トーマス・ジョイナーの自殺の対人関係理論

 さて、炎上のきっかけとなった本を書いたトーマス・ジョイナーに話を戻そう。彼が与太話を飛ばすトンデモ心理学者なのかと言えば、それは違う。それどころか世界的に見て心理学領域における自殺研究の第一人者といってもいい。ただし、心理学領域では意外なことに自殺研究はマイナーな領域であったようである。その辺りの事情とジョイナーの理論モデルの説明力のレベル感も含めて確認しておこう。

自殺の発生に関する予測精度をいかに高めることができるかという問題である。本稿の冒頭でも,現時点で最も頑健な自殺生起に関する理論である自殺の対人関係理論(Joiner,2005)においても,将来の自殺行動の分散説明率は 30% 程度である(Christensen et al., 2013)という指摘を紹介したが,自殺の生起を十分な精度で予測する理論モデルの構築は重要な課題である。短期的に考えた場合,この課題を解消する近道は,現在使われている研究デザインの改善にあると思われる。

末木新(2017)自殺の予防と心理学―展望とその課題―,心理学評論Vol. 60, No. 4,p.269(強調引用者)

勝又(2015a)によれば,数多の自殺に関する説明理論の中で,将来の自殺関連行動を予測するエビデンス(Brown et al., 2000;Christensenet al., 2013;Joiner Jr. et al., 2009;Kuo, Gallo, &Eaton, 2004)を有するものは Beck (1986)の絶望感理論(Hopelessness theory)と Joiner (2005)の自殺の対人関係理論(Interpersonal theory of suicide)の二つのみである。

同上,p.266

 また、自殺を巡る(日本における)心理学分野の実情もおさえておこう。

心理学において,自殺に関する研究/自殺予防に関する実践は忘れ去られた領域であった,というのは言い過ぎであろうか。1998 年の自殺者数の爆発的増加および 2006 年の自殺対策基本法の成立を受けて,自殺に関する研究には大きな注目が集まっている。しかし,このような研究・実践の盛り上がりの中で,心理学者がイニシアティブをとるものは少数にとどまっている。筆者が日本自殺予防学会に初めて参加したのは 2008 年であり,そこからほぼ毎年参加をしているが,そこで見かける心理学者は片手で数えるほどである。

同上,p.265 (強調引用者)

 以上から分かるようにジョイナーの自殺の対人関係理論は、心理学から自殺現象を把握しようとする、エビデンスのある理論モデルとして存在している2つの理論モデルの内の一つである。つまり、ジョイナー・モデルは心理学による自殺研究の主流の理論モデルといっていいだろう。ただし、そんなジョイナーの自殺の理論モデルであっても発展途上の理論モデルといってよく「10件のうち3件の自殺事件を上手く説明する」といったレベルである。まぁ、精度として満足がいくレベルではないが、無視もできないといった水準といっていいだろう。

 さて、そんなジョイナーの自殺の対人関係理論であるが、具体的にはどういう理論なのかと言えば、以下のようなものだ。

自殺の対人関係理論は,所属感の減弱,負担感の知覚,身についた自殺の潜在能力という三つの要素が高まった際に自殺が生じるとするものである。

同上,p.266

 この「所属感の減弱,負担感の知覚,身についた自殺の潜在能力」の三要素がどういったものなのかについてアレコレ説明する前に、心理学調査においてどのような質問によって確認される要素であるのかを、先に確認しておこう。

負担感の知覚(INQ の項目内容)
1 私がいなければ,私のまわりの人たちはもっとうまくいくと思う
2 R 私は社会に貢献できていると思う
3 私がいないほうが私のまわりの人たちは幸せなのではないかと思う
4 私はまわりの人たちを失望させていると思う
5 R 私のまわりの人たちは,もし私がいなくなったら寂しがるだろう
6 私は社会のお荷物だと思う
7 R 私はまわりの人たちの役に立っていると思う
8 R 私は,自分のアイディアや能力,エネルギーが社会を変えると思う
9 私が死ねば,私のまわりの人たちはほっとするのではないかと思う
10 R 私はまわりの人たちの幸せに貢献できていると思う
12 私は,まわりの人たちが私との関係を切りたいと願っていると思う
13 R 私は地域に貢献できていると思う
14 私は,自分がまわりの人たちの邪魔になっていると思う
15 R 私は,自分がまわりの人たちにとって重要だと思う

所属感の減弱(INQ の項目内容)
16 R 他の人たちは,私を気にかけてくれている
17 R 私には居場所があると感じる
18 私は,まわりの人と滅多に気が合わない
19 R 私は,思いやりがあって応援してくれる友人がたくさんいて,ラッキーだと思う
20 私は他の人と切り離されそうだ
21 私はよく,人の集まりで部外者のように感じる
22 R 私には必要なときに頼れる人がいる
23 ほとんどの人付き合いで歓迎されていないと感じる
24 R 私は他の人と仲が良い
25 R 毎日少なくとも一回は満足のいく人付き合いがある

