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「私」という色眼鏡越しの「世界」のおはなし

ありきたりな言葉だが、世の中には色んな人がいる。
これは、その果てしないグラデーションの中の「私」というひとつの地点から「私」という色眼鏡越しに見た、「あなた」と地続きの「世界」のおはなし。

都合上事実をぼかしている部分がある。当時の私を知っている人が読んで不快にさせてしまったら申し訳ない。
筆が乗って長くなってしまった。こんなの読めねえよ!という方には高専1年以降を読むことを勧める。
私の一番伝えたいことは2に詰め込んだ。忙しい人はそれだけでも読んでほしい。


1.「私」という地点の話

出生~6歳頃


私の故郷は、鉄道の通っていない小さな町。生まれつきの難病で中途失明した父と、父を支えながら育児に奮闘する明るい母のもとに生まれた。きょうだいはいない。
父の介助をする母の姿を見て育ったので、物心ついた時から父と外出するときは手引きをしていた。父と私は52歳差で、一緒に歩いていると地元の人から「おじいちゃんのお手伝い?えらいね~」と声をかけてもらうこともあった。
ぬりえが好きな子どもで、持っているいろえんぴつの全色を使ってカラフルに塗っては、「にじいろ~!」と周りの大人に自慢していた。初めてそのにじいろのぬりえを見た祖母から、汚物でも見るような目で「何これ…人の肌は肌色、髪は黒色でしょう?虹色じゃないでしょう?」と言われたときは泣いてしまったっけ。

小学1、2年

奇抜なぬりえを量産する個性的な幼児だった私は、就学前健診でその独特な一面を指摘されていたらしい。「この子、発達障害とも知的障害ともつかないけれど、もしかしたら通常学級には馴染めないかもしれません」
その不安は的中。入学早々から毎日忘れ物をし、先生や母を困らせた。小学生あるあるの給食袋や体操服に留まらず、筆箱やランドセルまで置いて帰る日があった。
初めは「明日から気をつけようね」と諭したり、持ち物リストを作るなど建設的な対処を提案してくれていた母だったが、次第に様子がおかしくなっていった。叱り方が感情的になり、泣くことが増えた。叩かれたり、肘鉄を食らったりすることもあった。どんなに気を付けても何かを忘れてしまう自分が嫌で、夜になるとよく自分で自分の頭を叩いた。
元気を失くしていく母を笑わせたくて、昼休みは1人漫才の練習をしていた。昼休みになっても食べきれない給食を憂鬱そうに口に運ぶ級友を前に教壇に立ち、オリジナルの面白い話をつくって聞かせていた。我ながらセンスがあった方だと思う。そして、家に帰ったら、中でもウケが良かった名作を母の前で披露するのだ。
しかし、母を笑顔にするのに漫才より効果があったのは、100点の答案用紙だ。勉強は苦手ではなかったので、テストではよく満点を取っていた。母に喜んでほしくて学習習慣を身につけていった記憶がある。

小学3年

ある朝、ハンカチをポケットに入れたつもりで家を出ようとしたが、入れそびれていた。そのことに気付いた母が、家を出る前にハンカチを持ったか尋ねたものの、持ったつもりでいた私は持ったよと返事をした。すると、何かが切れたように母が泣き叫びはじめた。
「こんな子どもを産んでしまったお母さんの責任」
「産んだ者の責任を取ってこれから死んでくる あんたもついてきなさい 一緒に死のう」
私の小さな頭は真っ白、、いや、真っ黒になった。
そして絞り出すように言った。
『生まれてきてごめんなさい』

