映画『聲の形』/生きるのを手伝ってほしい、について
今日『聲の形』が金曜ロードショーで放送された。せっかくなので、この映画について思うことを書いておこうと思う。思ったことについて書こうとすると、いくらでも書ける気がする。そう感じるくらい、いろいろ考えさせられた映画。だから「生きるのを手伝ってほしい」について思ったことに絞って、できるだけ手短に書いておこうと思う。(短くないけど・・・)
主人公の将也が小学生の頃の回想シーンは胸が痛む。将也は転校してきた硝子をいじめ、そして逆にいじめを受けることになる。私たちは、硝子をいじめる将也に強く憤る。その後にいじめを受けるのは自業自得だと感じる。「自分に犯した罪は、そっくりそのまま自分に跳ね返る。その罪を背負い、罰を受ける必要のある人間だと思い知った。」そう将也も独白している。でも本当にそうなのだろうか。
将也がいじめられたのは「悪いことをしたから」ではない。上手く立ち回ることができなかったからだ。彼はもっと、バレないようにいじめることができたはずだし、バレたときに周りに敵を作るようなことを言わなければ、いじめられなかっただろう。でもそうしなかったのは、彼の行動がとても「子供っぽい」ものだったからだ。そしてそれが、私たちが将也のことを嫌いはなれない理由だ。彼の子供っぽさは、私たちの中の何かにつながっている。将也が「気持ち悪いんだよ!」と言いながら、硝子に砂をぶつけたとき、私たちは怒りを感じる。でもそれと共に「やり切れない気持ち」も湧き起こる。悲しい気持ちになる。それはどこか深いところで、将也の気持ちに共感するからだ。子供っぽい衝動とはつまり無垢な衝動だ。将也は無垢な衝動によって罪を背負う。果たして無垢であることは罪なのか。将也は、硝子を苦しめていた。だから将也は加害者だ。でも「無垢な加害者」とでも呼ぶべきものだった。
高校生になった将也は深い罪の意識を持っている。「自分の中の無垢な気持ち」が罪を犯したのだ。そういう重い十字架を背負っている。「俺、最低な人間だから。本当は生きていちゃまずいヤツだから。」
そこまで思いつめなくても、ちゃんと反省すればよいんだ。そう私たちは思う。でもそんなに簡単な話じゃない。無垢な気持ちが罪を犯したとき、私たちは反省できるのだろうか?私たちは配慮が足りなかったとき、うっかりしていたときに反省する。もっとうまく立ち回ることが出来たはずだ。そう信じるとき、人は反省することが出来る。「無垢な衝動」とは、無意識に湧き出てくるものなのだから、反省なんてできるものではない。それが罪深いと信じるとき、私たちに出来るのは自己否定だけだ。
自分の無垢な気持ちは、罪深いものを含んでいる。将也を捉えた行き場のない考え。それは一見、不幸な出来事が招いた「見当違いな自己否定」のように見える。でもそれは見当違いなんかではない。私たちが抱え持つ、根本的な自己否定だ。私たちはどこかで「それ」に直面してしまうのか、直面せずにいられるのか。その違いがあるだけだ。そして硝子は将也と同じく「それ」に直面してしまった人だ。すぐに「ごめんなさい」と謝ってしまうのは、彼女の根本的な自己否定だ。それでも私たちが生きていけるのは「根本的な自己否定を知っているからこそできること」があるからだろう。将也が硝子に「生きるのを手伝ってほしい」と伝えたのは、硝子には「手伝う力がある」と感じたから。彼女の中に自分と同じものを見つけ、その資格を感じ取ったからだ。そしてそれを感じ取れるということは、硝子に生きる意味を与えられるということだ。将也は罪深い自分を知っている。深い自己否定を知っている。だからこそ硝子に生きる意味を与えられる。あの橋の上のシーンは本当に美しい。
本作は「障害」を扱っている。それは声が届かないという障害だ。硝子は他人の声が聞こえない。将也も自分の気持ちをうまく伝えられない。私たちはみな、自分の気持ちを他人に伝えるときに「うまく伝わらない」という障害を経験している。例えば何気なく言った言葉が、誰かを深く傷つけているかもしれない。それは将也ほどではなくても、加害という罪と繋がっているかもしれない。私たちは知らず知らずに加害者になっていることがある。そしてそのことに気づき、深い自己否定にたどり着いてしまうことがある。反省のできない自己否定。そこから私たちを救い出してくれるのは、私たちは「障害」と言うもので繋がっているという事実だ。将也と硝子の物語は、私たちにそのことを気づかせてくれる。強く勇気づけてくれる。生きるのを手伝ってくれる。そういう物語なのだと思う。
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