身についた自殺の潜在能力(ACSS の項目内容)
1 ほとんどの人が怖がることでも私は怖くない
2 私は自分の血を見ても平気だ
3R 私は,怪我をするかもしれない状況(例えばスポーツ)を避けるようにしている
4 私は他の人よりも痛みに耐えることができる
5 私は「怖いもの知らず」とよく人に言われる
6 R 私は血を見ると,とても嫌な気分になる
7 私は,自分がいずれ死ぬことは気にならない
8 R 私は死ぬとき痛いのが恐ろしい
9 私は科学の授業で動物を殺しても平気だ
10 R 私は死ぬのがとても怖い
11 まわりが死について話していても私は気持ち悪くならない
12 R 私は死体を見るとぞっとする
13 R 将来死ぬことは,私の不安をかきたてる
14 人生の終わりが死であることがわかっても私は平気だ
15 激しいぶつかり合いのあるスポーツを観戦するのが好きだ
16 野球で一番好きなのは乱闘だ
17 ケンカを見かけると,立ち止まって見てしまう
18 R 映画で暴力的なシーンがあると目を閉じる
19 私は死ぬのが全然怖くない
20 もし死にたいと思えば,私は自殺できるだろう(たとえあなたが決して自殺したいと思ったことがなくても,この質問にはどうかご回答ください)

※R は逆転項目を表す。

相羽 美幸ほか(2019)対人関係欲求尺度と身についた自殺潜在能力尺度の日本語版の作成 ,心理学研究  第 90 巻 第 5 号より筆者作成

 以上の質問からジョイナーの自殺の対人関係理論の三要素が指す内容が凡そ窺えるだろう。つまり、以下のように纏められる要素である。

負担感:自分が周囲の負担になっている主観的な感覚
所属感:誰かと好意的に繋がっている主観的な感覚
自殺の潜在能力:死や肉体的損傷への忌避感の無さ

 したがって、負担感をx,所属感をy,自殺の潜在能力をzで表し、自殺という結果をSで示し、xとyとzをSに結びつける関係を関数Fとして示すと、自殺の対人関係理論による自殺モデルの式は以下になる。

x:負担感の度合い
y:所属感の度合い
z:自殺の潜在能力の度合い
S:自殺についての結果

S=F(x,y,z) ・・・自殺の対人関係理論の自殺予測モデルの式

 この自殺の対人関係理論の自殺予測モデルの式を明確にしたことから明らかと思うのだが、トーマス・ジョイナーの自殺理論のモデル式には、冒頭の伊藤絵美氏のXのポスト中にある「男性が対人関係において甘やかされた結果、自ら対人関係を築いたり維持する努力ができず、結果、孤独から自殺に繋がる」という内容を含んでいない。また、ジョイナー自身が『男はなぜ孤独死するのか』において「男性は女性よりも平均的に自己中心的であると言えるだろう。男性が孤独な性であるのは、自己中心的で甘ったれた性であることもその一因だ。(p.102)」と書いていようが、それは心理学の学術的な手続きによって確かめられた考察ではなく、ジョイナーの印象論に過ぎない。

 すなわち、ジョイナーが言う所の男性の「自己中心的」「甘ったれ」といった要素と、自殺の対人関係理論モデルに登場する負担感x・所属感y・自殺の潜在能力zとの関係性は、彼の印象論に基づくものだ。SNS上で通俗的に見られる表現で言えば、「男の自己中心性や甘ったれ度合いが、負担感や所属感と関係しているんじゃない?知らんけど」というものに過ぎない。彼が主張するところの自己中心性や甘ったれ度合いに対して操作的定義を施し、それらをキチンと測定し、負担感x・所属感y・自殺の潜在能力zへの寄与度を分析した訳でも何でもないのだ。

 結局のところ、心理学の学術的手続きを満たす範囲でジョイナーの自殺の対人関係理論で言える事は「自分が役立たずのお荷物で誰とも好意的繋がりが無いと思い込んでいる、死や肉体的損傷に忌避感の無い人間は自殺のリスクが高い」と限定的なものだ。しかも、その学術的手続きを満たした範囲に限っても説明力は30%程度にである。それ以上の男性の自殺云々のジョイナーの主張は印象論である。それを理解した上で『男はなぜ孤独死するのか』で述べられたジョイナーの主張を評価すべきである。


 「女性に生じる社会問題と比べて男性に生じる社会問題は、自己責任論で片付けられることが多い」ことをメインテーマに以前にnote記事にしたものは以下。


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