見出し画像

ショートショート |ピエールとエリス

隣の家に住む若い夫婦がいつものように喧嘩をはじめた。

どうやら夫がミルクを買い忘れたらしい。

「だからメモを書いてと言ったじゃない。」

と妻が苛立ちをあらわにしている。

「人間忘れることだってあるじゃないか。」

と夫も負けていない。

毎週のように隣で繰り返される口論はもう恒例行事となった。

自身も、昔は妻と何度喧嘩したことか。

一週間口を利かないこともざらにあった。

怒った時のあの妻の表情。

思い出すとピエールはおかしくて笑った。

妻のエリスと出会ったのは、新聞社に勤め始めてから数年が経った時だった。

その頃ピエールは、仕事に行き詰まると近くのカフェに行った。

そこのコーヒーはまずかったが、流れている音楽は好きだった。

同じことを考えるやつが多いのか、そこにはタバコをぷかぷかふかしながらコーヒーを飲む連中がやたらと多かった。

そのカフェの斜め向かいにあったのが宝石店だ。

エリスはそこで働いていた。

エレガントな女性だった。

宝石店のショーウィンドウには必ず花が飾られていたが、それらはエリスが選んだものだ。

ときどき、花を抱えて店にやってくるエリスを見たことがある。

その後、エリスが持ってきた花がショーウィンドウに飾られるのだ。

店の前にごみがあれば、エリスは必ずそれを拾った。

通行人が通るときには、必ず笑顔であいさつをした。

店の扉を開けるその姿、知り合いに軽く手を振る仕草、
物を拾うときの一連の流れ。

なんでもないそれらひとつひとつが美しかった。

家は反対の方角だったが、わざわざエリスが働く宝石店の前を通って帰った。

何食わぬ顔で店の中を覗きながら、その一瞬の間に必死でエリスの姿を探した。

客と楽しそうに笑っているときもあれば、真剣に何かを書き留めていることもあった。

宝石を手に持つ姿も美しい。

指が細くて彼女自身が宝石のようだった。

そんなふうに彼女のことを想い始めてから1年が過ぎたころ、意を決して彼女の店に入ったことがある。

頭の中で何度シミュレーションを行ったことだろう。

様々な設定を思い巡らせた。

同僚にも考えさせたが、やはり一番自然だと思われたのが母の誕生日という設定だ。

実際に、母の誕生日である9月は近いのだから、完全なる嘘とも言えない。

折り合いがつけば、実際に何かを買ってプレゼントしてやってもいいだろう。

普段は花束で済ませていたが、立派に働いているのだから母も怪しくは思うまい。

宝石店の扉は思いの外重かった。

ひんやりとしたその取っ手を押して店の中に足を踏み入れると、なんとも言えない爽やかな香りが全身を包んだ。

「ボンジュール」

彼女はそう僕に言った。

なんて綺麗な声だったか。

それはまるで初めて聞く言葉のようだった。

一瞬、頭が真っ白になったが、なんとか気を落ち着かせた後にこう言った。

「少し見てもいいかな。」

「もちろんですよ。新しいジュエリーも入ってきたばかりですので、ごゆっくりご覧ください。」

音楽だ。そうだ、音楽に似ている。彼女は歌っていなくても、それは上質な音楽と変わりはなかった。

「贈り物ですか?」

「ああ、そうなんだ。母の誕生日が近くてね。」

「お母様、喜ばれるでしょうね。」

「だといいんだけどね。」

店の中には厳選された美しいジュエリーが並んでいた。

聞くと、それは彼女がフランスの各地で買い付けてきたものだと言う。

この店のどのジュエリーを選んでも間違いがない。

それらは、彼女そのもののようだった。

「お母様は普段、どのようなものを身につけていらっしゃいますか?」

「そうだね、ゴールドのものが多いかな。あまり気にして見たことがなかったから、実は正直わからないんだ。」

「大丈夫ですよ。いくつかご紹介させていただきますね。」

と言って、彼女はケースの中からおすすめのアイテムをいくつか厳選してくれた。

「これらは職人さんが全て手作業で作ったものなんですよ。完璧ではない、あえて歪みのあるデザインが特徴なんです。同じものは一つもありませんから、ずっと身につけているとどんどん愛着が湧いてくるんですよ。」

