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フェミニズムの御蔭で男社会のせいにできるって楽だね。

 半プロ(=それなりにメディアに自己の文章が載せられ、本も出版しているが、それだけでは生計を立てられない人)の女性ライターがフェミニズムをお題目にして自分の人生の苦境を「男社会」のせいにしているエッセイを書いた。そして、そのエッセイを紹介している以下のnote記事がトップページに来たために私の目に留まった。彼女の現状に関しては同情しないでもないのだが、エッセイで公開した箇所において主張している内容に関しては明らかに間違っているので、これから批判していこうと思う。

 さて、上のnote記事の表題に【試し読み】とあるよう、このエッセイの冒頭の部分が公開されている。この公開箇所を読むだけでこのエッセイがなんともルサンチマン溢れるエッセイと分かる。とはいえ、このライターの現状をみてみれば愚痴の一つもでるだろう、とは思う。だが彼女が自身の現在の苦境をフェミニズムの図式で理解しようとしているところに、彼女のどうしようもなさが表れている。ちょっと、note記事から彼女の来歴を引用してみよう。

19歳で主に音楽について書くフリーランスのライター業をぼちぼち始め、二十代、三十代はバブルな時代とも重なって、なんとかやっていた。40歳を越えるころから生計を立てるのがだんだんと難しくなり、冒頭にチラッと書いたようにアルバイトとの二本立て生活を送ってきた。ライターとしては、徐々にそうした迷走する我が人生を書くようになった。独身で、ひとり暮らし。コロナが流行る前にはバイトを二つかけ持ちして

【試し読み】和田靜香『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』
左右社 2023/8/22 note記事

 引用文から分かる彼女の来歴をみて現在の彼女の苦境が「女性という性別」によって齎されたものだ、と思えるだろうか?もちろん、個々の具体的なシーンにおいて彼女が女性であるからこそ生じた苦労もあったであろうとは想像することはできる。だが、「勝者/敗者」という区分でみれば敗者側になっている彼女の人生に関して、彼女の人生の勝敗を分けた構造は「女を差別する男社会の構造」なのだろうか?更に言えば、彼女の現状は彼女が男性であれば避け得たのであろうか?

 性別をマスクして以下のシーンを想像してみよう。

19歳でフリーランスの音楽ライターとしてデビューし、中年になったら音楽ライターの仕事のオファーが無くなって来て、老境に差し掛かり始める50代後半になって「ああ、我が人生はうまくいっていない」と愚痴る。

筆者作成

 このシーンの登場人物の性別が男性でも全く違和感が無い。いやむしろ、カップ酒でも飲みながら「今はこんなでも若い頃はオレもソコソコやれていたのよ」と管を巻いている売れないライターのオジサン像の方が鮮明にイメージできる。

 つまり、たまたま状況に恵まれて若くして文筆家としてデビューできたものの、「感覚の若さ」が実際の年齢と共に失われてしまったとき、音楽に関する専門的な知識も無く、凡人とは一線を画すようなセンスもないために、オファーが無くなっていったという夢破れた夢追い人の末路の話なのだ。


■和田氏が売れなかった根本的理由は性別ではない

 和田氏には音楽ライターとして失格としか言えない致命的な態度がある。すなわち、自分の感覚・センスから記事を書くのではなく、たとえ自分の感覚に反するものであっても周囲の意見を合わせて記事を書くという態度である。こんな他者に迎合する見解しか書けない文筆家に価値など無い。年を追うごとに彼女にオファーが来なくなって当然である。

 そんな彼女の音楽ライターとしての態度を以下の文章から見てみよう。

 たとえば私は元々音楽ライターだけど、カナダのシンガーソングライター、アラニス・モリセットが1995年に大ヒットさせた『ジャグド・リトル・ピル』というアルバムが大好きだった。ドスの効いた歌唱で自分の感情を思うままに発露させ、女性の表現の幅を広げた一人だ。私はとにかくその声にホレこみ、カッケー!と絶賛していた。なのに周囲の音楽評論家たちが彼女の歌を「女のヒステリー」呼ばわりする声が聞こえると、「やばいやばい、私ってズレてる?」と一緒になって「いるよね、こういう女性。人のせいにして怒ってばかり」とか、したり顔で原稿に書いた。ずっとそんなだった。

【試し読み】和田靜香『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』
左右社 2023/8/22 note記事(強調引用者)

 なんと下らない音楽ライターだろうか。自分がホレこんで「カッケー!」と感じたならば、その感覚を言語化して読者に伝えるべきなのだ。それこそが和田靜香という音楽ライターが『ジャグド・リトル・ピル』を記事で取り上げる意義なのだ。そして、和田氏が感じた良さを彼女が書く音楽記事によって明らかにすることで「ああ、『ジャグド・リトル・ピル』の魅力とはそんなところにあるのか!」と気づく人が現れ、また既にアラニス・モリセットに惹かれている人が「なぜ私が『ジャグド・リトル・ピル』に惹かれるのかが言語化された!」と感じてその人のモヤモヤが晴れるという形で、記事に価値が生まれるのだ。

