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『信長公記』にみる信長像④ 天正大躍進編
今回は巻七〜巻九の内容になります。
この時期に信長は天下人へ躍進したと言っても過言ではないでしょう。
これまでの記事はこちら👇
天下人になる過程で、信長はどんなことを想い何をしていたのか、さっそく『信長公記』からみていきます😊
一揆勢を殲滅
信長は、元亀年間に反旗を翻した長島の一揆勢に対してこれまで2度の挙兵に及ぶも、征伐までにはいきませんでした。
朝倉・浅井を征伐した今、信長は以前よりも力を入れて長島に出陣します。
織田家の圧倒的な武力の前に一揆勢はどんどん崩され、ついに赦免を願い出ます。
しかし信長は、「間もなく落城するだろう。悪人どもは懲らしめのため兵糧攻めにし、年来の罪過・悪行に対する鬱憤を今こそ晴らすのだ」と言って、許さなかった。
夜中に城を抜け出し逃げたものは男女に関わりなく切り捨てられています。
![](https://assets.st-note.com/img/1703219447328-nGYQi3Jjol.png)
九月二十九日、一揆勢は降参して、長島から退去することになった。多数の船に分乗して退去するところを、織田勢は鉄砲を揃えて狙撃し、また、際限もなく川中へ切り捨てた。
信長は降伏した相手であっても容赦しません。
降伏し退去することになった一揆勢を射殺する有名な場面です。
中江・屋長島の両城には、男女二万人ばかりが立て籠もっていた。信長は柵を幾重にも巡らして、これを包囲しておいたが、ついに、四方から火をつけて焼き殺すよう命じた。
まさに殲滅戦ですね。
信長は基本的に一揆を許さず、比叡山焼き打ちの際もそうでしたが、戦う力のない者まで殺します。
少し飛びますが翌年には加賀・越前で発生した一揆に対して出陣。
![](https://assets.st-note.com/img/1703220443361-QYzuu8a9mV.png)
こちらも織田軍の有力部将を動員して徹底的に殲滅させています。
かくして、越前国中の一揆勢は混乱し、取るものも取りあえず、右往左往して山々に逃げ込んだ。信長は「敵を追撃し、山林を捜索して、男女の区別なく切り捨てよ」と命じた。
八月十五日から十九日までの記録簿に、諸部隊が生け捕りにして信長の本陣へ提出した敵は、一万二千二百五十余人と記されたとのことである。信長はお小姓衆に命じて、これらの捕虜を斬首させた。このほか、諸国から参陣した部隊が捕虜にして国々に連れ帰った男女は、その数も知れない。生け捕りにした者と斬首した者、合わせて三、四万にも及ぶだろうか。
ものすごい数の殺戮が行われたようです。
ただし例外がありました。
おりから、堀江の一揆勢と小黒西光寺の門徒が宥しを乞うてきた。その申し開きに筋が通っていたので、信長はこれを聞きとどけた。
信長は理にかなっていることであれば一揆勢であっても聞き入れることがあるようです。
道理の重視については、平定した越前を柴田勝家に支配を託し、勝家に向けて訓令を発令したときの掟にも見受けられます。
一、裁判は道理にかなうよう公正に行うこと。決して、一方に肩入れして不公平な判決を下すようなことがあってはならない。(中略)
一、新しい事態が生じた場合でも、何事につけても信長の指図に従うよう覚悟することが大切である。だからと言って、信長の指図に無理・非法なところがあるのを承知しながら、うわべだけ言葉たくみにとりつくろってはならない。指図を受けたとき何らかの差し支えがあれば、弁明するがよい。聞き届けて、理に従うつもりである。
このように自分の指示に理が通っていないことがあれば言ってほしいと、勝家に向かって定めています。
朝廷や将軍と関係をきずき、領国内の民衆の支持を得て、大義名分や理を通すのは信長の基本戦略でした。
その信長が道理を重視するのは当然だったのであり、破天荒なルール無視の傾奇者のイメージとは少し違うと思います。
ちなみにこの訓令には面白い記述が続きます。
ひたすら信長を崇敬し、当方から見えないところだからといって気を抜き、軽々しく思ってはならない。信長のいる方角へは足も向けないよう心得ることが必要である。そのように心がけていれば、武士としての加護もあり、武運も末長いことであろう。よくよく留意せよ。
フロイスの『日本史』には、信長は家臣に畏敬の念をもたれていた旨が書かれていますが、信長は自分をこのように崇敬させることによって、諸国だけではなく、織田家中の統率をはかっていたように思われます。
長篠の戦い
包囲網を突破した信長にとって未だ最大の敵となっていたのは、武田氏でした。
武田信玄亡き後、跡を継いだ勝頼は、信長の同盟相手である徳川家康の三河に向けて出陣します。
徳川方の城、長篠城が包囲され落城も近いということで、信長は家康の援軍に駆けつけます。
