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1月「雛菊の願い」③

「何ですか? 言いたいことがあるなら言えばいいじゃないですか」

 嫌味を言えば言う程、自分が子供じみているのを晒しているようだったが、一度口をついて出てしまった言葉は、自分でも止められそうになかった。

「いや、何もないよ。おばあちゃんはその後どう?」

 私のツンケンした態度に嫌な顔一つしないで、会話を進めようとしてくる彼に、正直早くここから去ってほしかった。でもおばあちゃんを助けてくれた彼が、ただおばあちゃんを心配して様子を聞いてくるのを邪険には出来なかった。

「あなたのおかげで大事には至らなかったし、かかりつけのお医者さんがすぐに来てくれたので、少しずつですけど動けるようになってるみたいです。母もおばあちゃんもあなたに感謝してました」

「そうなんだ、良かった。でもぎっくり腰ってクセになるっていうし、あまり無理しないように伝えてね。最近は仕事が忙しくて、隣なのになかなかお見舞いにも行けないんだけど…近いうちに顔出すって伝えてくれる?」

 彼の口から「仕事」と出たとき、私は違和感に気づいた。そういえば、おばあちゃんを助けてくれた日も、お礼に晩御飯を誘った母に対して仕事があると断られたと聞き、気になったものの深くは追及しなかった。けれどここはオフィス街だし、夜のお店に向かう少し派手な格好をしている女性たちも居る。普通の大学生がバイトするような場所にしては、少し似つかわしくない場所だった。それに今の時間はどう考えても、これから働くという時間にしては遅くはないだろうか。勿論夜のバイトかもしれないし、そういう仕事は他にもあるだろう。けれど、それにしては彼の格好が普通過ぎる。まさに大学生が大学に通う普段着のような恰好だった。

「仕事って何の仕事してるんですか…?」

 思わず口にしていた。あれ程早く立ち去ってほしいと思っていたのに、彼の仕事が気になるあまり、私自身が引き留めていた。彼は私が質問したことに対して、なぜかじっと私を見ていた。

「な、何ですか。答えたくないことなら答えなくてもいいです」

 彼が私をじっと見ている時間は本当に短かったのに、居た堪れなくなる気がして、私はすぐに視線を逸らした。

「いや、答えたくないとかじゃなくて…うーんと、どう言ったら怒られないかなって思って…」

「は? 怒らせるような仕事なんですか? え、もしかして…怪しい仕事ですか?」

 彼の返答に対して私が訝しげに聞き返すと、彼はきょとんとした顔をした。それがまた私の中で、疑問を浮かび上がらせる。

「ああ、仕事の話じゃなくて。ほら、話しかけた時は凄く嫌そうにしてたし、早く立ち去ってほしそうにしてたでしょ? でもおばあちゃんの様子を聞けばちゃんと答えてくれるし、俺に興味なんてないだろうのに、会話を続けようとしてくれて…姫奈(ひな)ちゃんは優しいね」

 彼の言葉に、言葉をすぐには返せなかった。話しかけられた時の態度から嫌そうにしていたのがバレたのは、まだいい。それよりも言葉にも態度にも出していないと思っていた「早く立ち去ってほしい」という気持ちまで、見透かされていたのだと思えば、私には羞恥心しかなかった。そこに加えてちゃん付けで呼ばれた上に、優しいねなんて言葉をかけられて、私の感情は恥ずかしさと怒りでぐちゃぐちゃになった。

「やめて! 子ども扱いしないでよ‼」

 思わず大きな声を出していた。すぐ近くを行き交う人たちが、私を振り返っていく。それもまた一層恥ずかしさが募って、これ以上変な注目を集めたくなくて、私はその場で俯いた。

「姫奈…?」

 俯いたままの背後に聞き覚えのある声がかけられる。すぐに振り返ってみれば、待ちわびた大好きな彼がそこに立っていた。

「どうしたの、大丈夫? 遅れてごめんね。何か遠目から、揉めてたように見えたんだけど、何かあった?」

「ううん、大丈夫。あの、道を聞かれただけ…。でも私、この辺のこと解らなかったから…大丈夫」

 遠目から見たと言われて、さすがに会話の内容まで聞かれていないだろうと思ったが、大人ぶった子どもじみた自分を見られたのか…と思えば、自分がただ情けなくなって、適当な嘘と苦笑いで誤魔化した。その言葉に彼が安心して遅くなった理由を話してくれる間に、私はさっきまで大学生の彼が立っていた場所に視線を向ける。勿論そこに彼は居ない。どの時点でここから離れていったのか、俯いている私には解らなかったけれど、少なくとも彼が声をかけてくれた時には居なかったんだと思う。俯いていたし目を瞑っていたから、離れていく姿を直接見てはいない。でも、離れる前に聞こえた大学生の、小さな「ごめんね」が私の耳に届いていた。

 それはとても小さくてささやかな声だった。ぎりぎり聞き取れるくらいの声だったけど、それは確かに「ごめんね」と聞こえた。そして恐らく大学生の去り際と思われる時、彼からは花のような香りがしたのを憶えている。香水のようにはっきりとした香りではなかったけれど、それは彼の人柄と同じように優しい香りだった気がする。あの「ごめんね」を、彼は俯いたままの私に対して、どんな表情で伝えたんだろうか…と思えば、自分の彼に対する態度と最後に言い放ってしまった言葉に、私は少しずつ後悔が募っていった…。


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