 自分が「カッケー!」と感じているにもかかわらず、周囲の音楽評論家が「女のヒステリー」と評したことに迎合して、「いるよね、こういう女性。人のせいにして怒ってばかり」としたり顔で書いているようであれば、和田靜香という音楽ライターの価値はどこにあるというのだ。

 もちろん、周囲の音楽評論家の『ジャグド・リトル・ピル』に対する「女のヒステリー」との評価とその評価を下すにあたった音楽評論家の理屈に納得がいって、「確かに、女のヒステリーだな。最初は『カッケー!』と感じたけれども、その感想は理解の浅さゆえだった」と思い直したならば別である。他者の意見に納得がいって当初の意見が変化するのは悪い事ではない。

 しかし、自分が全く納得のいっていない他者の意見を、恰も自分も同意見であるかのように主張するのは、言論人としての自己の存在意義を喪失させる行為だ。自分が納得してもいない他者の意見を自分の意見であるかのように装っている論者の主張を、なぜ読者はわざわざ当該論者の意見として読まねばならないのか。そんな出来の悪いコピーを読む価値が何処にあるというのか。読者にとってみれば大元のオリジナルだけ読めばいい話ではないか。

 自己の音楽ライターとしての感覚が明確に「○○の曲は△△だ」と感じているのであれば、それを読者に伝えるのが音楽ライターの仕事である。もちろん、その感覚やセンスから得たことが見当はずれで物笑いの種になることもあるだろう。だが、それは感覚やセンスのレベルや精度の問題であって、音楽ライターとしての態度の問題ではない。また、自分の感覚やセンスが捉えた魅力を、言語能力上の問題によって十分に表現しきれず、読者に理解してもらえないという事態も有り得るだろう。だがそれは、あくまでも言語能力上の問題である。そういった言わば水準の上下で語られる問題をさておいたとしても、和田氏には「和田靜香という音楽ライター」が伝えるべきことを伝えようとしていないという根本的な態度の問題があるのだ。

 以上の通り、和田氏が音楽ライターとして成功しなかったのは、彼女が女性である事とは一切関係が無い。こんな自分が何をすべきか理解していない音楽ライターが成功するわけがないのだ。もし、彼女と同様の態度を取っている音楽ライターが居たとしたら、その音楽ライターの性別がたとえ男であったとしても、遠からずオファーは無くなっていくことだろう。


■社会の構造と夢破れた夢追い人の末路

 どこかの企業に勤める、あるいは公務員等になって給与所得者になるといった安定的な職業を選択するのではなく、身分保障のないフリーランス、とりわけ、文筆家・画家・音楽家・俳優・お笑い芸人等のアタリハズレが大きな職業を選んだとき、その職業で成功するかしないかで勝ち組と負け組が出てくる。

 この勝ち組-負け組が生まれる構造に関して性別は特には関係しない。そして当たり前の話だが、男性ならば負け組にならず女性だけが負け組になるといったような構造にはない。男性だろうが女性だろうが成功しなければ負け組になるのだ。そして、負け組になってしまえば、男性だろうが女性だろうが、老境に差し掛かったときはその人間の人生は芳しくない状態になっていることが多い。

 「勝ち組-負け組」がハッキリしている夢追い人の人生を送って、残念ながら負け組になってしまった人生が、望ましい人生と言えない事に関して、フェミニズムはなにを説明するというのだろうか。

 和田氏は以下のように、自己の苦境を国会議員にぶつけている。

 遡ること2021年の夏、私は『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』という、やたら長いタイトルの本を出した。衆議院議員の小川淳也さんと対話を重ねて作ったこの本は、「ひとり暮らす中年女性である私の生きづらさをどうしたらいいのか、さっぱりわからないんですけど?」という、むやみな問いかけから始まっている。

同上 (強調引用者)

 もちろん、「私は(オレは)苦しいのだ!」と訴えかけてはいけない訳ではない。誰であっても社会において「苦しいんだ!助けてくれ!」と叫んでよい。しかし、いくら訴える主体が女性であってもその叫びにフェミニズムを介在させる必要性はあるだろうか?