十八日、陣を進め、信長は志多羅の郷極楽寺山に、信忠は新御堂山に陣を構えた。志多羅の郷は地形が一段窪んだところである。敵方から見えないように窪地に散らばして、軍勢三万ほどを配置した。(中略)滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三人は揃って有海原に上り、武田勝頼勢に向かって東向きに布陣した。家康・滝川の陣の前に、騎馬隊の侵入を防ぐための柵を作らせた。
武田の兵数は一万五千ほどであり、それに対して兵数で勝る信長は相手から少数に見えるように兵を配置しました。
信長には、勝頼を油断させ、撤退させずに決戦にもちこむ意図がありました。
策はあたり、勝頼は織田・徳川の陣から約2.2kmほどに陣取ります。
信長は、今回こんなにも間近に対陣できたのは天の恵みであるから、武田勢は一兵も残さず討ち果たそう、しかし味方には一人も損害が出ないように、と作戦を練った。酒井忠次を呼び、家康の軍勢のなかから弓・鉄砲の巧みな者を集め、酒井忠次を大将として二千ばかり、さらに鉄砲五百挺を持った信長のお馬廻り衆を加え、金森長近・佐藤秀方・青山新七の息子・賀藤市左衛門を検使として添え、合計四千ほどの長篠城救援部隊を編成した。
この長篠城救援部隊は夜のうちに行動を開始し、翌日の朝、長篠城を包囲する武田勢を追い払うことに成功します。
これをもって長篠の戦いの火蓋が切られました。
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信長は、家康が陣取った高松山という小高い山に登り、敵方の動きを見て、命令するまでは決して出撃しないよう前もって全軍に厳命した。鉄砲千挺ほどを選抜し、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政を指揮者とし、ついで、敵陣近くまで足軽隊を攻め掛からせて敵方を挑発した。前後から攻められて、敵も出撃して来た。
長篠城救援策によって武田軍は前後から挟まれる形になり、勝頼は決戦を迫られました。
決戦にあたり織田・徳川連合軍は、足軽を前に出して挑発しては引く戦法をとっています。
単に突撃してくる騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのではなく、足軽を前に出して引き寄せから一斉に撃ったのがわかります。
一番手は山県昌景が攻め太鼓を打ち鳴らして攻め寄せたが、鉄砲で散々に撃ち立てられて退却した。
二番手には、武田信廉が入れ替わった。味方の足軽隊は、敵が掛かって来たら引き、退いたら挑発して引きつけ、そこへ命令一下、鉄砲を撃ち込んだ。信廉隊は過半数が討たれ、ついに退却した。
このようにして連合軍は鉄砲隊を入れ替わり立ち替わらせて戦い、しだいに兵力が少なくなってきた武田軍はとうとう敗走をはじめます。
その時、長篠の軍勢と協同して一斉に武田軍を追撃させた。討ち取った首は、見知った者だけでも、山県昌景、西上野の小幡信貞、(中略)馬場信春。なかでも馬場信春の討ち死に直前の活躍は比類のないものであった。このほか、主だった武士と雑兵一万人ほどを討ち取った。
一万五千の兵数のうち一万人を討ち取ったということで、織田・徳川連合軍の大勝利で終わりました。
長篠の戦いは、信長の策と戦法が功を奏して宿敵武田に大打撃を与えた戦になりました。
この勝利によって東の脅威が去ったことを確認した信長は、居城を岐阜から安土へ移し、そこに有名な安土城を築くのです。
総じて信長を天下人へ躍進させた重要な戦であったと言えるでしょう。
『信長公記』の語りにはその大勝利の晴れ晴れした様子が現れています。
信長がこのように味方を損じることなくして強敵を打ち破ったのは、昔の例にもなかったことである。武勇の優れていることは武将の鑑であり、あたかも日の輝きが朝露を消すようであった。信長には武勇と仁徳が車の両輪のごとくに備わっている。信長が高名を後の世に残そうと思い立ち、数カ年は山野・海岸を住処とし、甲冑を枕として、弓矢を持つ者がめざす大業のために続けた辛労は、いくら記しても記し足りないのである。
それにしても、信長は野戦が強いです。
これまで見たきたものの中では、稲生、桶狭間、姉川、そして長篠の戦いですが、そのどれにも勝利しています。
ちなみに、信長は攻城戦はしますが籠城戦を経験したことは一度もありません。
基本的に信長は攻めの姿勢であると言っても良いと思います。
優しい信長
信長は京都への上り下りの道中に、身体に障害がある乞食を見つけます。
町の者にその乞食のことを尋ねると、「昔この者の先祖が常盤御前(源義経の母)を殺した報いで、子孫は代々身体に障害をもって生まれ乞食になる」ということでした。
哀れに思った信長は、上洛する際にこの者を思い出し、自ら木綿二十反を用意します。
