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1月「雛菊の願い」⑤

 毎朝起きて、一番最初に目に入るのは、あの日もらった黄色い雛菊の花だ。

『いつもこの花を見ると姫奈(ひな)ちゃんを思い出すんだ…って、この花の意味を知ったら、姫奈ちゃんにはまた怒られちゃうかな』

 花をくれた大学生の彼がそう言って、私に手渡した黄色い雛菊の花言葉は「ありのまま」だった。彼はこの花を見ると私を思い出すと言った。そしてこの花の意味を知ったら怒られるとも言った。

「つまり…私が、ありのままじゃないって言いたいわけ?」

 思い当たる節がないわけじゃない。きっとあの日オフィス街で会った時のことを言っているに違いない。女子高生が無理して大人の彼に合わせようとしている、そんな風に見えたんだろう。そんなことは、私自身がいちばん解っている。だけどそれをあの人に、まるで知った風に言われるのは気に障った。そもそも子ども扱いしているようにちゃん付けで呼ばれるのも、気に食わない。おばあちゃんの茶飲み仲間だからって、私にも気安く接しないで欲しい。そう思っているのに、私は律義にこの花を自分の部屋に飾って、水まで替えている。毎朝これの繰り返しだ。

「花に罪はないもの。意味なんて関係ない」

 まるで呪文のように、今日も同じ言葉を口にする。そしていつも通り、学校へ出掛けた。

 彼に会えない日の1日は長い。学校の授業も友人との会話も、楽しいけど何かが足りない。彼と会えない日は、時々メッセージのやりとりをする。けれど仕事の邪魔にならないように…と考えて、時間帯を考えたり、私からはなるべく送らないようにしている。本当はもっと話したいし、もっと声が聞きたい。でも彼の負担にならないように、わがままを言わないように、必死に自分を抑えている。そんなふうに私が我慢していることを、勿論彼は知らない。彼の隣に並ぶのに相応しい人になりたいという努力によって、私は彼に大人びて見せることに成功している。私は彼にそう思わせることで、自分の願いを叶えているけど、それは同時に自分の欲求を全て抑え込まなければならなくなった。会いたくても会いたいと言えない、声が聞きたくても私からは何も言えないし、電話も出来ない。メッセージも私から発信することだってない。それが私の我慢と努力の上に成り立っていることに、彼は一度だって気づかない。我慢しなくていいよ、もっとわがままを言ってもいいんだよ…なんて言葉をかけてくれたことはない。当然だ、彼は私がそうだと知らないんだから…。

 夕方、学校帰りの道すがら、偶然彼に遭遇する。いつも出会う時は、化粧をして大人びた格好をして、高いヒールを履いているのに、今日は見るからに女子高生の…彼から見て子どもの私だ。そしてよりによって彼の隣には、大人びた格好ではない、本物の大人の女性が立っている。

「姫奈。学校、この辺なんだね。やっぱりこうして制服姿を見ると、女子高生なんだね」

 彼が初めてバラの花を贈ってくれた時、制服姿の私を見て、贈る花を間違えたと言ったあの日から、私は彼の前で女子高生で居ることをやめた。それなのに、今…よりによって本物を連れて、あの日と同じセリフを耳にする。隣に居る本物の女性は、彼に「女子高生の知り合いが居るの?」と親し気に話しかけている。なんて屈辱的な時間だろう。

「学校帰りだから、またね」

 それでも私は悟られないように、笑顔で答える。心は泣いているのに、彼の前で泣き出したらそれこそ本当に自分が子どもなのだと、隣に立つ本物の大人の女性ではない、繕っただけの、大人びて見せている子どもに過ぎないのだと、思われたくなかった。だから平気なフリをして、二人の前から笑って別れる。同じ歩調で通り過ぎて、心のどこかで期待しながら振り返って見たけど、既に彼の姿はどこにもなかった。

 当然だ。これが、私のたゆまぬ努力の賜物だ。

「…姫奈ちゃん?」

 彼が去った方を遠くに見つめていると、同じ方向から大学生の彼がやってきて足を止めた。そして彼はまた私をちゃん付けで呼ぶ。子ども扱いのように、屈んで私の顔を覗き込む仕草も、気に障った。あの黄色い雛菊の花の意味を知っていて、私に贈ったことも全部が癪だった。それなのに…彼の姿を見た途端、涙が溢れて止まらなくなった。ずっと溜め込んでいた、抑えてきたものが、彼の前では塞き止められなかった。それでも自分の中の最後の抵抗なのか、声を出さずに泣いている私を見て、彼はそっと私を抱き締めた…。

 しばらくして落ち着きを取り戻すと、花の香りがすることに気づいた。どうやら彼から匂いが漂っている。

「花の香りがする…」

「え、ああ。ごめんね、匂いには結構気をつけてたんだけど…昨日は香りの強い花ばかり扱ってたから、匂いが移ったのかも。臭かったかな」

 花の香りがすると口にすれば、彼は慌てたように私の体を離して、自分の匂いを嗅ぎだした。香りがするとは言ったけど、謝られるようなことはされていない。極めつけに「臭かったかな」と言いながら距離を取られたことが癪に障って、思わず強めの口調で口を開いた。

「誰も臭いなんて言ってないじゃない!」

 彼の驚いた顔を目にしながら、それ以上に自分が自分の声の大きさに驚いていた。強く言い過ぎたと思って謝ろうとしたが、先に彼が申し訳なさそうな顔をして「ごめんね」と謝った。その「ごめんね」が、まるで癇癪(かんしゃく)を起した子どもに対する扱い方のように思えて、私の中で何かが切れた。

「ごめんねって何、悪いことしてないんだから謝らなくていいじゃない。大体、あの花だってどういうつもりで贈ったの? あの花を見て私を思い出すって言ったけど、好きな人のために大人びた格好をして繕った私に、ありのままで良いって言いたいわけ? 子供のくせに、背伸びしてるとでも言いたいの? そんなの私がいちばん解ってる! 似合わない格好して、彼の隣に立って相応しい人で居るために、いろんなこと我慢して言いたいことも我儘も言えずに、それでも全部彼が好きだから。彼のために必死になってる、そんな私が滑稽だって言いたいの?」

 あの日、黄色い雛菊の花の意味を知ってから、毎朝花を見てモヤモヤしていた。それを一度口にしてしまえば、勢いに任せて我慢していた言葉も、呑み込んだ言葉も、皮肉と一緒に溢れた。それでも彼は、私の話をじっと聞いていた。最後まで何も言わずに聞いて、厭なこともたくさん口にした私に対して辛そうに微笑んだ。

「ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだ。姫奈ちゃんが、彼のために必死に努力してるのをバカにしたわけじゃない。彼のために相応しい人間でありたいと願うのも、間違ってるわけじゃない。でもありのままの君も良いってことを伝えたかった。大人の姫奈ちゃんも、そのままの姫奈ちゃんも、両方良いって伝えたかったんだけど…ダメだね。思っただけじゃ、なかなか伝わらないな。あの日、大人びた格好をした君を目にして驚いて、思わず姫奈ちゃんと呼んでしまったけど、それも君を不快にさせたよね。何も考えずに思ったことを口にして、よく怒られることはあったんだけど…ごめんね」

 彼はそう言って、私の前から去って行った。

「なんで…そんなに辛そうに笑うのよ。まるで私が傷つけたみたいじゃない…傷つけられたのは私なのに、なんで…」

 最後に見せた、彼の辛そうな微笑みが、とうぶん頭の中から離れていきそうになかった。

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