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ショートショート | 悪魔

天使は、木枯しの森で初めて悪魔を見ました。

枯れ葉が舞う その森には小さな噴水があり、
悪魔はその水を飲んでいたのです。

それぞれの務めは大きく異なりますから、
天使と悪魔が接触することはほとんどありません。

接触が禁じられていたわけではないものの、
住む世界が違う天使と悪魔はお互いの存在を
認め尊重し合いつつも、
交わる必要がなかったのです。

初めて見る悪魔の羽は優雅に大きく、
静かにも圧倒的な存在感を放っていました。

これまで悪魔の存在にあまり意識を向けることが
なかった天使も、その佇まいを一目見た瞬間、
それまで感じたことのない胸のざわめきを感じました。

“大きくて美しい羽"

“なんて美しい姿だろう"

さっきまで吹いていた風は
いつの間にか止みました。

そこに響いていたのは、
悪魔が立てる水の音だけです。

悪魔は天使の存在に
気付いていたのでしょう。

時間をかけて水を飲んだあと、
ゆっくりと後ろを振り返ると
天使に軽い一瞥をくれました。

軽くお辞儀したようなそぶりを見せると
そのまま静かにその場を後にしたのです。

天使はこの日見た悪魔のことを
しばらく夢見心地で何度も考えました。

頭からなかなか離れないのです。

黒光りした大きな羽が
悪魔の全身を包んでいました。

一瞬こちらを見た目は鋭くも
何かを訴えるような少し
寂しげな雰囲気があったのです。

それから数日が経ったとき、
もともと好奇心旺盛な天使は
もう一度あの悪魔を見たいと熱望し
悪魔が住む世界へと向かいました。

悪魔たちが住む世界の入り口には、
高くそびえ立つ黒門があります。

天使がそこへたどり着くと、
体が一気に冷えていくのを感じます。

先ほどまで明るかったはずの空は
いつの間にか夜に変わり、
気づけば風も止みました。

そこは音もなく、光もなく、
匂いさえありません。

高くそびえ立つ両開きの門が
ゆっくりと動き始めます。

完全に門が開いたのを確認すると
天使はゆっくりとその敷地へと
入っていきました。

そこには数千という数の悪魔が
住んでいると聞いています。

それにも関わらず、
辺りは不気味な静けさに包まれ
音ひとつ聞こえません。

空からの光も届かないのでしょう。

真っ暗闇に悪魔の家らしき建物が
ぽつぽつと見えるものの、
そこに誰かがいる気配はありませんでした。

あの日見た悪魔はどこにいるのだろう。

天使が途方に暮れそうになったとき、
赤く目を光らせた大きな獣が
目の前に立ちはだかりました。

その獣は、初めて白い存在を見たのです。

物珍しそうに、天使をまじまじと
目で確認すると、今度は
天使の羽に触れました。

軽く触れたその瞬間、鋭い獣の爪が
天使の羽に傷をつけます。

獣はそれに気付いたのでしょう。

少し間を置いたあと、
後退りしながら天使の様子を
伺っていました。

先日、木枯しの森で見たあの悪魔が
やってきたのはその時です。

悪魔は静かにやってきて、
その場の状況を一瞬のうちに
把握しました。

獣の頭を軽く撫でてやると、
獣は大人しく暗闇の方へと
戻って行ったのです。

天使と悪魔は言葉を交わさずに
意思疎通を図ることができます。

獣が暗闇へ去っていくのを
確認した悪魔は
天使の方を振り向くと、
心の中でこう呟きました。

"あの獣の爪には毒がある。
手当てをするからこちらに来なさい。"

天使は黙ってうなずきながら、
素直に悪魔の後を追いました。

相変わらずその世界には音もなく、
風もなく、匂いまでもありません。

悪魔たちの住む小屋は
ぽつぽつと見えましたが、
そこに誰かが住んでいる気配は
ありませんでした。

その悪魔の家もまた、暗く、
静かで、光のない家でした。

家の中に入ると、家中に染み付いた
人間の血の匂いが初めて鼻をつきました。

羽の手当てをするために悪魔が天使に
近づいたときには、その匂いが一層
強く鼻を刺激したのです。

悪魔はそれに気付きましたが
どうすることもできません。

再び、心の中で呟きました。

"もうこれで羽の傷は大丈夫だろう。
この世界の空気はあまり良くない。
そろそろ家へ帰ったほうがいい。"

天使は下を向きました。

まだその場所にいたかったからです。

悪魔にはそれがすぐに
わかったのでしょう。

しばらく天使を見詰めたあと、
ピアノの椅子に腰かけました。

悪魔の小屋は小さく、そこには
机と、椅子と、ベットと、そして
黒いピアノがあるのみでした。

しばらくその場で考えたあと、
悪魔はピアノを弾き始めます。

初めて聴く音色でした。

ピアノの音には親しみがあった天使でしたが、
悪魔のメロディーはそれまで聴いた
どんな音楽とも違っていたのです。

天使はその音色に酔いしれました。

胸の奥は初めから疼き続け、
息が苦しくなる時もありました。

悪魔がピアノを弾き初めてから
間もないうちに、天使は悪魔のベッドで
眠りにつきます。

悪魔は初めからそれを知っていました。

最後の音まで丁寧に弾くと、
悪魔はすやすやと眠る天使の方を向き
しばらくそのまま天使を見つめます。

悪魔が向き合っている暗闇の世界と
正反対にいる天使からは、
芳しい花の匂いがしてきます。

悪魔にはあまりに眩しい光景でした。

横になる美しい天使をしばらく見た悪魔は
ゆっくりと立ち上がると、天使を
優しく抱き抱えました。

家に返してやらなくてはいけないのです。

悪魔の住む世界には
有毒なガスが充満しています。

潔白な天使には
かなりの毒になり得るのです。

悪魔は近くで天使の顔を一瞥したあと、
彼女の住む世界へと天使を送り届けました。

天使はこの一連の出来事を、
夢の中で起きたことだと錯覚しています。

木枯しの森で美しい悪魔を見ました。

その悪魔は黒くて大きな羽に包まれていて、
それはそれは美しい佇まいで
こちらに一瞥をくれました。

悪魔の家には人間の血が染みついていて
近づいた悪魔からもその人間の血が
漂ってきました。

悪魔の弾くピアノの音色は
なんと美しかったことでしょう。

天使はその夢を何度も繰り返し
回想しました。

美しく佇む悪魔の姿も。

悪魔が弾いたあの妖艶な音楽も。

一方の悪魔は今日も
仕事に打ち込んでいます。

その悪魔の首には白い首輪が
かかっていました。

あの白い天使がつけていた首輪です。

天使を返してやる前に、天使の首から
優しく外したものでした。

汚れた血がかからないよう、
悪魔は注意を払いながら仕事をしました。

そして時々思い出したのです。

あの白い肌と、可憐な息と、
吸い込まれそうな美しい瞳を。

もう会うことはないでしょう。

しかし、悪魔にはそれで十分でした。









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