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『信長公記』にみる信長像③ 元亀争乱編

一次史料が描く信長像について、引き続きシリーズものとして進めて行こうと思います。

これまでのはこちら👇

今回は巻四〜巻六の内容からになります。

おそらく信長の中で、最もイライラさせられたであろう元亀年間にあたります。

比叡山を焼き打ち

前回の記事で、信長が比叡山の僧たちに交渉をもちかけるも、それを全く無視されてしかも敵側につかれたことを書きました。

その時は信長も兵を収めましたが、翌年には比叡山攻撃のための軍を動かします。

ついにその時が来たのであろうか。その鬱憤を今日こそ晴らすため、九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧坊・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山ことごとく灰燼の地と化した。

『地図と読む 現代語訳 信長公記』p.144

織田軍による攻撃がはじまり、山下の人々は山へ逃げ登りました。

この時、僧だけではなく子どもや女人など、老若男女がはだしのままに逃げ込んだといいます。

諸隊の兵は、四方から鬨の声をあげて攻め上がった。僧・俗・児童・学僧・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧であるなどと言上した。そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して宥さず、一人残らず首を打ち落とした。

同 p.144

有名な焼き打ちの様子ですが、これは比較的俗説の通りに描写されているのがわかります。

数千の死体が転がっていて、目も当てられない有様だったとされます。

信長には非常に寛容な時と非常に残酷な時があります。

今回は後者にあたり、このように徹底して殲滅することは、自分に反抗する者をできる限りなくすための見せしめの狙いがあったとも考えられます。

「九月二十日、信長は美濃の岐阜に帰陣した」と書かれているので、数日間は逃げる者の追跡や殺戮がなされたのでしょう。

同様のことは、後にご紹介する長島一向一揆殲滅戦にもあてはまると思います。

朝廷との関係

俗説では、信長は改革者として古くからの朝廷を蔑ろにしていたというものがありますが、少なくともこの頃の信長にはそのような様子は見られず、むしろ良好な関係を築いています。

信長は、足利義昭を擁して上洛した際に朽廃した内裏の修理を手配しており、今回も朝廷のために金策をめぐらせています。

さらに、宮中の収入面においても後々まで困ることがないようにと、信長は思案をめぐらし、京都市中の町人に米を貸し付け、毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。また、零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。

同 p.145

後に信長は徳政令を出して、領地を担保とした借金でどうしようもなくなった公家の領地を元に戻し、非常に喜ばれたことが書かれています(巻八第3段)。

確かに信長は後年に官職を受けなかったり、朝廷の特権であった暦についても口を出したりと、朝廷を困惑させるようになります。

しかし周りに敵が多かったこの時は、朝廷と誼を通じて後ろ盾とする様子が見られます。

信長は、将軍や朝廷といった昔からの権威を巧みに利用して大義名分を得たり、優位な立場に立って事業を進める戦略をとっているようです。

信長父子

信長には濃姫(帰蝶)という正室がいましたが、実は濃姫については史料が乏しくほとんどわかっていません。

側室が数人いたとも言われていますが、信長の嫡男奇妙(のちの織田信忠)の母が誰であったのかは謎に包まれています。

織田信忠

この奇妙ですが、巻五第5段にはじめて登場します。

七月十九日、信長は嫡男奇妙の具足初めを執り行うことを許し、その後、父子揃って北近江へ出陣した。

同 p.151

具足初めとは、初めて甲冑を着用する儀式のこと。

それにしても奇妙という名前はやはり奇抜ですね。

出生した時顔が奇妙だったから奇妙と名付けられたという逸話もあり、信長の個性的なところが出ていますね。

ただしこれは幼名なので、後から信重、信忠と名前が変わります。

同じ段では、北近江に出陣するも、朝倉義景が援軍に来て山に陣を構えたことが記載されています。

朝倉勢がこの地に駐留していても、別にどうということもなかったので、信長は横山に撤収しようと考えた。その一両日前に、朝倉方へ堀秀政を使者として派遣し、「せっかく当地まで進出されたのだから、日限を定めて一戦を交え、決着をつけよう」と申し入れた。しかし、なかなか返事がこなかったので、虎御前山には木下藤吉郎を指揮者として残し、九月十六日、信長および嫡男奇妙父子は横山に引き揚げた。

同 p.154

また野戦にもちこもうと掛け合っていますね。

この時も朝倉方は動きませんでした。

しかし信長は、こうした経験から朝倉義景の性格を見切り、後にそれが功を奏することになるのです。

十七カ条の意見書

足利義昭は、信長の庇護によって征夷大将軍になったわけでしたが、2人の関係は不和になり、ついに義昭は信長に敵対します。

巻六第2段では将軍義昭が謀反を起こした経緯として、有名な十七カ条の意見書を全文取り上げています。

この意見書は、信長が義昭の道理に合わない行為を咎めたものであり、その名前の通り17件のことについて意見するものです。

一、宮中に参内されることについて、光源院殿は怠りがちでしたが、果たして神仏の加護もなく不幸な最期を遂げられました。ですから、将軍は毎年怠りなく勤められるようにと入京した時から申し上げておりましたのに、早くもお忘れになって、近年すっかり怠っておられるのは、遺憾なことです。
(中略)
一、元亀の年号は不吉なので改元したほうが良いと、世間一般の意見に基づいて申し上げました。宮中からも御催促があったそうですが、改元のためのわずかな費用を献上されないため、現在まで延引しております。このことは天下のためなのですから、怠るのは良くないと思います。
(中略)
一、将軍が何ごとにつけても欲深なので、道理も外聞も構わないのだと、世間では言っています。ですから、思慮のない農民さえもが将軍を悪御所と呼びならわしているそうです。普広院殿をそのように呼んだと聞き伝えておりますが、それは格別のことです。なぜこのように陰口を言うか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。

