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『信長公記』にみる信長像① 信長立志編

信長研究で最も重要な史料とされているのが、信長の側近であった太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』です。

史上初めての織田信長の一代記。信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、永禄11年(1568年)の上洛から天正10年(1582年)の本能寺の変に至る15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。
筆者が長期間信長の側近であったこともあり、史料としての信頼が高く、研究者の間でも信憑性は他の軍記物と一線を画していると評価されており、一次史料に準じた評価を受けている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/信長公記

これなくしては信長については全然わからなかったと言っても過言ではないくらい重要で、史料としての信頼度も高いとされています。

そんな『信長公記』ですが、ありがたいことにKADOKAWAから現代語訳が出版されています!

👆こちらは文庫本ですが、ちょっとパワーアップした単行本版も出ています👇

単行本は値段が倍くらいなのですが、地図や注がたくさん載っており、文庫本に比べて理解しやすく読みやすいです。

今回はそんな現代語訳『信長公記』の首巻にあたる箇所から、信長がどのような人だったのかを取り出してみようと思います😊


青年信長の日常

まずは首巻第7段から。

ここでは信長を斎藤道三の婿とする縁組がととのって、信長が濃姫(帰蝶)と結婚したことが書かれており、続く文に有名な「うつけ」のくだりが登場します。

信長は十六・十七・十八の頃までは特にこれといった遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、また、三月から九月までは川で水練をした。泳ぎは達者であった。

『地図と読む 現代語訳 信長公記』p.34

子ども向けの歴史まんがで、よく若い頃の信長が馬を乗り回していたり川で泳いでいるコマをみましたが、それはこの記述に基づいているのでしょう。

その頃の信長の身なり・振るまいといえば、湯帷子を袖脱ぎにして着、半袴。火打ち袋やら何やらたくさん身につけて、髪は茶筅髷。それを紅色とか萌黄色とかの糸で巻き立てて結い、朱鞘の大刀を差していた。

同 p.34-35

青年信長の服装は、湯帷子(ゆかた)を袖脱ぎ、つまりノースリーブにして着ていて、袴は半ズボンにしていたとのことです。

茶筅髷はこちら👇

https://www.phantaporta.com/2018/01/mage.html

文の調子から見るに、当時としてはやはり奇抜な姿だったという印象を受けます。

特に見苦しいこともあった。町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶらさがって歩いていた。

同 p.35

これもよく歴史まんがで見ていた姿ですね。

この信長の姿を見て、人々は「大馬鹿者」と呼んだと書かれています。

ただし、外見的には評価が低い信長でしたが、この頃から槍の長さを変えたり、弓や鉄砲、兵法の稽古を絶えず行っていたことも記載されています。

強くなるための修練は欠かさなかった様子です。

信長の史料にはフロイスの『日本史』や公家の日記がありますが、こうした青年期の信長を描写した史料はおそらく『信長公記』だけでしょう。

天沢和尚の話

首巻第33段では、天沢(てんたく)という和尚が関東へ下る途中に、甲斐の国(山梨県)で武田信玄に信長の様子を尋ねられたときのことが書かれています。

ここでも馬術や鉄砲などの稽古のことが言われていますが、続いて趣味の話になります。

「清洲の町人で友閑という者をしばしば召し寄せて、お舞いになります。『敦盛』を一番舞うほかは、お舞いになりません。『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり』これをうたいなれてお舞いになります」

同 p.75-76

有名な「敦盛」の話ですね。

意味は「人の一生は五十年。仏教でいう化楽天の時間に換算すれば、夢か幻のように短くはかないものだ」という感じだそう。

「敦盛」の件は第36段の桶狭間の合戦でも見られます。

この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した。

同 p.78

ちなみに化楽天では、人間界の800年が1日に相当するそう。

信長がどのように舞っていたのかは不明ですが、現代では👇の動画にみられます。

そして信長は小唄も趣味だということでその話に。

「変わったものが好きなのだな。それはどんな唄か」と信玄は言った。
「『死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの』これでございます」

