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信長と曹操に共通するもの

日本の戦国時代の覇者である織田信長

中国の三国時代の覇者である曹操

彼らには軍事や政治の方針に、
共通するところがあるように見受けられます。

今回はそんな共通項を、四つの面から、
まとめてみようと思います。


①兵農分離と青洲兵

信長の場合

桶狭間・姉川・長篠など
信長は野戦が強いです。

織田軍の軍事行動の基本は、
敵の兵力を上回る軍勢で攻めること。

しかし、桶狭間の戦いや
天王寺砦の戦いにみられるように、
信長は寡兵をもって大敵にあたるのも得意でした。

もちろん、そうした勝利は
信長の果断さや戦術的な工夫によりますが、
けっしてそれだけではなく、
織田軍の兵自体が強かったからだと考えられます。

織田軍においては、
兵農分離がみられたということが言われます。

本当にそうだったのかは賛否両論ですが、
私はあったのではないかと思っています。

その理由は、『信長公記』で
安土城下に馬廻衆・弓衆を
集住させるように命令していること。

当時の兵は普段は農業を営み、
戦時には武装して戦地に赴くといった
兵農の兼業であり、
兵は耕作地と一体でした。

そのため、兵を城下に住ませることは、
耕作地との分離を意味し、
軍事専門職があったことが推測できるのです。

織田家の場合、小牧山城や岐阜城にも、
家臣の屋敷跡がみられることから、
安土以前にも戦闘専門の部隊が
存在していたのだろうと思われます。

軍事専門職を設ける場合、
耕作に回っていない分
給料を支払う必要があるため、
余計にお金がかかります。

しかし尾張などの豊かな土地を持ち、
商業感覚のあった信長には
それが可能であったと思われます。

そしてもう一つの理由は、フロイスが
信長は「軍事的修練にいそしむ」という旨を
報告しているからです。

頻繁な軍事的修練は、
織田軍の強さを証拠づけるとともに、
それだけ修練を行えるという
専門職の存在を間接的に示します。

桶狭間でも天王寺砦でも、
即座に動く信長について来れる兵たちは、
こうした戦闘専門職についていた
精鋭の者たちだったのだと思います。


曹操の場合

数十万の精強な黄巾残党を、
青洲兵として手下に置いたことが、
曹操の飛躍を可能にしたと言われます。

青洲兵とは、
曹操が降して手に入れた、
黄巾の乱の残党を母体とする
三十万もの兵力のことです。

そんな青洲兵には、

①黄巾集団の組織を維持したままの独立部隊であること
②つねに曹操とともに行動すること
③曹操と個人的な紐帯で結ばれていたこと

の三つの特徴があります。

漢代の常備軍は、ごく一部を除き、
民からの徴兵で成り立っていました。

これに対し青洲兵は、
軍事に専従する集団であり、
集団内で兵士身分を世襲していたとされます。

軍事専門のために、
調練を多くこなしている青洲兵は、
他では農業をやり
徴兵される兵より強いはずです。

このように曹操は、
ある種の兵農分離政策を実施し、
戦い専門の部隊を配置することで、
その武力を保持していたと言えるでしょう。

②方面軍司令官と都督制

信長の場合

織田家における軍団は、
地域支配を行う武将を中心として構成されました。

これは織田家の支配圏が広がっていくにつれて、
信長が直接すべての地域をみることが
難しくなったからと考えられます。

軍団長になった武将には、
地域内における軍事統率権・知行宛行権などの
権限が委ねられていました。

織田家の軍団組織の特徴は、
家来と与力の二本立てであったことです。

家来も与力も、信長の家臣として
いわば同僚の関係にあるものですが、
方面軍組織にあたっては、
与力は軍団長に任命された者の指揮下に入ります。

例えば北陸の方面軍司令官には
