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「仕事に対するの価値」について、私が勘違いしていたこと

働く、仕事をする、職に就く、お金を稼ぐ。

それは同じ意味のようで実は少し違う、ということにこの年になって私はやっと気が付いた。そして、今多くの人が「どうして私はこんなにもつらい気持ちで毎日働いているんだろう?」という疑問を解決できずにいる原因であるということもわかりかけてきた。


私が看護師になった経緯

私はそもそも、看護師になりたくてなった人間ではない。でも、医療という業種には憧れがあった。

点滴、注射、薬剤、白衣、カプセル…

そういう、医療的な物質がとても魅力的に見えた。いわゆる、医療オタクと言うやつだ。かつて椎名林檎が「本能」のPVで白衣のナース姿をしていたのも私の志向にドはまりで、私も早くあの白衣を着てガラスを蹴破りたいとさえ思った(笑)

そんな不純な動機で(他にも理由はあったが)看護学科を受験した私は、看護と言う仕事を何も知らずに就職した。その結果、白衣すらほぼ着ることのないオペナース(手術室看護師)になったのは、皮肉この上ない。

お金の為に看護師として働くというジレンマ

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私は当初より、看護と言う仕事に対して全く憧れを抱いていなかったため、「私は看護師を辞めずに働いているのは、お金の為です。それでも切磋琢磨して技術を磨いているのは自分の性分であって、別に崇高な倫理観とかではないです」という持論を展開していた。

私は、看護師に強く憧れを抱いているから仕事をこなしている、と周りから思われたくなかった。「仕事だから仕方がなく仕事をしていますよ」と言うスタンスを貫きたかった。そうすれば、「あなたは看護師になりたくてなったんでしょ、じゃあもっと頑張りなさいよ」と言われずに済む気がしたからだ。

しかし「お金のために働いています」と言ってはいても、年数を重ねるごとに「看護とは何たるか」を後輩に教えなくてはならない場面が次第に出てくるのである。

だから私は「看護とは何ぞや、を心から語れない人は看護師になるといつかこのジレンマに陥ってしまう」「お金を稼ぐためだけに看護師をするのには、いつか限界がやってくる、それが今かもしれない」と思い、看護師を辞めるという選択肢を考えるようになった。

看護師を辞める決断を揺らがせた一言

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そして私は本気で転職活動を進めていった。

書類審査や一次面接まで進んでいくにつれ、転職アドバイザーや面接官、今の職場の上司や家族に、何度も何度も同じワードを突きつけられた。

「あなたは何故、今までの経験を捨てて看護師を辞めたいのですか?」
「看護師を辞めたら、あなたのモヤモヤは解決されるのですか?」

何度もこの問いを突き付けられるたびに、「今すぐに転職しないといけない」「私は看護師として働いていてはいけない」という気持ちが、揺らいでいくのを感じた。

そこで、冒頭の問いに行きついたのである。

人はなぜ働くのか

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お金を稼ぐためには、働かねばならない。それは真っ当な道理である。

働かなければ食っていけない。
働かなければ住む場所が得られない。
働かなければ自分の欲しいものが買えない。

では、どんな職業で働くか?

それは、語弊を恐れずに言うと、その人の自由である。

自分がやりたい職業に就けない人もいるだろう。でもその就けなかった職業の代わりにどの職業を選ぶのか、それもまた自由なのである。

自分の意志とは関係なく(例えば親の意向など)やりたくない職業に就く人もいるかもしれない。それでも、親の意向に沿うと決めるか決めないかも、その人の自由なのである。

自分がやりたいと思って就いた職業で、満足に金銭を得られない場合もあるだろう。

職業の価値とは、需要と供給、技術や経験、特殊性と普遍性、などなど、そういうもので成り立っているので、自分がやりたい職業が供給過多で技術もいらず、誰でもできる仕事なら、給料は少なくなってしまう。

自分がやりたいことだけでお金を満足に稼ぎ、なおかつお金持ちになれるかどうかは、自分の仕事に対する価値だけでは決まらないのである。

例えば、看護師。

看護師はとても大変な仕事で、その割には給料はそこまで高くなく、医者の給料だけあんなに高いのはおかしい、と思う人も多いだろう。

医療従事者はかねてより「高給取り」というイメージが先行しているせいで、今回のコロナ禍においても、一般の人から「高給取りが何言ってるんだ」みたいな見方をされて、憤慨する看護師のTweetを多く見てきた。

「私はお金を稼ぐために働いています。それは医療従事者も同じです。崇高な倫理観とか意識高い看護観とか求めないでください」

私たちは、人それぞれ色々な理由があって医療職という仕事を選択し働いている。今回のCovid-19では、いまだかつてないほど「職業を続けることによる自分の生命の危機」を感じた人が多いのではないだろうか。このままでは自分も感染するかもしれない、それによって死ぬかもしれない。そんな恐怖が、私たちを襲った。

そして、私がかつて思い悩んだように「何故私は医療職を選んだのだろう、こんな怖い思いをしてまでこの職業を続けるのは何故だろう」と思った人もいると思う。

だから、今一緒に考えてみて欲しい。なぜ人は働くのだろうか、という疑問に対する問いを。

私が勘違いしていた「仕事への対価」

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看護職を辞めて別の職業に就きたいと考え、様々な職業を模索していく中で、私はひとつ勘違いしていたことがある。