 根本的に、彼女が苦しいのは「夢破れた夢追い人」であるからだ。

 男性の売れない画家、男性の売れない音楽家、男性の売れない俳優、男性の売れないお笑い芸人等々が売れないまま老境に差し掛かったときに、和田氏の現在の状況といかほどの差異があるだろうか。

 また、和田氏がフェミニズム的視点で以下の引用にあるような形で糾弾している日本の男社会の構造が、男性の夢破れた夢追い人の人生を、和田氏と同様に苦しいものにしているのだろうか?ある意味ではそうもと言えるが、夢追い人の末路という視点で見るならば、その日本社会の構造は男社会の構造と見るべきではないのだ。

 そうした対話の中で一度「女性の働き方」、とくに「女性の非正規雇用労働者は男性の倍以上」をテーマに話し合ったことがある。小川さんに尋ねる前にまず「雇用すら不安定なのに“輝け”って言われることが女性を苦しめている」と、私が話をした。

同上

 さらに2015年8月、安倍政権は「女性活躍推進法」を成立させる。これは女性が働きやすい環境づくりについて、企業側に一定の認識を変えさせはしたらしいけれど、それとて一部上場企業とかの正規雇用においてだけの話じゃなかろうか。2015年当時、総務省の「労働力調査」によると、役員を除いた雇用されて働く全女性2388万人の内、1345万人が非正規雇用だった(56.3%)。半数しか正規雇用がいない中、その実効性は疑わしいし、かえって輝きたくても輝けない非正規の女性たちが「私は輝けないダメな人間だ」と自己卑下し、自らを追い詰めていったのは私自身が実感していた。ちなみに2022年では、非正規雇用で働く女性は1432万人(53.4%)だ。

同上

 「雇用されて働く女性の半数が非正規雇用」という日本社会の構造は、夢破れた夢追い人の苦境にどう関わるか考察してみよう。

 日本社会には新卒一括採用慣行というものがある。結婚・出産退職することの多い女性が復職しようとした場合に、この慣行によって再び正規雇用になるのが難しくなっているので女性雇用者の半数が非正規雇用になるという事態が生じる、ということはある。一方、結婚しても子供が出来ても退職することが現状ほぼない男性にとっては、新卒一括採用慣行は女性と比較すれば相対的にデメリットが少ないと言えるだろう。そこから、日本社会の新卒一括採用の慣行によって日本社会は男性社会となっているのだ、と主張する理屈にはそれなりの妥当性がある。

 また、職歴に断絶があるキャリアの人間を正規雇用する日本企業は少ないという傾向がある。この傾向も、女性が出産・育児で退職した場合に女性に不利に働くので(もちろん、男性が育児で退職した場合も同様)、その傾向が日本を男性社会にしているとは言える。

 だが、この社会構造で「男性に比べて女性は不利だ!」と言い得るのは、極々普通の給与所得者としての人生コースを選んだ男女の場合である。新卒チケットを使わず、社会人となった初っ端から「夢追い人コース」を選んだ場合にこの構造で男女差を訴えるのは無理がある。なぜなら、新卒段階から夢追い人コースを選んだ女性が、中年になって(それなりの待遇の)正規雇用の給与所得者コースに転換しようとしてもハネられるのは、「女性特有の出産あるいは女性のジェンダー役割から押し付けられた育児によって生じた職歴の断絶」が理由ではなく、「自分の好きな夢を追いかけていた」という男女を問わない夢追い人特有の経歴がハネねられた理由であるからだ。

 つまり、日本社会において、40歳ぐらいまでダラダラとフリーランスの売れないライター生活をしていた人間について、その人間が男性だろうが女性だろうがそれ以降の人生において「正規雇用の給与所得者」になれる方が珍しい。すなわち、夢破れた夢追い人の末路が苦しい事に関しては、その苦しさを齎す日本社会の構造に関して男女の性別は関係がなく、フェミニズム的視点とは無関係の話なのだ。

 このエッセイにおいて和田氏が抱いていることが明らかな「共通原因を持つ2つの別個の現象に対して一方を他方の原因と見做してしまう誤謬」というものは、しばしば見受けられる誤謬だ。更には「それ誤謬ですよ」と指摘しても理解できない人が偶に居る。そこで、この類型の誤謬について他の例を用いて解説してみよう。

 たとえば「桜が咲く」と「除雪用のアルミ製スコップが売れなくなる」という二つの現象が観察されたとしよう。

 このとき、「桜が咲いたから除雪用スコップが売れなくなったのだ」といったように、この二つの現象の間に因果関係を想定するのはヘンである。「桜が咲く」と「除雪用スコップが売れなくなる」という現象が起きたのは「春が来た」という共通原因ゆえである。つまり、「春が来たから桜が咲いた」のであり、「春が来たから除雪用スコップが売れなくなる」のだ。すなわち、「春が来る」という原因から「桜が咲く」と「除雪用スコップが売れなくなる」という2つ結果が生じたが、2つの結果同士の間には因果関係などないのだ。

