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【作文】スピリチュアルは「アヤシイ」?

スピリチュアル系の書籍を扱っている出版社の採用試験のひとつに、作文がありました。

課題は「スピリチュアルについての私見を述べよ」という漠然としたもの。

今回は私がその時に書いたものの要約を記事にしてみました。

拙文ですが、ご意見いただけたら嬉しいです☺️

この頃はやりのスピリチュアル

今日、スピリチュアルは時節に適合してその勢を発揮し、これまでにないほどの需要を得ています。

私が同年代の方に「スピリチュアルを知っているか」と聞くなら、ほとんどの人が「知っている」か「聞いたことはある」と答えるようになっており、まったく聞いたことがないという方はかなり稀なほどになっています。

無論、「アヤシイ」というのが続く言葉であるのも事実であり、なかには「宗教だ」という方もみられます。

ほとんどの方はそれ以上 に情報に触れたりせず「聞いたことがある」とまりであるのですが、そのような方々も含めて、スピリチュアルがこれまで以上に見聞されるようになったのは本当のようです。

とはいえ、たしかに「スピリチュアルはアヤシイ」という一般的な意見にも納得な面があります。

今日スピリチュアル系の情報発信者は数多く、その気になればインターネットや本屋を利用して、いくらでもアクセスすることができます。

ただしその際、情報が正しいものかそうでないかということは、そのための尺度が明確に与えられていないため判断が難しいです。

なぜなら、スピリチュアルの多くは、目に見えず一般的には検証することが不可能なものを扱うからです。

もっと砕いて言えば、「言ったもの勝ち」 のようになってしまっているということです。

「スピリチュアルはアヤシイ」と言われるのは、その「超現実的」な内容を理由とし、「宗教だ」というような評価が下されるのは、専ら与えられた情報を「信じる」しかないということに基づいているように思えます。

「超現実的」なのはスピリチュアルだけ?

しかし、こうした評価は正当なものでしょうか。

スピリチュアルが超現実的な情報を扱い、 あるいは信じる他ないような情報であることは事実です。

けれども実は、現代において最も 勢力を誇っている「科学的知」にさえも、このことは同様に当てはまるのです。

たとえば、物理学は、世界を数学的な眼差しによって捉える営みと言い換えられます。

そこでは物質や重力、運動など、ありとあらゆるものは数学的な式によって表現され、計算可能なものとして観測されます。

物理学のもたらす知識は、数学という誰にでも共有される普遍的なものを媒介として表現されることができるために、みずからも普遍的な知識としての立場を保ちえます。

そして数学に基づき、世界に存在するものを計算可能なものとして把握するために、実際により堅固な家を作ったり、テレビを作ったり、宇宙ステーションを作ったりと、現実生活において華々しい成果をあげることができています。

このように、物理学は数学によって誰でも真偽を問えるし、現実世界で成果をあげているために、現在大きな力をもつに至っています。

同じことは統計学にも言えますし、経済学などにも当てはまります。

つまり、現在最も評価されている情報は、数学を基礎としていると言えるでしょう。

しかし、数学はどのような性格をもっているでしょうか。

結論から言うと、数学は超現実的なものを扱い、信じる他ないような情報なのです。

なぜなら、数学の諸概念は、正確に言うと数学的な場だけでしか通用しないからです。

たとえば、数学的な概念のひとつである三角形を考えてみます。

この三角形は、xyz 軸によって規定された直交座標系において考えられ、その内角の和は絶対に180°です。

これはどんな三角形についても同様であり、直交座標系という「数学的な場」においては普遍的な知識です。

けれども、現実世界において内角の和が180°であるような三角形は存在するでしょうか。

私が紙に定規と分度器を使っていかに慎重に書いたとしても、あるいはコンピューターが書いたとしても、寸分違わず180°にすることは不可能でしょう。

いかに正確に見えたとしても、現実世界の三角形は、 数学的概念の三角形ではありえません。

だからこの三角形は、あくまでも数学的な場においてしか存在せず、そこでのみ取り扱い可能となるようなものです。

この意味で、こうした数学的な諸概念は「超現実的」だと言えるでしょう。

「信じる」しかないのはスピリチュアルだけ?

とはいえ、数学的な知識がいかに超現実的であっても、三角形の内角が180°であるという情報によって、実際にたとえば建築の場で、大いに役立っているではないかと言われるかもしれません。

しかし、これこそが「信じること」があげている成果に他なりません。

なぜなら、超現実的な情報を、現実世界に適用することができると「思う」ことによって、そうした営みが可能になっているからです。

数学的概念としての三角形は現実世界には存在しえませんが、私たちは現実世界における三角形にも、内角の和が180°であるという超現実的な知識を適用することで、計算可能なものとして扱うことができるようになります。

つまり、 私たちは現実の営みにおいて、あたかも現実世界が数学的な場であるかのように振る舞っているということであり、このこと自体はさらに数学的に検証することが不可能な「信じること」以外の何ものでもありません。

