見出し画像

自分を疑わない疑えないおじさん

発車時刻まで駅で停まっていたバス。すぐに降りるので前の方に立たっていたら、その私の腕をぐいと片手で押し退けるようにしておじさんが最前に出てきた。乗って来たばかりで、運転手さんに用があるらしい。

「おい、あの、ホニャララビル前のバス停は無くなったのか?!」
「ホニャララビル前ですか?」
「そうだよ、バス停の看板がなくなってっから」
「ホニャララビル前バス停、ありますよ」
ぇよ、ぇから俺はここまで歩いて来ちまったんじゃねぇか! 行って見て来いよ!」
「あります…」

うん、あるよ。ちゃんと屋根もあって、「いかにもバス停です」っていう風情で立ってるよ。あれを見逃すなんて、おじさん、何か勘違いしているんじゃないのかな。

ぇっつッてんだよっ」
最後は小さな声で吐き捨てて、おじさんは後方の席へ向かった。

態度も悪いけど、わざわざ運転士のところまでそれを言いにくるなんて、ずいぶん面倒くさいことをする人だ。

「すみません、ホニャララビル前のバス停はなくなったんですか?」という質問ならわかる。自分の見落としだったのかどうか、確認したいんだろうなーと。それでも、私なら聞かないでおくけどね。だって、これからこのバスはそこを通るのだ。あるかないかなんて、その時にわかる。こっそり確認すればいい。

でもこのおじさんは、全く自分を疑っていない。絶対に「あったもの」が「なくなった」のであり、それで自分は余分に歩くことになった、全部おまえらのせいだと言わんばかりだ。腹立ちを誰かにぶつけずにはいられなかったんだろう。

運転士さんも大変だな。

時間が来てバスは発車。
すぐ次がホニャララビル前だ。ほら、アナウンスもちゃんとあるじゃないの。見ててよ、おじさん、自分が何を見逃していたのか!

でも残念ながら前方に見えて来たそのバス停に人はいない。降りますボタンを押す人もいない。このまま素通りしたら、おじさんは気づかないままかもしれないな。後ろで寝てるかもしれないし、何しろ「無い」って決めつけてるんだから確かめるつもりもないだろう。

…と思っていたら、バスが左にウインカーを出した。バス停に誰もいないのに減速して左に寄り、停車スペースに一旦停止。
そして運転士さんが、

「先ほどの、ホニャララビル前バス停は、こちらになります。どうぞご確認ください」とアナウンスした。
よくある嫌味な感じなどは全くなくて、お客様にお伝えしますという優しい話し方だったから、私はおじさんへの自分の意地悪さが恥ずかしくなったくらいだ。

「よろしいでしょうか?」という運転士の声に、後ろの方からおじさんの返事があったかどうかはよく聞こえなかったけれど、「発車します」と、バスはまた普通に動き出した。

何があっても、心穏やかに運転していただけると本当に安心だ。
んもう、惚れたわ。顔は見てないけど。
そして今は名前もわからないようになっているから、今度またその運転士さんに当たったとしても、わからないんだろうな。