 また「桜の季節が来たから、除雪用のスコップが売れなくなったのだ」という言い回しが為されるときがある。このときの「桜の季節」というのは「春」の雅称であって、当然ながら「桜が咲くこと」と「除雪用スコップが売れなくなる」との間に因果関係があることを想定しているわけではない。もしも、この言い回しから「桜が咲いたゆえに、除雪用スコップが売れなくなったのだ」と考えるなら、相当な思い違いをしている。

 この具体例による解説から、「共通原因を持つ2つの別個の現象に対して一方を他方の原因と見做してしまう誤謬」について理解が深まったと思う。

 では、話を元に戻そう。エッセイには以下の二つの現象が登場する。

  • フリーランスの売れない中年ライター(芸人、音楽家、画家などでも同様)が、中年以降に転向しようとしても正規雇用の給与所得者になりにくく、輝いた人生を送れない。

  • 出産や育児で退職した女性が復職しようとしても正規雇用の給与所得者になりにくいので、給与所得者の人生コースで考えるならば男社会といえる。

 この二つの現象の共通原因は「新卒一括採用の慣行」「職歴に断絶があるキャリアの人間を正規雇用する日本企業は少ないという傾向」である。この共通原因によって、売れない中年ライターも出産等で退職した女性もなかなか正規雇用の給与所得者になれないのである。

 したがって、前者は後者を原因とする結果であると考えることは間違いである。すなわち、「出産等で退職した女性が正規雇用の給与所得者になりにくいから、売れない中年ライターが正規雇用の給与所得者になりにくい」と考えるのは間違い、言い換えると「男社会だから売れない中年ライターの人生が輝かない」と考えるのは間違いなのだ

 それゆえ、下のような和田氏の認識は間違っていると言える。つまり彼女の苦境と「女性雇用者のうち半数は非正規雇用」という社会の構造との間には一切関係が無いないのだ。単に、和田氏には音楽ライターとしての資質が無かったせいで音楽ライターとして成功せず、夢破れて負け組となったから苦しいのだ。

半数しか正規雇用がいない中、その実効性は疑わしいし、かえって輝きたくても輝けない非正規の女性たちが「私は輝けないダメな人間だ」と自己卑下し、自らを追い詰めていったのは私自身が実感していた。

同上(再掲)

 和田氏の苦境を少し分析してみよう。

 まず、第一段階として「音楽ライターとして為すべきことを為さなかったために音楽ライターとして成功せず、負け組になった」というものがある。和田氏が「カッケー!」と自分が感じた楽曲の魅力をキチンと伝えるという「和田靜香という音楽ライター」が成功するための大前提となる態度を取っており、かつ、楽曲の魅力を捉える彼女のセンスが抜きんでており、それを的確に伝える文才があったならば、彼女は音楽ライターとして成功して勝ち組になっていただろう。だが、ライターとして成功するための大前提を満たさなかったために、彼女は音楽ライターとして負け組となってしまった。

 第二段階として、(性別を問わず)中年負け組となった「夢追い人の経歴」しか持たない人間に対して、正規雇用の給与所得者という人生コースに復帰させる敗者復活の仕組みが日本社会には無い、ということが中年負け組ライターである和田氏に不利に働いた。

 この二つの段階を経て、老境に差し掛かった和田氏は人生の苦境に陥っている。だが彼女が苦境に陥った理由に関して根本的には「性別」は関わっていない。したがって、「音楽ライターとして成功する夢が破れた和田氏の人生の苦境」と「彼女が批判するような女性雇用者のうち半数が非正規雇用という男社会の日本の現状」との間には一切関係が無いと言えるのだ

 因みにだが、「夢破れた夢追い人」の負け組で悲惨なのは男性の方が多い。それというのも、女性の場合ならば30歳程度で見切りをつけて結婚するという形での逃げ道がある。最悪でも35歳くらいまでならば、一回り程年上の男性を結婚相手として許容すれば、老境で人生に詰むようなことはほぼ無い。まぁ、今後に関しては男性の結婚観も変化しつつあるので、女性のそういった逃げ道も無くなるのかもしれないが、和田氏が30歳台を過ごした時代ならば彼女には結婚という逃げ道もあったハズである。

 一方、男性に関しては、そんな結婚相手に養ってもらうという逃げ道はない。極一部の男性を除いて、夢破れた夢追い人で今なお夢にしがみついている男性は、和田氏が現在そうやっているように、バイトで食いつなぐといった人生を送っているだろう。

 そして、そういう夢破れた夢追い人の男性はその自分の人生の勝ち負けに関して、女性の夢破れた夢追い人がフェミニズムによって大っぴらに自分の負け組人生を正当化しているようには、正当化もできずに煩悶していることだろう。

 

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