『信長公記』にみる信長像② 上洛編
前回、信長研究の最重要史料である『信長公記』の首巻から信長がどのような人物だったのかを伺ってみました👇
『信長公記』は首巻を除いて十五巻あるので、今回から基本的に3巻ずつをひとつの記事として、5回分にまとめようと思います。
ということで、今回は巻一〜巻三の内容から私が個人的に選んだものをご紹介いたします😊
畿内隣国を平定
永禄10年に斎藤氏の居城稲葉山城を落とし美濃を手中に収めた信長は、尾張・美濃の2国を支配する大名になりました。
次に信長は、足利義昭の要請に応えて上洛(京へ上ること)を決意します。
征夷大将軍になるために足利義昭は、自分を擁して上洛してくれる大名として、信長にコンタクトをとっていました。
しかし岐阜から京まで上るには、途中にある近江国を通らなければなりません。
信長は妹の市姫を北近江を支配する浅井長政へと嫁がせ、織田と浅井は同盟関係にありました。
しかし南近江を支配する六角氏は、信長の上洛に抵抗する姿勢を見せます。
当時の織田家は尾張・美濃・北伊勢を支配する力をもっていましたから、南近江のみの六角氏では正直相手になりません。
ところが巻一第3段では、信長は可能であれば戦を避けようとしています。
信長は7日間もかけて説得し、それでも応じられないのでやむをえず挙兵。
後にみる有名な比叡山の件でもまずは説得する姿が見られ、苛烈なイメージの強い信長ですが、戦はなるべく避ける姿勢だったことがわかります。
結局、9月7日に出陣、早くも13日には近江を平定しています。
ちなみに桶狭間の戦いを除く主だった戦では、信長はより多くの兵力で敵方を圧倒するというスタイルをとります。
この後信長は、足並みの揃っていない京周辺の敵を一掃し、10月14日には義昭を帰京させ、目的を果たしたのでした。
巻一からはもうひとつ、第4段には次のように書かれています。
信長は織田軍の兵が治安を乱すことを防止しようとしています。
もちろん大軍で上洛してきた信長に対して、帝や公家に安心感を与えるためもあったでしょうが、直接には京の民への配慮も感じられます。
当時の日本の中心地であった京を味方につけることで、戦国時代を有利な立場で駆け抜けるという信長の戦略が垣間見える話だと思います。
信長の素早さ
足利義昭を征夷大将軍にすることに成功した信長は、岐阜に帰還します。
ところが信長が留守の間を狙って、前年に織田軍に撃退された三好三人衆らが義昭の御所を包囲します。
巻二第2段は、その報告を受けた信長の話です。
桶狭間の戦いの時もそうでしたが、急を要する時には信長が我先に飛び出していくことは『信長公記』の中で結構見られます。
主君が先陣きってどんどん行ってしまうので、家臣はすぐに追わないわけには行きません。
結果的に進軍速度は上がるわけですが、信長自身は家臣が集まる前に行ってしまうので、後からだんだん兵力が伴ってくるという事態がよく見られます。
また、緊急時でなくとも出陣してから比較的短期間のうちにまた出陣し、敵に隙を与えません。
素早さは織田軍の特徴と言っても良いでしょう。
無事、将軍を敵から守った信長は、将軍御所の普請や内裏(帝の住むところ)の修理などをして岐阜に帰城します。
信長の城攻め
首巻第14段に村木城を攻撃する信長が登場し、巻一では上洛の際に池田の城を攻める様子が、そして巻二第7段では伊勢の守護大名である北畠家の大河内の城を攻める様子が書かれています。
これらの城攻めに共通しているのは、強行策をとっていることです。
村木城攻めでは、その攻撃の苛烈さを伝え聞いた斎藤道三から「恐るべき男」と評されています。(首巻第14段)
しかし強行策で城攻めを行う際には、短期間で落城させることも見込めますが、味方の損害が大きくなるリスクもあります。
『信長公記』の筆者は討ち死にした者たちの名前を詳細に書いていますが、強行策での城攻めでは味方の名前も多数記載されています。
村木城のように強行策が成功して短期間で城を落とす場合もありましたが、この大河内の城攻めでは味方に被害が多数生じ、落城には至りませんでした。
