10年前 19歳

種子島宇宙センター ロケットエンジン横から失礼します。櫻井創です。

最初の挨拶のシステムサザエさんみたいだ。


あと47日で30歳になります。
47日なんてまだまだですよね。

29歳になってからの方が短いんじゃないかってくらいまだまだ29歳です。


今日は10年前の日記を書きます。
別にこれといって被害を受けたわけではないですが、特別な意味を持つ日であることは間違いないので。

10年前ということは、
あと47日で20歳という19歳だったんですね。

当時の自分はカウントダウンなんてやっていなかったので、まだその10代の万能感に溢れて過ごしていた気がします。


10年前は個人的にも1つの節目でした。
大学に入学した年です。

あれ?今年30歳で2011年度入学?
と言って数え始めたその指を止めてください。言います。言いますから。自分で。

自分は1浪で、大学に行きました。

お金がなかったので予備校に通えず自宅浪人してたんですがその1年はそれはもう苦しかったのでこの1年についてもまたいつか書きます。


さて1年浪人して、
北海道大学の前期にも落ちて、
いよいよ後期試験しか残されていないというタイミングです(お金がないので私立には絶対行ってはいけないと言われていました)(全然知名度無いけど弘前大学は国立大学です)


3月11日は後期試験の前日でした。

3月12日の後期試験のために
北海道から青森に向かっているのが3月11日でした。


当時は北海道新幹線も開通していませんでした。特急で札幌に出て、そこから函館、函館から青函トンネルを通って青森というルートです。

次の日は試験でしたが、正直、弘前大学に入学するには余りあるほどセンター試験で点数を取っていたのであまり電車内で勉強をしていませんでした。

渡島半島を眺めながら始めたてのmixiで面白い日記を書こうと躍起になってたような記憶があります。



さて震災が起きたのは、
この北海道ー青森をつなぐ巨大海底トンネル
青函トンネルのど真ん中でした。


そんなタイミングあります?すごい確率


でも地震が起きたと気づくのは遥か後のことになります。青函トンネルの中では揺れは全く感じませんでした。

ただ電車が青函トンネルのど真ん中で止まっただけでした。

当時の携帯電話にあるのはワンセグでしたがそれもつながらず、しばらく車両アナウンスもなくただただ情報も取れずに青函トンネルのど真ん中で過ごしておりました。


何時間止まっていたことでしょうか。
夕方頃、青森側の地上に出てきた時に初めてその街を襲う洪水の映像を見て本当に驚いた記憶があります。


さて、この電車には私と同じように
次の日に試験を控えていた生徒がたくさんいました。

電車は青森側に到着したが、駅が沈んでいるのでこれ以上進むことは出来ないということになって
その生徒たちが車両に一同に集まりました。


数十人居たでしょうか。
あるメンバーはタクシーを呼んだからそれに乗って明日の試験に間に合うように皆で向かおうと言いました。

今、顛末を知ってから考えると絶対に行くべきではないのですが、当時は試験が中止になるかどうか正しい情報が取れずにいました。

現役生は、より焦っていたでしょう。
浪人したくないという想いで、なんとか試験があったら受けられるようにと。

自分は、浪人をしてることで、もうしたくないという思いはあれど冷静に試験は無くなるだろうと考えられていたことと、弘前大学には余りあるほどセンターを取った(でも北大には全然落ちるくらいの点数)の人をそう簡単に落とさないだろうと思っていたので行かない決断をしました。


電車は青森側に止まっていても余震などで危ないのですぐ函館側に戻ることが決まっていました。


そのあと何人かはそのまま
タクシーで弘前に向かいました。

そのあとのニュースからするにそのあと試験もなくなり、電車もなく北海道に帰れず何日も弘前にいたことでしょう。


自分も現役生ならそのタクシーに乗っていただろうか。乗っていたら何か今とは変わっていたこともあったのだろうか。

たまにそんなことを思います。


さて電車に残った組も
青函トンネルを戻っても駅に戻れるわけではないので、北海道に入ってすぐの線路の途中で夜を明かすことになりました。


僕は勉強道具と最低限の下着しか持っていません。
ペンは銃よりも強しとよく言うけれどこの状況ではペンはビスコよりも弱しです。


なけなしのお菓子を少しずつ食べていると
車両アナウンスが流れました。


車両アナウンスは

【持ってる食べ物を全部出してください】

と言いました。


丁寧語の車両ジャックにあったかと思いました。


やはり人は動揺すると何を起こすか分からないんだ。食べ物が1番大切な状況になってそれを力づくで奪う組織が結成されたんだ。

とかなり本気で思ったのですが
説明を聞くと、有事に備えて集めた食料を
平等に再分配するとのことでした。


なんて民主主義。

素晴らしい世界だ。

と思ったのですが、僕が提出したビスコやカントリーマアムや、その他の食料は配られることはありませんでした。

JRの人は当日勿論ものすごく大変だっただろうけど、あの俺のカントリーマアムをどこにやったかだけ教えて欲しい。


でもいい事もありました。

お腹すきまくって苦しんでたら、
後ろの知らないおばさんが

「入試だったんだって?大変だね?これ食べな?」って言って大福を2つくれました。


ありがとうございます!
って言ったんですけど2秒後に

あれ?このおばさん全然食料提出してないな

と気づいてから
複雑な気持ちで大福を食べました。

甘い甘い大福でした。


そんな感じで夜を明かし、朝自衛隊の人が歩いて持ってきてくれたお茶とおにぎりは本当に美味しかったです。

忘れられない味のひとつ。


ただ、おにぎりはセブンとかの商品を自衛隊の人が1人2個配ってくれたんですが、自分だけ何も具がない雑魚おにぎり2つだったのは、なんかなんとも言えない気持ちでずっと10年残り続けています。

もう1つは具アリに変えてくれる気遣いを求める自分は醜いだろうかと考えてしまいます。


因みに大福のおばさんはシャケと明太子でした。


納得がいきません。


でも自分らの体は無事だったし、
弘前大学にも受かってたのでそれ以上はないですね。忘れることはない日なんだろうな。

そんな1日でした。
ありがとうございました。



【似てる】置いておきます。


今日もまだ29歳。
また明日。

そんなそんな。気にしないで下さい。カンパ制のライブくらい気にしないで下さい。