生まれてきたことの償いとして、母をたくさん笑顔にしよう。幼心にそう決めた。

町から約6キロ離れたところに、大手の学習塾があった。学校でトップクラスに勉強のできる友達は皆そこの塾生だ。母が一番笑ってくれるのは、勉強ができたとき。入塾したいが、塾代は庶民にはとても払えたものではない。しかし、日頃からコツコツ勉強していたおかげかクラス分けテストで特待生の認定をもらえたので、入塾することができた。
塾生のほとんどが「きらきらしたおうちの子ども」だった。いつもニコニコのお父さんやお母さんが車でお迎えに来ていた。休み時間になると近くのコンビニで買い物をしていた。別世界に来たようだった。
中でも印象に残っているのはNさん。いつも使用人さんか秘書さんが高級車で塾に来て送迎をしていた。専属の家庭教師もいるらしい。そんなNさんから聞かされるおうちの話は、まるで童話の中のお貴族様の暮らしのようで、本当にあることなのかと毎度目を丸くしていた。
当初、学ぶ動機は母のことしかなかった。
そこに、Nさんをはじめとした「きらきらしたおうちの子ども」に「きらきらしてないおうちの子ども」の私がお勉強で勝ったら…?そんな想像が降りてきて、負けず嫌いに火がついた。
毎月のテストで特待を維持することが塾を続ける条件だったので、いつも塾が閉まる22時まで居残って勉強した。受験生でないのに遅くまで残る生徒は私しかおらず、帰っていく同級生たちを毎回最後まで見送っていた。
夜になると、塾の前の道の路肩には送迎の車が何台も並んだ。手を振って別れた友達が車に乗って帰っていく。ある冬の日、その様子を眺めながら、あの子が乗った車の中はどんなにあったかいんだろうなあと考えた。すると変な気持ちがして、あまりいい気分ではなかった。その日の帰り道はやけに寒くて手がかじかみ、住宅街に灯る団欒が胸を苦しくさせた。

小学校高学年

4年生に進級するのと同時に、母と2人で隣町に引っ越した。些細なことで感情を爆発させるようになった母が、父の喫煙と飲酒に激怒したことがきっかけだ。母から夫婦別居を切り出されたとき、本当は優しく論理的に諭してくれる父のもとで暮らしたかったが、私の意向を聞かれることはなかった。「あんたはお母さんについてくるよね」こんな言い方をされて断れるはずもない。

ついに小学校生活後半。それは、中学受験を考える小学生にとって、志望校を決める時期に入ったことを意味する。
当時、先生方のご指導と特待生を維持しなければならないプレッシャーのおかげで、この地方の学校ならどこでも選べる学力に達していた。
私立に行くなら特待入学が前提。当日にどんなコンディションで、どんな傾向の問題が出題されても特待合格できる学校を選ばなければならない。そこで、模試でA判定を取った中で最難関の学校より偏差値が5ほど低い他県の中学を第一志望に選んだ。わざわざ遠い学校を選んだ理由には、その辺りの偏差値の学校が故郷になかったこともあるが、そうすれば父と距離をとれて母が喜ぶからというのが大きかった。

それから記憶が飛ぶほど勉強し、ついに第一志望校に特待合格した。
でも、合格よりその塾で特待生になることの方が難しいので、「きらきらしたおうちの子ども」たちの中でついに4年間特待生を守りきったことの方が個人的には嬉しかった。

中学1年

中学校は「きらきらしたおうちの子ども」の更に上「めっちゃきらきらしたおうちの子ども」の集まりだった。医者の子、弁護士の子、教授の子、社長の子。別荘持ち、車2台持ち、特急通学。別世界の別世界。そして、その中に同じ塾出身のNさんもいた。
「めっちゃきらきらしたおうちの子ども」たちには、昼ご飯の食べ方から一線を画した上品さがあった。私は目に付いたものから口に放り込み、男子と張り合って早食いして運動場に飛び出していくタイプだったが、この学校にそんな生徒はいなかった。お箸を美しく持ち、ご飯茶碗を受け皿にして、規則正しく三角食べをしていた。入学したての頃に小学校と同じノリで食べて、浮いた。恥ずかしい。
そんな「めっちゃきらきらしたおうちの子ども」たちにも対抗心を燃やし、受験期以上に勉強に打ち込んだ。定期試験ではいつも学年2位だった。
どうしても勝てなかった不動の学年1位――Sさんの話をしよう。
容姿端麗。特技はバイオリン。とある会社の社長令嬢。スポーツテストでも文科省から表彰されていた。天は彼女に万物を与えすぎだと思った。
そこそこの進学校なので、生徒は全国各地から集まっていた。Sさんも関東出身で寮生。初対面の子ばかりの中学校で唯一面識のあったNさんも寮に入った。高い学費を払いながら寮代も払うなんてどんな世帯収入なら実現できるのか、考えただけで途方に暮れる。しかも、Sさんには弟さん、Nさんには妹さんがいるので養育費は2倍のはずだ。恐ろしい。

