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【掌編小説】ショコラ

ショコラ  ──あるいは、カップルとチョコレートお断りの図書館──




「ねえ、僕、ボンボンで酔っぱらうっていったでしょう」
 アルはソファのひじかけに乗っけていた頭をかしげるように、エルラの方を見た。灰色の髪が揺れ、隠れていた両目が現れる。彼の瞳は、風も凍りそうな日であっても新緑の色をしている。
「しらない」向かいのソファに腰かけたエルラは、古い詩集の、少し日に焼けたページから目を離さずにいった。その指は、肩まで伸びた黒い髪をくるくると弄んでいる。
 ここは、学校から一番近い図書館の、地下にある休憩スペースだ。ちょっとすすぼけた藍色のソファがいくつかと、テーブルがひとつある。照明は暗い。電気代をけちっているんだと同級生の何人かがいっていたが、エルラたちはこの黄昏のような薄暗さを気に入っていた。
 平日の午後。ここの利用者はもともと多くはないが、今日はいっそう人の気配がない。皆、いまになって「バレンタインデーの魔法」にあやかろうなんて考えて、ハート型のチョコレートを買い占めに行ったのか。それとも、最高のシチュエーションでチョコレートを渡すために、「恋人たちの湖」の畔でデート? 湖の周辺がカップルで埋め尽くされる様子を想像したエルラは、首を振った。冗談じゃない。皆そこまで馬鹿ではないだろう──だがこの予想は半分当たりで、じっさい湖の畔はデートに最適だとはいえない状態になっていた。
 エルラが持ち込んだチョコレートを勝手に食べたむくいで、アルはぼんやりした顔でソファに寝転がっている。もっとも、エルラは分かっていた。テーブルの上に菓子の箱を無防備に置いておけば、アルが手を出さないはずはなかったのだ。
 ことばは朝露に濡れ、夜明けの瞬間にのみ輝く──そこまで読んで、エルラは本を閉じた。夜明けだって。エルラは朝日が図書館を照らすのを、詩集を、絵本を、小説を、司書の居た受付を、落とし物の貸出カードを照らすのを想像してみた。その光が地下のこの場所を照らすことはない。ずっと黄昏の場所。この薄暗さに乗じて、ばかなカップルがいちゃついていることも多々(おかげで、何度か「カップルお断り」の注意書きを貼られた。もっともその度に誰かが剥がすので、あまり意味はなかった)。
 エルラは立ち上がって、横になっているアルを見下ろした。その灰色の髪! 皆は単なる灰色だというが、エルラは違うと知っている。アルの髪は、月の下では銀に輝く。エルラは、アルのそばに無理やり腰かけて、火照った頬をつついた。
 アルはうめいた。「つめたい」
「そう」エルラは頬肉をつまんだ。
「つめたくて気持ちいい」
 一瞬動きを止めたエルラの手を、アルは引き寄せた。そのままぐっと上体を起こし、エルラの肩に正面から身を預ける。エルラはなんとか倒れずに受け止めた。チョコレートとラム酒を含んだ吐息が耳元を掠める。しまった。これはよくない状態だ。エルラは何度かまばたきをして、いった。「また、貼り紙を貼られちゃう」「また剥がしたらいい」「司書の人に嫌われるのは嫌。仲いいんだから」「じゃあ僕ひっぱってってよ。すごく眠いんだ」「めんどう」「じゃあいっしょに寝よう。寝てればいちゃついてはないってことでしょ」「そうかな?」「そうだよ」アルはテーブルに手を伸ばし、残っていたチョコをつまむとエルラの口に突っ込んだ。アルの額が、エルラの額と触れ合う。
「おやすみ」
 エルラは、アルほどお酒に弱いわけではないし、突然、とてつもない眠気に襲われたわけでもない。でも、おやすみ、といわれれば、そうなんだな、と思わせる魔力が、アルと、彼の指先と、ラム酒入りのボンボンショコラにはあった。
 
 翌日また図書館に来ると、「カップルとチョコレートお断り」の注意書きがでかでかと貼られていて、アルとエルラは顔を見合わせた。

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