同 p.158-162

3つだけ取り上げてみましたが、将軍に対して結構強めに意見しているのがわかります。

この意見書の特徴の1つとしては、宮中(朝廷)や世間を信長がよく言及していることです。

先にも述べたように、信長は日本の最高権威としての朝廷と、世間の評価を気にします。

権威と外聞を味方につけて(もしくは利用することで)、有利な立場に立つのが信長の戦略でした。

信長は改元についても意見しています。

元亀(1570年〜1573年)は信長にとって、包囲網がしかれ各地の敵対者の対応に追われることになった大変な期間だったので、不吉とされています。

これについては、意見書提出の翌年に改元はなされ、天正(1573年〜1592年)と改められます。

この際朝廷はいくつかの候補を信長に見せ、信長がその中から天正を選んだとされています。

信長が天下人になっていく時代の幕開けとして象徴的な出来事と言えるでしょう。

足利義昭坐像
https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義昭

ちなみに文中にある光源院は13代将軍足利義輝のことで、普広院は6代将軍足利義教のことです。

どちらも将軍でありながら他の大名に殺害されてしまいました。

信長は義昭に対して非業の死を遂げた将軍を挙げて、「こうならないようにせよ」と伝えようとしているわけですね。

結局、義昭は2度挙兵し2度とも敗れ、ついに京から追放されました。

浅井・朝倉を滅ぼす

将軍を追放し、将軍についた者たちを大方倒し、天正への改元に成功した信長が次に目を向けたのは浅井・朝倉でした。

信長は自ら馬廻衆を率いて攻め、朝倉家から北近江に派遣されていた守備部隊を簡単に降参させます。

この時信長は、あえて降参した兵の命を助けて朝倉の本陣へ送り届けました。

そこで信長は、「必ず今夜、朝倉は退散するだろう」と言った。
朝倉義景の本陣を攻める先陣として発進させた部将は、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・(中略)このほか歴戦の諸兵。
これらの将兵に向かって信長は、「朝倉を逃がさぬよう、充分注意せよ」と、再三にわたって厳命した。
それでもなお信長はあせり、十三日夜になって、越前勢の本陣へ自身が先駆けとなって駆けつけた。それで、再三厳命されて先陣に差し向けられた部将たちは、油断して、信長が先駆けしたことを知らず、遅れて駆けつけた。地蔵山を越したところで追い着き、信長に見参すると、「何度も言いつけておいたにもかかわらず、逡巡して好機を逸した。お前たちは卑怯千万。けしからぬ」と叱責された。

同 p.173

信長は、朝倉兵をあえて解放し本陣に送り込むことで義景に不利を伝えさせれば、義景が越前へ退却するだろうと読んでいたのでした。

これが的中し、朝倉勢は撤退を開始。

しかし、再三伝えられていたにもかかわらずなかなか動かない諸将に業を煮やした信長は、またも自ら先陣を切って追撃に出ます。

追いついてきた家臣を叱りつけ、信長は機嫌が悪かったと書かれています。

そのような中、さらに信長の冷静な判断が当たります。

信長の予測どおり、朝倉義景の軍勢は敗走し始めていた。それを追撃して討ち取った首を、我も我もと持ってきた。この時、信長は馬に乗って出た。「敵は中野河内方面と刀根方面の二手に分かれて逃走するぞ。どっちを追うのが良いか」と、議論はまちまちであったが、信長は、「引壇・敦賀の味方の城をめざして逃げるだろうから、引壇方面へ軍勢を出せ」と命じた。
案の定、中野河内方面へは雑兵を撤退させ、朝倉義景は主だった部将を率いて、敦賀をめざして退却した。これを追撃し、すぐさま刀根山の山上で追いついた。敵方の忠義の武士は、引き返しては戦い、また引き返しては戦い、懸命に防戦したが、ついに防ぎきれなかった。

同 p.174

撤退する敵を追撃することは、多数の敵を討ち取るチャンスです。

機動力に勝る織田軍はついに朝倉勢に追いつき、三千を超える首を取ったと書かれています。

このように朝倉方の主だった武士を討ち取り大打撃を与えることができたのは、義景が撤退してからすぐに追撃に出たのと、途中で敦賀方面に進む選択が当たっていたからであり、戦上手の信長がよく現れているように思えます。

追撃に成功した織田軍は、木目(木ノ芽)峠を越えて越前中央部へ侵攻します。

https://www.sengoku-battle-history.net/ichijoudani-castle/

敗走した朝倉家には、もう織田家と戦う力は残されていませんでした。

朝倉義景は切腹し、信長は越前を平定したのでした。

近江に戻った信長は、すぐに浅井長政の居城小谷城を攻撃します。

朝倉の援軍がない浅井に十分戦う力はなく、長政とその父久政が切腹。

北近江も織田の支配する地になりました。

今回はここまで、次回は信長が天下人へ大躍進する天正期の内容をみていきます😊

最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。

https://sengokumap.net/history/1573/

お読みいただきありがとうございました🌸

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