ラッセル幸福論を読みながら自分語りです(被害妄想と世評に対するおびえ)

ラッセル幸福論の感想を少し前に書いている。

そのときに、ラッセル幸福論の前半部分の「不幸の原因」で特に印象にのこたところをメモ代わりとしてnoteに書いた。そのときはなんとなく早くnoteに何か書きたい一心で、不幸の原因の途中まで読んだ時点で不幸の原因の感想を締めきったつもりだった…。

しかし、私が前回のnoteを書いた時点で読んでいなかった不幸の原因「被害妄想」や「世評にたいするおびえ」を読んでいたら

ん?この節も自分につながるところがあるじゃん!!!!!!!!

という気持ちでいっぱいになった。そこで今回もラッセル幸福論で印象に残ったところをただ書いていきます。

被害妄想について

ラッセルは被害妄想のことを「狂気の一種」と言っていますね。まあ、考えすぎると被害妄想をしすぎて自分が思っているよりも精神が消耗されることがあるので意味合いは違うかもしれませんが、なんとなく確かにと感じました。

この中で節で特に印象に残ったのは被害妄想の予防策。予防策は4つあると挙げられていました。

第一、あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない。
第二、あなた自身の美点を過大評価してはいけない。
第三、あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味をほかの人も寄せてくれるものと期待してはいけない。
第四、たいていの人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えている、など想像してはいけない

多分ほかの人って自分のことを思っているよりも見ていないんですよね。なんだか特に私には第三と第四が自分にひっかかりました。

時々、外に出ていると(どうして私みたいな人が外にでているんだろう)という気持ちになって悲しくなるときがあるんです。そして、誰にも顔を見られたくない。存在を見てほしくないって思うからです。

ちょうど、昨日久しぶりに人が集まる場所に買い物に行きました。久しぶりというのもあり、さらに化粧品コーナーを見ていると周りはみんなかわいい女の子だらけ。なんだか私を見た人たちが「あんなに可愛くないくせに化粧品コーナーにいるなんて(笑)」「なんでアナタみたいな人がいるの?」と嘲笑っているような気がして、なんだか胸が痛みました。(もちろん言われたわけではないです)

私の顔を見て笑っているような気がときどきするんですよね。

多分、こんなありもしない被害妄想にとらわれている時間が自分を苦しめているだけなんだよなって今noteを書きながら実感しました。

世評に対するおびえ

最近、ネットの誹謗中傷がよく問題視されていることもあってこの節を読みながらなんともいえない気持ちに思いを馳せていました。

世評に本当に無関心であることは、一つの力であり、同時に幸福の源泉でもある

別に自分が芸能人じゃなかったとしても、人の評価が気になることってないですか?

私はあります。

なんとなく好きだった映画が映画レビューサイトで観てみると低評価しているのを見ていると(ええー…)と少しショックを受けることだってありますし、気になったものを調べようとすると世間の評価ばっかり見てしまいます。多分、これは昔よりも今のほうが格段にレビューを気にしていると思います。

好きだったものを悪く言われてると「これが好きなんておかしいのかな?」って思ったりなんて。でも、そんなこと気にしなくてもいいんですね。私が好きなものは良いものだと自分の中で認めればいい。

世界では人気のものが好きになれなくたってそんなの関係ない。(私は結局、タピオ○を飲まずに終わりました)別に「みんな好きなのに、あれを知らないなんてもったいないよ!損してるって」って言われても興味がないなら、ないままでいい。きっとそういう人も世評に流されているのかもしれないだけかもしれない。

なんて思ってしまいました。

もちろん、自分に対する世界の評価も気になります。

このnoteだって書くたびにスキが100個ぐらいもらえないかな~!みんなから読んでもらいたいな~!なんて思いながら書いていますし。最近だってテストライティングを受けたら落ちちゃって、そうか...どこが悪かったんだろう…とか思ったりしますし。評価気にしまくりです。

でも、それだけじゃなくて不安を煽るワイドショーや、陰謀論だと騒ぎ立てるネット世界にも言える言葉な気がしたんです。(もうここまでくると世評どころか、世界や情報と言えますが

意外と情報をシャットアウトしても生きていけるんだとコロナが流行り始めてからなんとなく思いました。私は前に比べると昼間も家にいるので、テレビを観ようとすれば観られますが結局そこまでつけず、情報をシャットアウトしている日々です。多分、無関心で生きられることは一種の幸せなんだと自分も思います。情報はあれば、あるほど自分の首を締めていくことがあるからです。

だから、もしも情報がありすぎてキツキツな気持ちになっている人は、少しの間情報を手に入れない無関心な時間を作り出してもいいのではないでしょうか

あれー!?着地点どこ!?って感じの記事になっちゃいましたね。

あとは

一般大衆が一段と寛容になること

これも大切ですよね。

すごい雑な終わりになっちゃいました。


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