geidouの哲学
NO1: 習うことから大きく変化させる為に
習うとは、私を確認する他者を得ること
振りや型、形を真似る、それからの稽古は
自己の切磋であり、それには、身体のみにあらず
こころへの作用と、こころからの作用を用いて
これを「道」とし、芸の道が里に下りて、また山に
帰るように、道は繰り返し往還、そこにいわゆる
「芸の道」があらわれる。
倉澤行洋先生はこの事を「芸道者の旅」と示されている。
「ここで、習いというものを、往還させていく。
芸道の根源である、こころは、外から教えられて得る
ものではなく、自己が、自己自身において、開発し
発明し、覚すべきものである」
覚す。(さます、さとる)
覚す、というのは、覚ますと送り仮名をつけること
もあります。意味は、眠っている状態から、意識のはっ
きりした状態に戻す。 又は、酒に酔った状態から酔い
を覚ます。又は、心の迷いを覚ます。
また、覚する(かく)。とすれば、もっと強い覚り(さとり)
のことを言います。
いづれにしろ、平静に戻すことを、習いの中に組み
込みながら、覚めて行うことにより、私という他者を
こころに持ち「表現されたものを通して表現するもの
を高め、深める」と、倉澤先生の『芸道の哲学』での
芸道修行の第一。このことを目指すものと言える。
私は伝統舞踊の舞台を踊り終えた次の日に、自身の
稽古場で昨日の舞台の舞踊を踊ります。そこには、今
の段階を固めておきたいという思いがあるのです。
思いがあるということは、意識のはっきりした自己を
覚めて捉えたいということです。舞台を終え、その舞台
で多くの人と交えた感覚により、自己の中で作り上げて
きた芸が、その他者から波のようなものを受け、その事が
意識的にではなく筋肉が覚えていると私は観じています。
観客、演奏家、照明、支えるスタッフ、会場、楽屋の空気
すべて、意識外のところで関わっている。
それを覚めて確認をしたいのです。そして、私以外の
今以外、現実外の何かにも見せている。正確には見て
いただいている。そこには、見てもらおうーという
計画はなく、形を正して、信心のようなものです。
ですから、先生、先人に報告するように いつも行い
ます。教えを乞う心地に通じているのです。
(市川櫻香)