中学生になっても忘れ物癖はあまり改善しなかった。母の精神状態は最悪で、手を出されたり部屋に閉じ込められたりした。「めっちゃきらきらしたおうちの子ども」への劣等感も母に対する罪悪感も膨れ上がり、それらに天井から圧されたように机に向かった。Sさんを上回って学年1位になることが目標だった。ある日、Sさんにどうやって勉強しているのか聞いてみた。
「実家に帰ったら家庭教師の先生が教えてくれるよ」
「じゃあ、寮にいるときはどうしてるの?」
「明日私が使ってる参考書持ってきてあげる!」
学校か塾で購入する教材以外を自分で買って勉強するという発想がなかったので、次の日彼女が見せてくれた参考書の山に驚いた。
その頃、我が家では、電気代を引き落とせず電気が止まったり、給食費の催促の封筒を頻繁にもらったりしていた。
そのせいだろうか。参考書の山を目にしたとき、黒い感情が背筋をなぞり、もやもやとまとわりついて離れなかった。

中学2年

中1の冬に始まったコロナ禍の影響で生活は一変した。この情勢の中全国各地の生徒を1つの学校に呼び戻すわけには行かず、動画授業が行われた。母と共に家に閉じ込められる生活は息が詰まった。母を笑顔にしたくて、そしてこの息苦しさを忘れたくて、さらに勉強に励んだ。
某緑色の有名予備校が主催している全国模試で上位入賞して賞品をもらったり、ある資格に最年少合格したりした。それでも母の反応は薄かった。
いつの間にか、私の世界から勉強以外が消えていた。勉強と私だけの世界で、自分を追い込み続けた。一銭も対価の払われないブラック企業社員のような生活。やっても、やっても、喜んでくれない。笑ってくれない。Sさんにも勝てない。ふと頭をよぎる、小学生の頃見ていた迎えの車。Sさんの参考書の山。家庭教師の話。考えても意味はない。私は私の与えられた環境で生きるしかない。甘えんな。欲しがんな。結果を出して、そんなの関係ないって言い切りたい。でも、こんなに勉強しても、もし結果を出せなかったら――

それは2学期の中間試験を目前に控えたある朝のこと。
いつものように単語帳をめくりながら歩いていて、ふと、この努力が何も実らなかったら、と考えた。すると怖くて足が動かない。そういえば、これまでだって一生懸命勉強してきたけど、母さんは笑ってくれなかった。忘れ物も治らない。いつも人を悲しませるだけ。なら、私は、生きていてはいけない?
『生まれてきてごめんなさい』

中学3年

中2後半のことは思い出せないし、思い出せたとしても事実の断片ばかりで時系列がはっきりしない。

命を絶とうとしたところを偶然通りすがりの人に助けられ、精神科に通院した。医師からは半年の休養を勧められるも、勉強しないといけないと言い張って2週間で復帰し、それも案の定長くは持たずひきこもて、そのままその中学を辞めた。そしてある日、通院の予約を入れていたのに病院に行けず、そのまま病院には行かずじまいになった。
また、母にPTSDとうつ病の既往歴があることを知った。その母を苦しませ、再発させてしまった。私がひきこもって以来ライブ配信アプリに夢中になり、家事も会話もせずに画面の向こうのお友達と話すようになった母に何も言えなかった。中1のとき父が定年退職した後も母が働かなかった理由にも気が付いた。母は働けなかったのだ。

転校先は、前の中学があった地域の校区の公立校。
そこは、高校の体験入学で学校名を名乗ると顔をしかめられるほど荒れた学校だった。授業中にメイクをする子もいれば、消火器でいたずらをして以来不登校の子もいた。いつも体から独特な匂いのする同級生は、1Kのアパートに暮らす4人兄弟の3番目らしい。

精神的なエネルギーはとうに枯れていたが、勉強貯金のおかげで試験ではいつも1番だった。学校には行く日もあれば、行かない日もあった。
担任から発達障害を疑われ、受診を勧められたので検査を受けたところ、当たりだった。正直ほっとした。忘れ物の多さや対人関係の下手さをこれで説明できるからだ。今まで頑張っても頑張っても直せなかったけれど、それは私の努力不足のせいじゃなかった。それで母にも周りの人たちにも迷惑かけてきて、これからもかけてしまうのに、自分の保身ばかり考えていて醜い。

