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7月「エーデルワイスの思い出」8.5

 自分の感情がどうにも自分でコントロール出来ない、そんなことは記憶を失くしてから初めてだった。私は店長のおかげもあって、記憶がなくても好きな仕事をしているし、生活する場所も与えてもらった。だからこのまま記憶が戻らなくても良いんじゃないかと思っていた。でも彼に出会って、今日一日を過ごしてみて、時々心がパンクしたように興奮したり、モヤモヤとした感情が昂って、突然泣いてしまったり…自分でも明らかにおかしいと思っているのに、ずっとその理由が解らなかった。

 結局気づいたら、私は記憶を探すことになっていて、彼は私の両親のお墓参りに連れて行ってくれた。それでも違和感はなくなってはくれなくて、私は親しい友人関係だったと知った時、せめて呼び名から変えてみようと思い、彼に提案してみたけれど反応はイマイチだったし、彼に「絢ちゃん」と呼ばれたことで、私の中の違和感は倍増した。でも私が彼を花巻さんと呼ぶと決めた時…

『名前で呼ぼうかとも思ったんだけど、何かいきなりで緊張しちゃうから、慣れてきてからその…創(はじめ)くんって呼びたいと思ってるんだけど、ダメかな?』

 あれは自分で口にした言葉だったはずなのに、なぜか初めて口にしたという感覚だけがなくて、宙を彷徨っているみたいな感覚に陥った。そしてその言葉を聞いた彼が、今にも泣きそうな顔をしているのに、無理やり微笑んだみたいな顔をして、

『いや、それでいいよ。名前で呼んでくれるの、楽しみにしてる』

 そう告げる彼の言葉がどこか儚さを含んでいて、楽しみにしてると言ってくれたのに、まるでそんな日はもう来ないというように諦めて見えて、私の心は哀しくなった。

 なぜ彼に対してだけ、こんなにも自分が感情をうまくコントロール出来ないのか…彼と接するだけで、私自身に対する違和感が大きく膨らんでいくのか…。それを理解出来たのは、彼が最後だと言って連れてきてくれた場所でのことだった。車を走らせ海が見えてきた時、なぜだか急に胸を締め付けられるみたいに苦しくなって、心の奥がざわめきだっていった。その苦しみを紛らわすために、私は無意識で運転する彼の左手に、自分の右手をそっと添えていた。自分で自分の行動に気づいた時は驚いたけど、彼が何も言わずにそっと私の手を握ってくれたことで、心の中のざわめきや苦しみは何ごともなかったように凪いでいった。

 車を降りて、海を見つめる彼の顔が歪んで見えた。それは言葉で表すのなら悲痛だ。海の中の、もっとずっと奥深くを見つめるように立っている彼を見れば、先程凪いだはずの苦しみやざわめきが、再び私の中にも湧き起こっていく。しかしそれよりも気になるのは、彼の顔色の悪さだった。私はすぐに彼に声をかけて帰ろうと促したが、その答えに返ってきた言葉は、予想もしない言葉だった。けれど彼が話した私たちの関係を知った時、私の中で散々起きていた違和感が形となって現れて、私はその正体にようやく気づいたのだった。しかしそれもあっという間のことで、彼が最後に放った言葉に、私の怒りは遂に沸点に達した…。

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