柴田勝家が任命されましたが、
勝家は自分の家臣だけで戦うのではなく、
信長から与力をつけられています。

それが前田利家や佐々成政らであり、
彼らも勝家と同様に、信長の直臣です。
勝家の家来ではありませんが、北陸の戦闘では、
与力として司令官の指揮下に入るのです。

こうした制度になった理由としては、
地域分散的傾向の強い戦国時代において
都合が良かったからだと考えられます。

与力は信長の家臣であり、
もともと司令官とは同僚であるので、
その人物がこれを家臣として巨大化することを防ぎ、
相互に監視させることができます。

『信長公記』に載っている「越前国掟」には、
越前国の大体は勝家に任せるが、
与力は勝家の目付として命じる
という旨が書かれています。


曹操の場合

青洲兵に並び、曹操の軍事制度において、
注目されるもう一つの政策が都督制です。

これは、曹操の指揮下から離れて、
特定地域の軍事全般を担う、
いわば方面軍司令官を立てる政策です。

都督制のもとでの方面軍司令官には、
次のような権限が付与されます。

①軍の建設と維持を行う「軍政権」
②軍の指揮を行う「総帥権」
③軍の秩序維持を行う「軍事司法権」
④当該地域の諸将に指令を下す「司令権」
⑤当該地域の内政を担当する「行政権」

言ってみれば、都督制とは、
当該地域に軍事政府を樹立することを、
曹操配下の将軍に許可するという制度です。

都督制は軍事支配によって、
地方統制を強化するためのものでした。

中華の大部分を平定した曹操にとっては、
その広大な支配地を盤石にするために、
効率的な制度だったのだと思います。

③能力主義と唯才主義

信長の場合

信長は登用において
能力主義であったと言われます。

確かに、明智光秀や羽柴秀吉など
織田家には能力によって出世を遂げた者がおり、
反対に重臣であっても、怠慢であると
追放された佐久間信盛もいます。

こうした方針の背景は何だったのでしょうか。

信長は若い頃には、
家臣に恵まれていなかったと言われます。

後に織田四天王などと呼ばれることになる
優秀な家臣たちは、
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀
といった豪華なメンバーであり、

これに羽柴秀吉を加えれば、
錚々たる家臣たちと言えますが、
この中でもともと信長の家臣だったのは
丹羽長秀だけだと考えられています。

勝家は、弟の信行の家臣であり、
信長と信行が対立したときは、
信行について敵対しています。

滝川一益は素性が不明。
明智光秀も実はよくわかっていません。
秀吉も途中から家臣になりました。

桶狭間以前の若い頃の信長は、
味方をつけることに苦労したものと思います。

そのように近しい者に味方が
見つからないという状況もあって、
信長は身分を問わず
味方を見つける必要があったのかも知れません。

また、フロイスの報告では、
信長は「ごく卑賤の者とも親しく話をした」
とあります。

そうした身分を気にしない対人感覚によって
結果的に、織田家の登用方針は
能力主義と呼ばれるように
なったのだとも考えられます。


曹操の場合

曹操は、他人に仕えていた者、
素行が悪い者、性格に難がある者でも、
才能を認めれば積極的に登用しました。

儒教国家である漢の登用においては、
儒教的な徳目に基づいた清廉さが
基準になっていました。

それに対して曹操が明らかにしたのは、
才能を基準にした登用方針であり、
これは唯才主義と呼ばれています。

曹操は自国領に「求賢令」という布告を発しています。

その布告では、
貧乏だったが主君を覇者たらしめた政治家、
貧しい身なりであったが有能な軍師、
不貞をはたらくが中華統一に貢献した政治家、
といった古の人物たちを列挙し、
「唯才是挙(さいのみげよ)」と書いています。