そうすることで多大な成果をあげることができているから、この「信じること」が普遍的な知であるかのように見えているのです。

以上のように、最も一般的で強力とみなされている情報でさえも、実は「超現実的」な情報に基づき「信じること」を当たり前のように行っています。

この観点から見れば、スピリチュアルと諸科学に身分の差はありません。

どちらも人間が世界を捉える営みのひとつとして、等しく受け取られるべきものです。

スピリチュアルが受け入れられ難い理由

それでは何が諸科学とスピリチュアルを分けているのかというと、ひとつは成果が目に見えやすいかどうかにあるように思えます。

一般的に人間には、目に見えるものに重きを置き、それに対して、目に見えづらいものには無頓着であるという傾向があるのは事実でしょう。

そのため、前者の成果が生じた際には一目瞭然ですが、後者の成果の場合は、それがいかに多大であったとしても、気づかないということが往々にして起こります。

そして、後者の成果に気づいたとしても、その成果がスピリチュアルな情報に起因すると説明するのは、数学に基づく因果関係によって説明可能な前者に比べて、さらに困難です。

たとえば、ある人が、乗るはずだった電車に乗り遅れてしまって、大切なミーティングに 参加できなかったとします。

そこで上司が、その人に遅刻の理由を尋ねます。

このとき、

「私は自分の歩く速さを計算に入れていなかったために遅れた」

という説明か、

「乗るはずの電車に乗った場合、私はそこで事件に巻き込まれることになっていたため、私の守護霊が乗るのを止めるようにした」

という説明か、どちらの方が受け入れられやすいかは明らかです。

仮に、守護霊が止めたためにその人が事件に巻き込まれなかったというのが本当のことだったとしても、それは目に見えない事象であるので、説明するのはかなり難しいでしょう。

芸術と諸科学との共存

ところで現在、目に見えないものを扱いながら、諸科学と共存している営みがあります。

それは芸術です。

詩や絵画、小説や彫刻は、芸術のカテゴリーに入りますが、これらはまさに、目に見えないものをそれぞれのやり方で何とか形にする営みだと言えるでしょう。

数学的因果関係ではどうにも説明できないものを、詩や小説は言葉を紡いで明るみにもたらし、 絵画や彫刻はその色や造形によって示そうとします。

例えば、ゴッホの「星月夜」は、彼に襲い来る世界の目に見えない諸力を自身の表現で、これでもかというほど強烈に浮き上がらせていますが、それは決して数学的に解釈されることを必要とせず、にもかかわらず多くの人に受け入れられています。

このように芸術は、もはや計算的に理解することによってではなく、まずもって「何かが心に来る、何かを感じる」という個人的な感覚がある表現によって明るみに出され、そうした目に見えないものを一般に共有できるようにするという側面をもちます。

もし、すべてが数学的に計算可能だとするなら、歴史において芸術がまったく廃れていないのはなぜでしょうか。

こうした営みが長い歴史をもって、今日諸科学と共存している状況は、人間が本質的に、計算可能なものとしてのみ世界を見ているわけではなく、芸術と諸科学は固有の領分をもって共存する「ひとつの世界の見方」であるという事実を鋭く反映しています。

そうだとすれば、たとえ目に見えないものを扱うにしても、適切な方法さえ採っているなら、芸術にできてスピリチュアルにできないはずはありません。

そのことを裏付けるように、今でも占いや霊媒は長い歴史を経て生き残っています。

諸科学は数学的な方法によって世界を把握し、芸術は言葉や造形によって世界を把握し、それぞれの方法に適切な領分をわきまえることで広く認められています。

節操のあるスピリチュアル

では、スピリチュアルにとっての適切な方法とは何でしょうか。

現在スピリチュアルはかなり多様性に富んだ方法を採っていると言えます。

ある人は小説の形をとって表現し、ある人は量子力学の知識から計算的に論じ、ある人はチャネリングという方法をとります。

そしてこれらの方法のいずれもが、受け手それぞれの個性に応じて選ばれているようです。

しかし、こうした多様な方法が、ときに混乱した形になっていることもあるように見受けられます。

たとえば、「天照大神」のことを歴史的語りの方法で表現していたのに、そこに量子力学的な知識を援用して、その語りの根拠を強化しようとすることなどはこの混乱にあたります。

それではまるで、物理学的法則を導き出すのに、数式の合間に物語を使うようなものでしょう。

このように混乱した情報を見るとき、人は不信な目でスピリチュアルを見るようになるのではないでしょうか。

こうしたことは、それぞれの方法の領分を守っていないために生じるのであり、スピリチュアルは方法が多様なだけあって、いつもその危険にさらされています。

だからこそ、スピリチュアルが諸科学や芸術と同じように、「世界のひとつ見方である」と認知されるようになるためには、どのように表現するにせよ、まずはそれぞれの領分を守るという意識が大切なのではないでしょうか。

もちろん、スピリチュアルはその性格上、とても包括的な世界の見方をしようとします。

それゆえに各表現方法の領分間にまたがることは、必ずしも排撃されるべきではありません。

しかしその場合は、スピリチュアルはもはや諸科学や芸術と同じ立場にあるのではなく、それらをも根拠づけるような営みになることを認識するべきでしょう。

そのときには、スピリチュアルは例えば哲学と同じような営みになり、今度は「ひとつの見方」ではなく、さらに高次の営みになるように思えます。


書き上がった時には、「まあまあ、これでいいだろう」という気持ちだったのですが、記事を作成するために読み返してみると、「ちょっと弱いな」というところや、「それって本当かな?」というところが浮かんできました。

みなさんは、スピリチュアルについて、どのようにお考えでしょうか??

(反対意見大歓迎です!)


お読みいただきありがとうございました🌸

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