学校に行っていない間、居場所となったのがtwitterだ。ある日、とある久留米高専生の垢と偶然繋がった。気まぐれに交わす雑多な会話の中で高専について教えてくださった。自由な校風で、5年かけて理工系を学ぶ学校。就職率もいい。大学編入で学歴ロンダ的なこともできる。
ふーん、ええやん。
その頃、twitterの他に嗜んでいたのが精神医学の医学書を読むことだ。中2のときお世話になった精神科の主治医から、彼が執筆に協力した医学書をこっそりプレゼントしてもらったことがきっかけ。久留米高専の制御情報工学科から大学に編入し、院進して、数理モデルを使って精神医学の未知を解き明かす計算論的精神医学の研究に携わること。それが私の夢となった。

受験までの間、どんな高専生活を送ろうかと学校について調べては心を踊らせていた。まさに捕らぬ狸の皮算用。特に興味を持ったのはロボコンだ。近くの図書館に高専ロボコンについて取材した本があり、私もこんな風に仲間と試行錯誤しながらものづくりをしてみたいと思った。
以前のようにガッツリ机に向かえるほど回復できなかったが、勉強貯金の力で久留米高専に合格することができた。

高専1年

入学してから1週間、いくつもの部活動の紹介を聞いたが、ロボコンをやってみたいという気持ちは変わらなかった。部の先輩も親切で面白い方ばかり。これまで学校生活を勉強ばかりに費やしてきた後悔もあり、勉強以外の何かに打ち込んでみたいと思っていた。
母にロボコン部に入部していいか尋ねたところ、想定していなかった返事が飛んできた。
「……バイトは?」
「えっ」
そう。住民税が非課税だったり、電気が止まったり、給食費を児童手当から天引きされたりしていることは既に知っていたが、それがどれほどのことなのかイマイチ理解していなかった。この時初めて、我が家の財政について現実感を伴って把握した。「大学に編入し、さらに大学院にも進学して研究の道に進みたい」その夢と現実との乖離を知った。
ロボコンに挑戦したい。その思いは本物。でも、私の一番の夢は精神医学を研究すること。
「わかった。バイトする。部活は諦めるよ」
進学のため、そして働けない両親との生活のため、労働時間を計算して複数のアルバイトをすることにした。


標準的な平日


標準的な土日

ほんの少し前まで学校に毎日通うことも安定していなかったのにこの生活をしたら、どうなると思う?
複数のバイトを掛け持ちすることで実現した労働時間。これを何十連勤もこなした。学校行って、働いて、課題して、寝る。行って、働いて、課題して、寝る。前期の終わりには心身共に擦り切れ、鉛のような体を引きずってバイトに向かっていた。
その頃、隣のクラスのIさんと親しくなった。柔らかい雰囲気と気の向くままに生きている感じが面白い。
夏休みのある日、バイトに行くのがどうにも限界で、家を出るべき時間になっても部屋でうずくまっていた。そこで、何となくスマホを手に取り、何となくIさんに連絡してみた。何にも縛られず自由に生きているように見えるIさんなら、こういう時どうするのか気になった。
「ふ~ん…なら、休んじゃえば?」
「ええ?いや、でも」
「何とかなるさ。死ぬよりいいっしょ」
生真面目だった私に一つまみの無責任さをくれたこの言葉がなければ、今生きているかすらわからない。Iさんにはとても感謝している。
夏休みの間、シフトに入れなかった日やこうして休んでしまった日はIさんとゲーセンで遊んだ。(Iさんゲームめっちゃ上手いけど、そんなに遊ぶ財力はどうなっているんだろう?)帰り道に、ぽつりぽつりと家のことやこれまでのことをIさんに話した。何を聞いてもIさんの自然体な態度は変わらなかった。ずっと私を縛り付けていた『生まれてきてごめんなさい』の呪いが緩やかに解けはじめたのは、Iさんと出会ってからだ。