町の人々を呼び出した信長は、この木綿をその人たちに預けます。
信長は、「この木綿の半分を費用に充てて近所に小屋を作り、この者を住まわせて、飢え死にしないように面倒を見てやりなさい」と言いつけた。さらに、「近隣の村の者たちは、麦の収穫があったら麦を一度、秋の収穫後には米を一度、一年に二度ずつ毎年、負担にならぬ程度に少しずつ、この者に与えてくれれば、信長はうれしく思う」と言い添えた。
この行為には、乞食はいうまでもなく町中の人やお供の者たちも、上下みな涙を流したと書かれています。
信長には社会的に弱い立場にある人を慈しむ心があったようですね。
天王寺の戦い
信長に敵対する勢力として厄介なのは、大阪を本拠地とする石山本願寺です。
織田軍は石山の南に天王寺砦を築き、本願寺攻めの拠点としていましたが、これが大阪方に包囲されてしまいます。
その時信長は京都にいましたが、戦況を聞くと即刻動きます。
五月五日、信長は天王寺救援のため出陣。湯帷子を着ただけの軽装で、わずか百騎ほどを率い、若江に着陣した。
翌日は駐留。先遣部隊の様子を聞き、軍勢の到着を待って編成をしたが、あまりに急な出陣だったので、軍勢は思うようには揃っていなかった。雑兵・人足以下がなかなか続かず、主だった武士たちだけが到着していたのである。
動くと決めたらすぐ動く、信長のやり方が出ましたね。
ただし毎度お馴染みですが軍勢がなかなか集まりません。
しかし、「五日いや三日間も支えきれない」との報告がたびたびあったので、「天王寺籠城の者を攻め殺させてしまっては、世間のもの笑いの種になる」と言って、五月七日に出馬、一万五千ほどの敵に、わずか三千ばかりの兵力で打ち向かった。
天王寺に籠っている武将の中には、明智光秀がいました。
光秀はこの頃にはもう織田家中で指折りの将だったと言って良いでしょう。
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信長は光秀やそのほかの将を救うために、5倍の兵力の敵に攻撃を開始します。
このように命じて、信長は先陣の足軽勢にうち混じって駆け廻り、ここかしこで指揮をしている間に、足に銃弾が当たって軽傷を負った。しかし、天は正しい者の味方で、苦しむほどの傷ではなかった。敵は数千挺の鉄砲を雨あられのように撃って防戦したが、これにどっと攻め掛かって切り崩し、天王寺の砦に駆け込んで合流した。
なんと信長自らが足軽に混じって駆け廻り指揮をとっていたようです。
素早い出陣や兵力劣勢もあって、桶狭間の戦いが思い起こされる場面ですね。
もしかすると信長は、このように戦況的に味方が不利な時には、素早い動き・一点集中攻撃・自ら指揮の3点を念頭に入れていたのかもしれません。
足に鉄砲の玉が当たって負傷していますが、大将である信長がこのようにして動いているわけですから、織田軍の士気は高かったことでしょう。
この攻撃がうまくいって、天王寺砦に入ることに成功します。
しかし、大軍の敵は決して引かず、陣容を固めて応戦を続けたので、信長は「もう一度、一戦に及ぼう」と命令した。このとき部将たちは、「味方は少数ですから、合戦は控えたほうが良いでしょう」と進言した。しかし信長は、「今回こんなに間近まで詰め寄ることができたのは、天の与えた好機だ」と言って、部将たちの進言を退けた。陣容を二段に整え、再び攻撃開始。敵を追い崩し、敵城の木戸口まで追い詰めて、首数二千七百余りを討ち取った。
天王寺砦に入った信長は、籠城はせず、反撃にでます。
天王寺砦の中にどの程度の兵が残っていたのかはわかりませんが、駆けつけた織田軍は三千ばかりだったはずです。
それが反撃に出て敵を二千七百余り討ち取るというのはすごい戦果ですね。
ちなみに木戸口とは城門の入口のことで、包囲されていた織田軍は一転して大阪方の兵を敵城まで追い詰めたということが書かれています。
基本的に屈強な織田兵に加え、信長本人が一緒に戦っているのですから、この凄まじさも何か説明がつきそうな感じがします。
それにしても、信長が来るだけでこれだけ戦況が変わってしまうのはやはり驚異的だと思います。
今回はここまでにいたします。
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
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武田氏の領土はまだまだ広いですが、長篠の戦いで大打撃を受けてからは勢いがなくなっていきます。
ちなみにこの時期以降、信長自身が直接戦闘することはあまりなくなり、天下人として政務を行う様子が多くなってきます。
次回からは、また違った角度から信長の様子が見られると思います😊
お読みいただきありがとうございました🌸
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