実際、このような方針によって、
曹操の下には多くの優秀な人物が
入ってきました。

唯才主義により、
優秀な者たちが集まることで、
曹操は三国最強の力を有する魏を
創り上げることができたのです。

④茶の湯と文学

信長の場合

信長は茶の湯をよくやりましたが、
むしろ、茶器を収集し、
その効用をうまく政治に利用しました。

信長の茶頭として、
今井宗久や津田宗及、千利休といった
堺の豪商たちがいたことは
よく知られています。

宗久は信長の御用商人として活躍し、
利休は越前の陣には鉄砲を送ったことも知られ、
いずれも豪商として、
織田軍の兵站を支えた存在でした。

信長の茶の湯の相手の主なものは、
配下の武将の他は、
政商といえるような人物たちだったのです。

また、茶によって信長は人を褒賞しました。
茶会に呼ばれることは名誉であり、
戦功に対して知行の代わりに、
茶道具を与えることも多くありました。

この影響もあって、
織田家内では茶の湯が流行りました。
先に挙げたような織田四天王に羽柴秀吉らは、
いずれも茶を好んでいます。

滝川一益は、甲州征伐の褒賞として
ある茶器を望んだのに上野一国など
関東に封ぜられたので、嘆いています。

領地の代わりに茶器が欲しい、
という勢いだったことがわかります。

このように信長の茶の逸話は、
政治と結びついたものが多いとされます。

『信長公記』では、度々「名物狩り」を
行っているのが目に入りますし、
ほとんど強制的に名物を取引しています。

こうした行動について、
信長が本当に茶器が好きだったのか、
それとも権威を示すためのものだったのか、
定かではありません。

いずれにしても、
信長は茶の湯を利用することで、
政治的な場を展開させていた
と言って良いかと思います。


曹操の場合

多くの詩を残し、
詩人としても名高い曹操。

さらには文学サロンを興し、
文学の隆盛に向けて積極的に関与しました。

やがて文学は儒教を相対化させ、
儒教に守られていた漢帝国を崩壊に向かわせます。

中国で最初の儒教国家となった後漢において、
儒教は国の礎になっていました。

そのため、曹操は、
自らの国を創っていくにあたり、
儒教に代わる文化的価値の必要性に気づきます。

そのために選ばれたのが文学でした。

例えば、曹操は、文学の宣揚のため、
人事基準を変えようとします。

先にも述べたように、
後漢の官吏登用制度では、
儒教的な価値基準により、
官僚を選出していました。

このため知識人はみな儒教を学びましたが、
この基準を文学に変えることで、
その価値を儒教を超えるものにしようとしたのです。

曹操の巧みさは、
一から新しい文化を創造するのではなく、
もともとの儒教を踏まえながら、
文学を宣揚したところにあります。

以前ご紹介した曹操の詩は、
儒教の経典である『詩経』の歌を
典拠にしているとされます。

その結果、漢の名士たちは文学を無視できず、
曹操は、あくまでも儒教を尊重する
という姿勢を見せていたのです。

一方で、数多の学者を有する儒教とは異なり、
詩・文学の価値基準はある程度、
曹操の主観に求められます。

そのため文学を新たな価値基準にすることは、
曹魏による支配体制に移行する準備を、
よく担っていたことになるでしょう。

儒教を尊重しつつ、新たな価値を興す
という文化的側面を利用して、
漢から曹魏への移行を
容認させたと言えるでしょう。


どの人物に対しても、
共通点は見つけようと思えば、
結構見つかるかもしれません。

とはいえ、これは私の勝手な推測を含んだ
趣味なので、本当に二人にこのような
共通点があったのかは、わかりません

ですが、好きな人物のものだと、
調べたりまとめたり、俄然気合が入りますし、
この場を借りて、
個人的に楽しませていただきました。

今回は軍事・文化的側面から見てきましたが、
性格や行動の仕方、趣味、
二人は戦が強いので戦略を比べてみるのも
面白いかな、と思います。

殊に曹操は、かの有名な兵法書
『孫子』の注釈をつけていたことで知られ、
曹操の経験も踏まえた解釈という
ファンには熱い本も存在しています。

それは次の機会に回すとして、
今回もお読みいただきありがとうございました!


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