後期になり、次年度の奨学金の情報が耳に入った。序盤で書いた父は目が見えないという話。その原因は遺伝性の病気で私にも遺伝しており、数十年後に失明する可能性がある。それがいつ来るともわからない。そんな不確かな状況で、未来の自分に負債を課すことは避けたい。つまり、狙うは給付型の奨学金。給付型は基準が厳しいが、来年以降勉強に割く時間を増やすため目指すことを決心した。

そう、先ほど貼った生活から睡眠を差し引いて勉強に充てた。

疲弊し、周りを見る視線が歪んだ。
それは、試験直前にゲームをする友達を見たとき。
それは、学業以外のことに挑戦し充実している友達を見たとき。
なんで私だけ、こんなに苦しみ闘いながら高専に通っているんだろう、と。
なんで私だけ、スタートラインに立つだけで困難なんだろう、と。
私だってもっと皆に混ざって遊びたかった。ロボコンがしたかった。色んなことに挑戦してみたかった。
自分の空っぽな高専生活に対するどうしようもない劣等感が、嫉妬が、悔しさが、腹の中を這い回る。
顔や言葉に出してしまったらおしまいだ。肥っていく惨めな感情を表に出さないよう繕った。でも、近付くとつい溢してしまいそうで、友達の何人かと距離を置いた。ごめん。私の一方的な気持ちで、本当にごめん。

私なりに一生懸命勉強した。中学時代ほど無理の利く心身ではなかったが精一杯やった。
それで努力の全てが報われるなら誰も苦労なんかしない。応募した奨学金の中には通ったものも通らなかったものもあった。

高専2年、現在地

いくつかの奨学金に通ったおかげで、アルバイトを減らすことができた。
今年度の目標は去年受からなかった奨学金の審査に合格すること。私の夢の実現には大学進学が必須なので、選択肢を広くもつためにもなるべく高い成績をとりたい。

標準的な平日

これが2年生に進級してからの生活リズムだ。薄々だが、この夢は「身の丈に合わない」「贅沢」なんじゃないかとも思っていた。無理のない暮らしで目指せる、もっと現実的なところを。そんな考えが幾度も頭をよぎったが、やっぱり精神医学が好きで、研究したい。夢は生きるよすが。諦めることはできなかった。

GW明けから、ついに体が壊れ始めた。とてつもない倦怠感で起き上がれない朝が増えた。はじめは何とか耐えて学校に行っていたが、それも難しくなり、遅刻したり休んだりするようになった。
ご存じの通り、高専は単位制だ。出席に関してシビアで、越えてはならないラインがある。
倦怠感はずっと治らなかった。しかし、そのことを母に言えずにいた。溜まっていく欠課時数。出席しなきゃいけない。なのに体が動かない。気分の落ち込みが続き、字を読めなくなり、SNSやTeamsを見ようとすると涙が止まらなくなる。
学校は楽しい。仲間もいい人ばかり。なのにどうして?
単位を落とすと、全単位が必修の久留米高専では即留年となる。
そして留年は、いくつもの奨学金にお世話になっている私にとって退学を意味する。なぜなら、留年すると支援が打ち切りになってしまうからだ。

いくつかの科目で単位取得が怪しくなった頃、担任の先生からお声がけがあった。
「あなたが休んでいるのって、何か事情があるんじゃない?」

昼休みや放課後に勉強している姿を見かけた先生や、
自分でも気付かなかった顔色の変化に気付いてくれたクラスメイトから、
担任の先生に報告があがっていたらしい。

気にかけてくださった皆さんのおかげで、先生に現状を共有することができた。

そして今、病院の待合にいる。

先日、ようやく勇気を出して母に現状を話した。
こんな情けない子になってしまって、きっとまた母が悲しむと思い、困っていることをずっと言えずにいた。
最後に背中を押してくれたのは、先月の誕生日を何人もの先輩や友人、後輩たちが祝ってくれたことだ。皆のことが好きなのに私から皆のためにできたことなんて何一つない。いつも勝手で、空気を読めなくて、向こう見ずで。そんな私の生まれた日を祝ってくれる人たちがいた。
『生まれてきてごめんなさい』の呪いが、また一つ柔らかくほどけた。

この先どうするかは診断次第。診断書を提出して出席について特別な配慮をお願いするかもしれないし、休養のため休学するかもしれない。それは主治医の先生の判断を仰ごうと思う。今の私はかなり考えが暗く、思考の視野が狭い。冷静な判断を下せる状態ではないからだ。