それは「自分の価値は、給料に比例する、比例すべきである」というものだった。

「価値はお金に換算されるべきものである、能力が高ければその分給料も多くもらえて当然だ」という資本主義の究極的な考え方に行きついた。

だから、今の年功序列制度が基本の医療に対してとても懐疑的な印象を持ち、一刻も早くここから離れたい、早く転職したいと考えていた。

そして医療職しか経験していない私は、「医療以外の(公務員を除く)職業は仕事の価値が高ければ、対価として多く給料がもらえる仕組みに当然なっているだろう」という壮大な勘違いをしていた。

でなければ、終電で帰り始発で出勤するような生活を続けられるはずがないと思っていた。

でもそれは、一般職を経験したことがない看護師の妄想にしか過ぎなかったのである。看護職以外の出来る仕事を探せば探すほど、仕事の種類で価値=給与は決まっており、成果を上げれば給与が上がるというシステムは表面上の話で、実際はそうではないという現実が見えてきた。

そして私はようやく、看護師をただ辞めたいのではなく、人生における仕事とは、稼ぐとは、働く意味とは、そういうことを避けて考えてこなかっただけだということに気が付いた。

働く価値は、給与だけではないのだ。

それでは、働くことの価値とは何だろう?

人生のゴールとは、働くことの価値とは

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「人はお金持ちになりたいのに、お金持ちになったら人は幸せなのか」
「自由は人を幸せにするのか」

そんなことを、人は一回くらいは考えたことがあるだろう。

「富豪に見初められてお金持ちになれたらいいのになー」とか、「宝くじ当たったら仕事を今すぐ辞められるのにな」などの夢を描く人も少なくない。

では、働かずに自由に生活することが、人生のゴールなのだろうか。
そこを目標にして、果たして本当に良いのだろうか。

この問いに対する答えのヒントが、最近読んだ本に書いてあって私は衝撃を受けたので引用する。

私は「余暇」が人生の目標だと考えていた。

この考えがどこから来たのか定かではない。しかし私が経験していたストレスの相当な部分は、「余暇」と「リタイア」が幸せな人生の究極のゴールだと考えることから来ていたのは確かだ。

いずれにしろ、「永続する余暇」を究極のゴールと考えるのは大いなる間違いだということに私は気が付いた。

仕事は人生の土台であり、深い満足をもたらしてくれる源である。私たちは働くべく創造されている。働くことで人生に喜びが生まれ、働くことが幸福をもたらす。労働は最も名誉ある”祈り”の形の1つなのだ。

なぜ、私たちは、仕事の量は少ない方がいいという神話に好意を抱くのか?
それは私たちが心の奥で、自分は”働きすぎている”がゆえに適切な生き方をしていないという想い違いをしているからだ。

仕事”だけ”が人生だと言っているのではない。しかし、適切な量の労働は満足できる人生に必要不可欠な要素なのだ。

労働はなくてはならないものである。
労働は解放である。
適切に行われる労働は喜びである。

※途中の文章を中略しています

「時間を増やせば、人生が変わる 時間投資思考(ロリー・バーデン著)」より引用

これを読んで私は、「働くことの価値は給与に比例する」という考え方が、まったくもって間違っているということに気が付いた。

私は看護師として働くことで、いったいどんな喜びを得ているのだろうか。どんな満足をもたらされているのだろうか。

そういうことを考えたことがなかった、わけではないが、そういう目に見えない物の価値について、あまり深く考えてこなかったのかもしれない。

看護過程で色んな患者の人生について考えてきたのに、自分の人生については考えられていない自分がそこにいた。

自分の人生について、今一度考えてみる

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看護師は職業柄、他人(患者)の人生について「この人はどんなことに重きを置いてきたのか」とか、「何を生きがいにしているのか」とか、そういうことを考え、カンファレンスなどでよく議論する職業である。

でも意外と、自分については無頓着だ。

自分の気持ちがわからない。
何が好きなのかわからない。
何のために生きてるのだろう。
何が楽しくて生きてるのだろう。
どうしてこんなに辛いのに働いているのだろう。

そんな気持ちの答え合わせをすることなく、多くの人は「働きたくない」と思いながらも働いている。しかし、それを一度深く考えることによって、人は「働く意味」を初めて感じ、自分の職業に向き合うことが出来るようになるのではないだろうか。

さらに言えば、

この職業の何が楽しいんだろう。
辛いと言いながらもなんで辞めないんだろう。
達成して楽しかったことはなかっただろうか。
充実した瞬間はなかっただろうか。

ということを考え始めると、だんだん自分が見えてくるようになるのかもしれない。

世の中には職業が沢山ある。
別に今の職業だけしかできないということはない。

今の職業に、何の満足感も、充実感も、妥当な給与も得られず、ただ辛いだけなら、その職業は人生に対して無価値だと思っていい。私はそう思う。

どんな職業であれ、働くことによって得られる価値は人それぞれである。

雰囲気が良い職場環境だったり、クライアントとの接し方だったり、上司の自分に対する評価だったり、人間関係だったり、チャレンジできる環境だったり、社会的価値だったり。

与えられた環境で、どう過ごすか、どう感じるかは自分次第だし、自分の考え方次第で同じものでも良くなったり悪くなったりもする。

要は、自分の中で「仕事とは」「働くとは」「お金を稼ぐとは」という命題に、どう決着をつけるかどうかなのだ。

環境が自分の価値を決めることもあるだろう。
しかし、自分が環境の価値を考えることの方がよほど大事なのかもしれない。

今、自分の職業について疑問に思ったり、人生について思い悩んでいる人がいれば、今一度見つめなおしてみて欲しいと思う。

さくらこ

Twitter:@sakurako_ope
site:看護師指導の基本となるもの

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