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※冷蔵庫にケーキがあります

1001文字/誕生日前夜の話/百合風味


 ああ、そろそろ寝なきゃ。明日世間は休みだが、残念なことに仕事がある。読みかけていた本にしおりを挟む。カレンダー通りに進まない就業にもう飽き飽きしていた。辞めてやるとの愚痴は何度言ったかわからない。アラームを予約しようと枕元へ手を伸ばした。
 スマートフォンがひとりでに起動する。響きわたる着信音。もう静かな夜のことだ。心臓が飛び跳ねる。かぶっていた布団も跳ねた。それが彼女からの着信だと気づくのに、数秒かかってしまった。ひとつ息を吐く。せっかちな彼女のことだから、怒っていなければよいけれど。見慣れたアイコンをスワイプして、スピーカーモードにした。
 聞こえてきたのは街の雑踏と彼女の息遣い。もしもし、と声を出すと、驚いたような嬉しそうな声が返ってきた。
「よかった、起きてた! 今仕事終わってさ」
 昼間に聞く声より陽気になっている。仕事終わりに呑んできたのだろうか。てっぺんに近づくまで呑むのは危ないとさんざん注意したところなのに。華金だから仕方ないでしょと笑う頬をつまんで否定したのも記憶に新しい。懲りてくれないかな。
 一つ寝返りをうつ。シーツが皺を作った。
「もう寝るところだったんだけど? それよりまた呑んでたの、危ないから止めてってこの前言ったよね」
「まあいいじゃん、おいしく飲めたよぉ。華金だしね! さっきメッセージ送ったでしょ?起きてると思ってさあ。電話しなきゃって」
「おいしくとか、そういう問題じゃないって。もうすぐ12時だよ? 危ないって」
「ねえ、今から行っていい?」
 電話越しの声。私の言葉をさえぎった有無を言わさない問い。酔いをはらんだまま伝った不安の吐息にかっと頬が熱くなる。いいよ、と答えた自分の声が震えて響いた。どうかこの震えは彼女に伝わりませんように。こんなことなら、高性能のスマートフォンなんかに変更するんじゃなかった。これがいいんじゃない? と無責任に彼女が選んでくれた、ラベンダー色。
「じゃあ、電車乗ったらまた連絡するね」
 終電あるかなあ。きっと電話を切るためにスマホを遠ざけた。周りの雑踏に声が紛れる。
「あっ、お誕生日おめでとう」
 電話が切られる気配のほんの少し前。慌てたように私が言うと、しばらくの間無音が続いた。どうしたんだろう。もう切ってしまったのか。
 布団をめくる手が震える。
「……うん、ありがと」
 内緒話をするような声色が、そのまま私の鼓膜を震わせた。
 シーツは皺を深くした。

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