同 p.76

意味は「死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう」という感じだそう。

舞と小唄のどちらも、人間のはかなさや死ということがテーマになっていますね。

なんだか、常日頃、信長は死ということを意識していて、それだけに自分の人生を生ききるという覚悟で生きていたように感じられるエピソードです。

桶狭間の合戦

戦いにおける信長がよく書かれているのが第36段の桶狭間の合戦。

今川義元を破った有名な戦いですね。

信長はこの戦い以前にも勇猛ぶりを見せて、斎藤道三から「恐るべき男だ」と驚かれる話があるのですが、桶狭間の戦いではその勇猛さに加え、将としての冷静さも見られます。

まずは合戦前。

今川軍が迫ってきていることを聞いた後の出来事です。

しかし、その夜の信長と家老衆との談話には、作戦に関する話題は少しも出ず、いろいろ雑多な世間話だけで、「さあ、夜も更けたから帰宅してよいぞ」と退出の許可が出た。家老たちは「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのだ」と、皆で信長を評し、嘲笑しながら帰った。

同 p.78

この時なぜ信長は戦の話を家臣としなかったのでしょうか。

大群で攻めてくる今川方に寝返る家臣も出てくる頃合いでもあったでしょうから、もしかすると、策がもれないようにする一計だったのかもしれません。

そして味方の砦が攻められていると報じられると先に引用した「敦盛」の場面に続きます。

出陣した信長は味方の砦間を移動します。

信長は戦況を見て、中島へ移動しようとしたところ、「中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きがとれず、一騎ずつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを、敵方にはっきりと見られてしまいます。もってのほかでございます」と、家老衆が信長の馬の轡に取りついて、口々に言った。しかし信長は、これを振り切って中島へ移動した。この時、信長勢は二千に満たない兵数であったという。

同 p.79-80
https://fujita.muragon.com/entry/744.html

中島とは織田方の砦の1つで、そこへ進もうとすると今川義元がいる桶狭間山からは少人数であることが丸見えになってしまいます。

推測の域を出ることはできませんが、ここでは自軍が少数であることをわざと見せることによって、義元の油断を誘ったのではないかとも考えられるでしょう。

中島から、また将兵を出撃させた。この時は無理にすがりついて、信長自身の出撃を止めたのだが、ここで信長はいった。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手をやき、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵が掛かってきたら引け、敵が退いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、追い崩す。たやすいことだ。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め」

同 p.80

信長のセリフが長文でしっかり載っている貴重な場面です。

今川軍は多勢ではあるが疲弊している点、さらに土地勘では織田軍が有利である点。

こうした点を踏まえて、敵が掛かってきたら引き、退いたら追うという戦法にでます。

味方の士気もしっかり上げようとしていますね。

桶狭間近くに軍勢を寄せた時、激しい雨が降り出しましたが、これは味方の後方から降りかかり、敵の顔に振り付けるような雨でした。

後々にご紹介しようと思っていますが、信長は大事な合戦の時に運が良いと言われています。

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗の輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。

同 p.80-81

この記述を見るに、信長が義元の軍勢と衝突した時には雨は上がっていたようですので、雨に紛れた奇襲だったという俗説は少し違うようですね。

また、この時今川兵が逃げ崩れたとのことですが、おそらくこの兵たちは義元に連れてこられた農民兵であったと思われます。

屈強な信長軍とは兵の練度が全然違っていたことも、ここで簡単に崩れた理由かと。

「義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ」と信長の下知。未の刻、東へ向かって攻めかかる。敵は初めは三百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と引き返し、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。
信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。

同 p.81

農民兵、いわゆる雑兵が崩れる中、今川軍の正規の兵たちが義元を守りますが、信長の戦法が功を奏して、次々に倒れていくさまが書かれています。

天沢和尚の話で武田信玄も言っていましたが、信長はやはり合戦上手ですね。

ここでは信長自身も槍働きをしており、しかも敵をどんどん倒している様子です。

信長が弟の信之と戦った稲生の戦いでは、信之方の武将である林美作守を信長自身が討ち取ったと記述されています。

信長は大将として指揮するだけではなく、武士として戦場で戦うこともしっかりできたようで、実際に勇猛であったことがわかると思います。

結局、今川義元は討ち取られ、信長は馬の先へ義元の首を掲げさせて帰陣。

義元を討ち取った際に義元が常に差していた名刀、左文字の刀を信長は召し上げて、試し切りをして佩刀したことが書かれています。

信長が召し上げた左文字
「織田尾張守信長」
「永禄三年五月十九日」
「義元討捕刻彼所持刀」

首巻(入京以前)の信長についてはここまでにしようと思います。

本当は斎藤道三との会見で度肝をぬいた話などもご紹介したかったのですが、文量が多くなってしまいましたので、また次の機会に😊

最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。

https://sengokumap.net/history/1560/

お読みいただきありがとうございました🌸

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