『信長公記』にみる信長像③ 元亀争乱編
一次史料が描く信長像について、引き続きシリーズものとして進めて行こうと思います。
これまでのはこちら👇
今回は巻四〜巻六の内容からになります。
おそらく信長の中で、最もイライラさせられたであろう元亀年間にあたります。
比叡山を焼き打ち
前回の記事で、信長が比叡山の僧たちに交渉をもちかけるも、それを全く無視されてしかも敵側につかれたことを書きました。
その時は信長も兵を収めましたが、翌年には比叡山攻撃のための軍を動かします。
織田軍による攻撃がはじまり、山下の人々は山へ逃げ登りました。
この時、僧だけではなく子どもや女人など、老若男女がはだしのままに逃げ込んだといいます。
有名な焼き打ちの様子ですが、これは比較的俗説の通りに描写されているのがわかります。
数千の死体が転がっていて、目も当てられない有様だったとされます。
信長には非常に寛容な時と非常に残酷な時があります。
今回は後者にあたり、このように徹底して殲滅することは、自分に反抗する者をできる限りなくすための見せしめの狙いがあったとも考えられます。
「九月二十日、信長は美濃の岐阜に帰陣した」と書かれているので、数日間は逃げる者の追跡や殺戮がなされたのでしょう。
同様のことは、後にご紹介する長島一向一揆殲滅戦にもあてはまると思います。
朝廷との関係
俗説では、信長は改革者として古くからの朝廷を蔑ろにしていたというものがありますが、少なくともこの頃の信長にはそのような様子は見られず、むしろ良好な関係を築いています。
信長は、足利義昭を擁して上洛した際に朽廃した内裏の修理を手配しており、今回も朝廷のために金策をめぐらせています。
後に信長は徳政令を出して、領地を担保とした借金でどうしようもなくなった公家の領地を元に戻し、非常に喜ばれたことが書かれています(巻八第3段)。
確かに信長は後年に官職を受けなかったり、朝廷の特権であった暦についても口を出したりと、朝廷を困惑させるようになります。
しかし周りに敵が多かったこの時は、朝廷と誼を通じて後ろ盾とする様子が見られます。
信長は、将軍や朝廷といった昔からの権威を巧みに利用して大義名分を得たり、優位な立場に立って事業を進める戦略をとっているようです。
信長父子
信長には濃姫(帰蝶)という正室がいましたが、実は濃姫については史料が乏しくほとんどわかっていません。
側室が数人いたとも言われていますが、信長の嫡男奇妙(のちの織田信忠)の母が誰であったのかは謎に包まれています。
この奇妙ですが、巻五第5段にはじめて登場します。
具足初めとは、初めて甲冑を着用する儀式のこと。
それにしても奇妙という名前はやはり奇抜ですね。
出生した時顔が奇妙だったから奇妙と名付けられたという逸話もあり、信長の個性的なところが出ていますね。
ただしこれは幼名なので、後から信重、信忠と名前が変わります。
同じ段では、北近江に出陣するも、朝倉義景が援軍に来て山に陣を構えたことが記載されています。
また野戦にもちこもうと掛け合っていますね。
この時も朝倉方は動きませんでした。
しかし信長は、こうした経験から朝倉義景の性格を見切り、後にそれが功を奏することになるのです。
十七カ条の意見書
足利義昭は、信長の庇護によって征夷大将軍になったわけでしたが、2人の関係は不和になり、ついに義昭は信長に敵対します。
巻六第2段では将軍義昭が謀反を起こした経緯として、有名な十七カ条の意見書を全文取り上げています。
この意見書は、信長が義昭の道理に合わない行為を咎めたものであり、その名前の通り17件のことについて意見するものです。
3つだけ取り上げてみましたが、将軍に対して結構強めに意見しているのがわかります。
この意見書の特徴の1つとしては、宮中(朝廷)や世間を信長がよく言及していることです。
先にも述べたように、信長は日本の最高権威としての朝廷と、世間の評価を気にします。
権威と外聞を味方につけて(もしくは利用することで)、有利な立場に立つのが信長の戦略でした。
信長は改元についても意見しています。
元亀(1570年〜1573年)は信長にとって、包囲網がしかれ各地の敵対者の対応に追われることになった大変な期間だったので、不吉とされています。
これについては、意見書提出の翌年に改元はなされ、天正(1573年〜1592年)と改められます。
この際朝廷はいくつかの候補を信長に見せ、信長がその中から天正を選んだとされています。
信長が天下人になっていく時代の幕開けとして象徴的な出来事と言えるでしょう。
ちなみに文中にある光源院は13代将軍足利義輝のことで、普広院は6代将軍足利義教のことです。
どちらも将軍でありながら他の大名に殺害されてしまいました。
信長は義昭に対して非業の死を遂げた将軍を挙げて、「こうならないようにせよ」と伝えようとしているわけですね。
結局、義昭は2度挙兵し2度とも敗れ、ついに京から追放されました。
浅井・朝倉を滅ぼす
将軍を追放し、将軍についた者たちを大方倒し、天正への改元に成功した信長が次に目を向けたのは浅井・朝倉でした。
信長は自ら馬廻衆を率いて攻め、朝倉家から北近江に派遣されていた守備部隊を簡単に降参させます。
この時信長は、あえて降参した兵の命を助けて朝倉の本陣へ送り届けました。
信長は、朝倉兵をあえて解放し本陣に送り込むことで義景に不利を伝えさせれば、義景が越前へ退却するだろうと読んでいたのでした。
これが的中し、朝倉勢は撤退を開始。
しかし、再三伝えられていたにもかかわらずなかなか動かない諸将に業を煮やした信長は、またも自ら先陣を切って追撃に出ます。
追いついてきた家臣を叱りつけ、信長は機嫌が悪かったと書かれています。
そのような中、さらに信長の冷静な判断が当たります。
撤退する敵を追撃することは、多数の敵を討ち取るチャンスです。
機動力に勝る織田軍はついに朝倉勢に追いつき、三千を超える首を取ったと書かれています。
このように朝倉方の主だった武士を討ち取り大打撃を与えることができたのは、義景が撤退してからすぐに追撃に出たのと、途中で敦賀方面に進む選択が当たっていたからであり、戦上手の信長がよく現れているように思えます。
追撃に成功した織田軍は、木目(木ノ芽)峠を越えて越前中央部へ侵攻します。
敗走した朝倉家には、もう織田家と戦う力は残されていませんでした。
朝倉義景は切腹し、信長は越前を平定したのでした。
近江に戻った信長は、すぐに浅井長政の居城小谷城を攻撃します。
朝倉の援軍がない浅井に十分戦う力はなく、長政とその父久政が切腹。
北近江も織田の支配する地になりました。
今回はここまで、次回は信長が天下人へ大躍進する天正期の内容をみていきます😊
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
お読みいただきありがとうございました🌸
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