男性育休の記事が女性都合の視点で書かれる男性差別
男性育休の制度を実質的に機能させる機運が高まってきているわけだが、それをテーマに取り上げるメディアの視点が何とも「女性の都合」に偏っている。もちろん、男性育休に関して女性の都合を考えなくてよいわけではないが、女性都合の視点に偏るメディアの姿勢自体がジェンダー不平等、あるいはジェンダー差別といえるだろう。では、そんなジェンダー差別的な記事として、以下に具体例として三つの記事を挙げよう。
さて、この三つの記事に共通する根本的な認識枠組みは以下だ。
繰り返すが、上記のような視点で男性育休が語られること自体は悪い事ではない。もちろん、この視点で男性育休を捉えることは重要である。だが、よくよく考えて欲しいのだが、男性育休とはそもそも
男性育休=男性が育児をする(ために賃労働を休業する)
というものだ。当たり前の話なのだが行為主体は男性なのである。しかし、行為主体が男性であるにも関わらず、なぜ女性目線の記事がメインになっているのだろうか。そこにはフェミニズム思考によるバイアスがかかっているとしか解釈できない。女性の社会進出も男性の家庭進出も以下の二つの観点から進めていくべきとされている。
ジェンダー平等が社会として追及していく価値である
性別役割分業社会は男女の「人間としての自己実現」を阻んできた
さて、「女性の社会進出」が取り沙汰されるときの記事の論調を想起してみよう。男女雇用機会均等法が制定されたものの女性の社会進出が進んでいない現状を批判するとき、女性を受け入れる社会や男性の意識の在り方こそが問題視され、女性自身の意識の在り方はメインの問題として取り扱われない。
一方、「男性の家庭進出」が取り沙汰されるときの記事の論調を想起してみよう。育児・介護休業法が制定されたものの男性の家庭進出が進んでいない現状を批判するとき、男性を受け入れる家庭や女性の意識の在り方は問題視されず、男性自身の意識の在り方こそがメインの問題として取り扱われる。
オカシイではないか。日本の男女が直面しているジェンダー問題について、それが取り沙汰される問題の切り口自体がジェンダー不平等である。ジェンダー平等が大切だなんだと言っておきながら「女性は悪くない。悪いのは男性」という認識枠組みでジェンダー問題を捉える。クソみたいなフェミニズムの男性悪玉論の考え方だ。
「女性の社会進出」も「男性の家庭進出」も、男女それぞれが社会人・家庭人の一方の側面を犠牲にすることなく一個の人間として主体性を回復していこうとする潮流なのだ。
だからこそ、女性の社会進出に関する問題において「男性の都合」や「女性の意識の低さ」の話はこのジェンダー問題のメインストリームにはならず、「女性の主体性を阻害するバリア」こそが解決すべき主要問題とされる。
そうであるにもかかわらず、なぜ男性の家庭進出に関する問題においては「男性の主体性を阻害するバリア」を解決すべき主要問題としないのか。なぜ「女性の都合」やら「男性の意識の低さ」がこのジェンダー問題のメインストリームになっているのか。
女性の主体性や都合は重視するくせに、男性の主体性や都合は無視を決めこむ。いつからジェンダー平等は女性にだけ特権を与えるような意味に変わったのか。
主体性が最重要なのであれば、女性の主体性であろうが男性の主体性であろうが重要視されるべきである。また、都合の問題をテクニカルな周辺的問題とするのであれば、女性の都合の問題だろうが男性の都合の問題だろうが周辺問題として扱うべきではないか。
女性の社会進出が語られるとき、偏見に満ち溢れた「女性が職場に居ると邪魔なんだよね。色々と気を使わなければいけない上に、男性ほどにも仕事できないし。男が残業していても『お先に失礼しまーす』と定時にあがってしまうし、定年まで勤めあげる覚悟も仕事へのヤル気もない。社会を円滑に維持する責任や家計責任を負っている男性へのリスペクトを第一に、『観察しながらサポート』して欲しいね」という意見が、あたかもジェンダー正義の価値観に適合した意見として紹介されるだろうか?さらにいえば、女性の社会進出の議論において、女性の意識の低さの問題や男性の都合の問題を中心に据えた場合、その議論自体に非難が巻き起こるのではないだろうか?
もちろん、私自身もしばしば取り上げるように、以下の問題群等が重要でない訳ではない。
一方の性別に最適化されてしまっている環境
受入れ側の性別に生じる負担
進出する側の性別の意識・意欲・覚悟
重責(例えば、男性側であれば危険な役務の負担、女性側であれば出産の負担)へのリスペクト
しかし、これらの点で問題が指摘できるとしても、そのことを理由として「X性のY進出は推進すべきではない」という意見が、ジェンダー正義に適合する意見と見做される得るのかどうかなのだ。
もうちょっと具体的に想像してみよう。
「お前らを受け入れる環境に無いんだから、お前ら来んなよ」
「お前らが来ると、オレらが大変なんだよ。だから来んな」
「お前らって、なんっも考えてないし、ヤル気ないし、覚悟もないんだから来るなよ」
「お前ら、こっちに来るならオレらをリスペクトしろよ」
上記の言葉を女性に男性が投げかけたならば、その男性はセクシストとして扱われるハズである。しかし立場を逆転させて男性に女性が上記の言葉を投げつけた場合にはなぜ、その女性はセクシストと認識されないのか。なぜ、そのようなジェンダー問題に関する言動がジェンダー正義の観点から問題視されないのだろうか。
結局のところ、「女性が不快であるかどうか」から認識をスタートさせることが殆どであるフェミニズム思考は、このようなジェンダー正義に反する状況を認識できない枠組みを持っているのある。
※ 後日(2020/10/10)に追加した記事に関して、リンク先の大元の記事は「思いつきが多すぎるジェンダー政策 格差は解消するか」毎日新聞(2023/10/3)の記事であるが元記事は有料記事のため、本文では2023/10/10に転載された無料記事であるyahoo!記事の「思いつきが多すぎるジェンダー政策」にリンクを貼ってある。有料記事ではあるが大元の記事は以下である。
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20231002/pol/00m/010/004000c
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