私は彼女が話す一言一言にすっかり感動し、本当に母へ指輪を贈ることとなった。

はじめ、信じられないという表情をした母だったが、その指輪の魅力を丁寧に伝えると嬉しそうに何度も指輪に目をやった。

母は今でもその指輪をしている。

私が母にあげた花以外の最初の贈り物だったからかもしれないが、母は本当にその指輪を気に入ったらしい。

「実は、エリスを口説くためだったんだよ。」

以前、母に正直に伝えたことがあったが、母は「そんなのとっくに知っていたわよ。」と私を見ながら笑って言った。

午後6時を過ぎた頃、娘のクロエが旦那のリュカと息子のガブリエルと一緒にやってきた。

ガブリエルはつい先日3歳になったばかりだ。

ガブリエルは家に入ってくるなりすぐに庭へと向かった。

ゴールデンレトリバーのシンバが待ち構えているからだ。

「パパ、ただいま!道が混んでいて遅くなってしまったの。」

と言ってクロエはワインやらフルーツやらでいっぱいの袋をテーブルに置いた。

「リュカったら途中で道を間違えたのよ。」

と、こちらも若い夫婦のそれだ。

リュカはさらに大きい荷物を抱えながら家に入ってきた。

「君が左って言ったからじゃないか。」

とこちらの夫も負けていない。

それから10分も経たないうちに今度は息子夫婦がやってきた。

「ボンジュール!」という息子ポールの威勢のいい声が今日も家中に響き渡る。

それを聞いたガブリエルとシンバは庭から一目散にやってきて、ポールに抱きついた。

「大きくなったな〜。」と言いながら、ポールはガブリエルとシンバの両方の頭を撫でた。

台所からは肉と野菜を煮込んだ鍋のいい匂いがする。

今日のメニューはポトフとキッシュ、そして旬のアスパラガスだった。

「ピエール、こっちに来てちょうだい。手伝って欲しいの。」

ピエールがキッチンへ向かうと、エリスが焼き立てのパンをちょうどオーブンから出しているところだった。

僕が思いっきり深呼吸をすると、エリスは満足そうに僕を見て笑った。

しゃべらなくても、「どう、美味しそうでしょ?」と言っているのがわかる。

僕は彼女の頬にキスをした。

音楽みたいに柔らかい肌に。

「ボンジュール」

あの人が店に来た。

エリスは、なんとなくこの日が来ることを知っていた。

名前も知らなければ、一度も話したことがない相手なのにどうしてそんな風に思うんだろう。

カフェに彼の姿を確認すると、なぜか安心感を覚えるのだ。

エリスの家は反対方向だったが、毎日カフェの前を通って家に帰った。

彼がいるかもしれないからだ。

何食わぬ顔で店に目をやり、その一瞬で彼の姿を必死に探した。

新聞を読んでいることもあれば、ノートに何やら書き留めているときもあった。

「わたしよ。」

と心の中で呟いてみる。

彼に届くんじゃないかと思ったからだ。

まさかとは思いながら、本当に彼が振り向いた時は驚いた。

そのときエリスは急いで顔を下げて、慌てて先を急いだものだ。

その彼が今目の前にいる。

「少し見てもいいかな。」

予想通りの声だった。

柔らかく、トゲがない。

全てを包み込むような安心感を感じる。

この懐かしい感じはなんだろう。

この人と初めて話すのに、初めてのような気がしない。

この人の声を初めて聞くのに、初めて聞くような感じがしないのだ。

彼はお母様へのプレゼントを探していると言った。

会ったこともないのに、どのジュエリーがいいのかはすぐにわかった。

これが、彼との最初の思い出となった。

「リュカ、こっちを手伝ってよ!ガブリエル、早く手を洗ってちょうだい!もうすぐご飯を食べるのよ!」

娘のクロエはいつものようにてきぱきと動いた。

その日は5月の空が美しい日だったから、庭のテーブルに料理を広げた。

先ほどエリスが庭で摘んできた花もテーブルに並んでいる。

娘のクロエに続きリュカとガブリエルが席についた。

それから息子のポールが妻のエマと娘のレアと席についた。

エリスが茹でたてのアスパラガスをキッチンから持ってくると皆が一度に歓声を上げた。

アスパラガスを嫌いな人間がいるだろうか。

先ほどまで喧嘩をしていた隣の夫婦はすっかり仲直りしたのか、今度は笑い声が聞こえてくる。

「フォンテーヌさん、よかったら夕食ご一緒にいかがですか?」

ピエールが声をかけると二人は嬉しそうにうなずいた。

彼女が綺麗に包んでくれたプレゼントを手に持つと、ピエールは店を後にした。

いつものあのカフェは今日も人で賑わっている。

名前はエリスと言った。

彼女にぴったりの名前じゃないか。

ピエールはエリスと会話した内容を何度も頭の中で繰り返し再生した。

「ボンジュール」という言葉がいつまでも頭に響いている。

馴染みのカフェの前を通ろうとしたとき、ピエールは一度立ち止まった。

ガラスに映る自分を確認した後、またエリスのいる店へと向かった。

エリスはその様子をずっと見ていた。

あの人がまた戻ってくる。

名前はピエールと言った。

素敵な名前。

彼にぴったりだわ。

扉が開き、ピエールが店に入るとエリスは笑顔で言った。

「おかえりなさい。」

ピエールも恥ずかしそうに「ただいま。」と答えた。

これから何かわくわくすることが起こる。

それは二人とももうわかっていたのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?