しかし交渉にて、北畠具教は家督を信長の次男信雄に譲ることを認め開城し、伊勢は織田家の支配下になります。
信長が城攻めの際に、長期間包囲して兵糧攻めにすることは全然見られません。
秀吉をはじめその他の織田家の武将は、長ければ1年以上の包囲戦を展開しますが、実は信長自身が長期間戦場に出ていることは意外にないのです。
信長が最長で戦場に構えていたのは、後にご紹介する志賀の陣であり、これは2ヶ月半くらいの期間です。
秀吉のようには長期間待たない信長は城攻めがあまり得意ではないと評価されたりもするようです。
先の素早さとも相まって、せっかちな性格だということも、このような記述に基づくのかもしれません。
浅井長政に背かれる
巻三第4段、越前国の朝倉義景は信長の要請に応じず敵対の構えを見せたので、信長は越前へ出陣します。
織田軍は天筒山城、金ヶ崎城も落とし、いよいよ越前中央部へ侵攻するという快進撃を見せましたが、ここで北近江の浅井長政が背いたとの知らせを受けます。
浅井はれっきとした縁戚というのは、信長の妹の市姫が長政の正室として嫁いでいたからです。
同盟相手であった北近江が敵に回ったとなると、織田軍は背後をつかれる形になり一転して不利になってしまいます。
書かれ方からして、信長には長政の裏切りはなかなか信じ難いものであった様子です。
そして信長は、徳川家康にせよ浅井長政にせよ、同盟相手を自分の家臣のように見なす節があります。
今回の越前攻めでも、もともと浅井家は朝倉家と同盟関係にあったからか長政は出陣していませんが、家康は従っています。
この越前侵攻の2ヶ月後、有名な姉川の戦いが起こりますが、この時にも徳川軍は参戦しており、織田方の勝利に貢献します。
それにしても信長の決断が素早いのが、裏切りにあって京都を介して本拠地の岐阜に戻ってから1ヶ月でもう浅井長政の居城である小谷城を攻撃しています。
想定外のことにも冷静に対応し、決断は早く俊敏に動くというのは、『信長公記』の信長像によく当たっていると思います。
志賀の陣
信長は天候に恵まれると前回書きましたが、巻三第10節には似たようなエピソードがあります。
別の場所を攻めている時、浅井・朝倉連合軍が京都に攻め寄せてきていると知った信長は、そちらに対処するために軍を戻します。
この時、江口川という滝のように水が流れる大河にさしかかりました。
ここにも信長が先陣きって渡ろうとする様子、そして運が良いことが書かれていますね。
信長が素早く京都に入ったため、浅井・朝倉方は撤退し、比叡山に逃げ登ります。
先にまずは説得をもって戦を避けようとする信長が登場していましたが、今回も同様のことが見られます。
信長としては、俗世を離れて仏の修行をしている身にありながら、商いをしてお金を儲けたり、禁制のものを享受したり、さらには戦に関わって織田家に敵対するなど我慢ならない相手だったのでしょう。
この時の比叡山の態度が、およそ1年後の焼き打ちにつながります。
ところで、この頃はいわゆる信長包囲網がしかれている時であり、色々なところで反信長の動きが活発になっていました。
こうした事情もあって、もともと信長は短期決着を望むようですが、この志賀の陣でも早く決着させようとする姿が見られます。
結局、この志賀の陣では、将軍足利義昭を介して和睦が成立し、大きな戦闘になることもなく、両軍とも帰陣しています。
包囲網をしかれ各所が気掛かりな信長にとっては、延暦寺や朝倉方の煮え切らない態度にイライラさせられた戦いだったのではないかと思います。
この志賀の陣から3年後、信長は浅井・朝倉を滅ぼすのでした。
今回はここまで、次回は巻四〜巻六の内容から記事にいたします😊
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
お読みいただきありがとうございました🌸
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