2.「あなた」という地点に住むあなたへ

果てしないグラデーション

この話を読んで、どう感じただろうか。

  • こんな人もいるんだ

  • 自分のいる環境ではこんな人に出会わない

  • 自分と似ている

  • こんな感じの友人がいる

  • 自分よりマシだ

色んな感想があるだろう。あえてそのように書いた。皆さんの感性に解釈を委ね、他の人の感想と読み比べたときに私の意図が伝わるようにしたいという仕掛けでもある。
賛否両論あるだろう中で私という地点の話を書いたのは、これから世の中を創っていく優秀な高専生の皆さんに、この世は果てしないグラデーションだということを知ってもらいかったからだ。

アメリカの起業家・ジムローンの言葉に、「自分の周りの5人を平均すると自分になる」というものがある。職業、収入、個性、生育環境などのグラデーションにおいて、近い地点で暮らす人々は集まりやすい。例えば、高専は近い学力と関心で集まった集団だと言えるだろう。

私は、グラデーションのうち、今までにあなたが読んでくださった通りの「ここ」で生きている。
では、あなたはグラデーションのどこに生きているのか。
また、あなたの周りの人はグラデーションのどこに生きているのか。

世界の誰もが、このグラデーションの当事者である。

伝えたいこと


人間は、自分の視界に入る限られた世界から価値観や「あたりまえ」を形成し、その色眼鏡越しに物事を見ている。

昔は、グラデーションにおいてあまりに遠い地点に暮らす人同士が交わることはほとんどなかった。しかし、SNSが普及した現代では、自分とはかけ離れたあたりまえを持つ人の暮らしを簡単に垣間見ることができるし、逆に自分とは全く違うあたりまえに暮らす人が自分の発言を見ることもある。つまり、グラデーションがごちゃ混ぜの世界になっている。それは良くも悪くもだ。
偶然にも私は、勉強量をこなす体力と少しばかりのセンス、そして良い先生や友人との出会いに恵まれ、この高専にたどり着いた。けれど、生育環境からすると今いるこの場所も「高い」と感じている。

同じ環境にいるよく会う人。SNSで見かけたどこか遠くの知らない人。ごちゃ混ぜグラデーション社会で人と関わる中で、私たちが持つべきものは、

相手は自分と全く違う世界を見ているかもしれなくて
自分の力ではどうにもできないものと闘っているのかもしれないという
『想像力』

自分とは違うあたりまえの中で生きてきた人を自分の色眼鏡で決めつけず
『想像力』をもって認め合う『謙虚さ』

ではないだろうか。

厚労省「令和4年国民生活基礎調査」によると、住民税非課税世帯は全体の24.2%。
日本弁護士連合会によると、生活保護を利用しているのは全体の1.6%。利用資格のある人のうち現に利用している人の割合は2割程度で、残り8割の数百万人が生活保護から漏れている。
これを多いと感じる人もいれば少ないと感じる人もいるだろう。それが、あなたの見てきた限られた世界のあたりまえだからだ。

あるとき、中学校を聞かれて名乗ると、「わあ、お金持ちなのね!」と言われた。私立中の生徒でも、特待生になったり奨学金をもらったりしてやりくりしている学生はきっと私だけではないはずだ。
あるとき、学力重視の入試では所得格差が反映されてしまうから経験重視の入試にしようという意見をネットで見かけた。本当に救済を必要する層に、留学やボランティアなどをする経済的・時間的・精神的余裕があるのだろうか。

あなたがあたりまえに享受しているものが、あの子にとってもあたりまえとは限らない。

最近twitterで、「中学受験は親の財力に全左右されるのか?」という論争を目にした。イレギュラーな環境から中学受験をした者として色んな意見に目を通す中で、誰もが、果てしないグラデーションの中で偶然自分が生まれ落ちた一点から培った色眼鏡を通して物を考えていることに、改めて気付かされた。そして、私もまた「私」という色眼鏡をかけていることを自覚して言葉を発しなければならないと気を引き締めた。

これは、「私」というひとつの地点から「私」という色眼鏡越しに見た、「あなた」と地続きの「世界」のおはなし。

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