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池田 隆一さんの棺桶に入れたいお話


時々アイスクリームを作る。

鍋に牛乳と生クリームを入れて火にかける。鍋のふちがふつふつしてきたら、火を止める。それを、あらかじめ卵の黄身と砂糖を混ぜておいたボウルにかき混ぜながら流し込む。

氷水のボウルの中に、クリーム色のアイスの液体が入ったボウルを入れて、粗熱をとってから冷凍庫に入れる。

とても簡単。

あとはときどきかき混ぜれば、無添加の手作りアイスクリームの出来上がりだ。

市販のアイスクリームよりも格段に美味しいこのアイスクリームは、50年以上も前に母親が作ってくれた味だ。


1960年、日本でカラーテレビの本放送が開始された年に私は生まれた。

同じ年に生まれたのは、丸美屋ののりたま、インスタントラーメンにインスタントコーヒー、麒麟の缶ビール。

そして、令和天皇。人々に永く愛されているのが特徴だ。

日米の新安保条約が成立し、国会の周りは17万人の人で埋め尽くされた。岸信介は襲われ、浅沼稲次郎は刺殺された。

ベナンやナイジェリアなどアフリカでは次々と国が独立し、ベトナムはきな臭くなってくる。。。

世界中が新しい流れを求め、地球がブルブルと震えていた。

実際にチリではマグニチュード9.5という大地震が起きた。

子宮口が開き、陣痛の間隔が短くなっている。苦痛に顔をゆがませながら痛みの波に耐える。

例えるならそんな年だ。



千葉県の川崎市の社宅で幼少期を過ごした。父親は火力発電の工場に勤め、母親は自宅でピアノやエレクト―ンを教えていた。

私と妹は、とにかく大切に、父と母の愛をしっかりと受けて育った。

アイスクリームもそうだが、ゼリーやクッキーなど、洋風のお菓子を母親は作って食べさせてくれた。

父親は三交替の勤務で不規則な生活をしていたが、時間の許す限り私と遊んでくれた。

竹馬を作ってくれたり、竹とんぼを作ってくれたり、

一緒にカブトムシを採りに行ってくれた。

鳥を飼いたい、と言えばどこからか小鳥を手に入れてくれた。

手先が器用な父は、虫かごや鳥かごを手作りで作ってくれた。

父親最大の手作りは、ひょうたん型の池だ。

池が欲しい、金魚が飼いたい、という私の願いを父親はかなえてくれたのだ。

社宅から引っ越した千葉市のマイホームの庭に穴を掘り、コンクリートを流し、金魚の住みかを用意して、池を作ってしまったのだ。

父親は一家の大黒柱として家族を食べさせるために働き、母親は専業主婦として家庭を守る、という昭和の家族スタイルではなく、

我が家は限りなく、令和の家族スタイルに近かったのではないだろうか。

母親は自立した心と知性とやさしさを備え、父親は家族サービスと仕事のバランスを器用にとっていた。

この時代にインスタがあったら、手作りのゼリーやアイスクリーム、竹とんぼや池がアップされていたのだろう。いいねやフォロワーはついたのだろうか。


幼稚園に通っていた頃、私の靴が盗まれる、という出来事があった。

黄色い、鉄腕アトムの絵がプリントされた私の大のお気に入りの靴だった。

うわーん、と泣いている私に、母親が優しく説明してくれた。

「りゅういちの靴は、犬が持ってちゃったのよ」

当時は納得してしまったが、塀に囲まれた幼稚園に犬が勝手に入れるわけがない。

実際、私の靴は盗まれたのだ。

大きくなってから、母親が犬のせいにした訳を教えてくれた。

幼い私に、悪い人がいることを知ってもらいたくなかったのだと。


そのまんま、私は年を重ね、

61歳の現在に至るまで、人を疑うことなく生きてきた。

今年、長年勤めた会社を退職し、現在は区役所で事務の仕事をしている。9時から16時までの6時間勤務だ。

以前の会社と比べるとえらくのんびりと仕事をしている。

しかし、退勤後が忙しい。夕飯を作ってお風呂に入ると、Twitterで発信したり、noteにブログを書いたり、セミナーの復習をしたりする。今はYouTubeに自分のチャンネルを作ることにも挑戦している。作業しているパソコンの前で寝落ちしてしまうこともザラだ。

私が棺桶に入れたい話は、人を疑うことなく真っすぐに生きてきた、この人生そのものだ。

私に愛情を注いでくれた父と母に感謝の気持ちを込めながら、

人を疑うことなく真っすぐな人生を生きる

ということが、どんなものなのかをお伝えしたい。


巨塔

上智大学、というと外国語学部や文学部を想像する方が多いが、さりげなく理工学部もある。私はそこを卒業し、とある大企業への就職が決まる。

御茶ノ水駅から歩いて3分のところに、本社があった。地上20階、地下3階の建てたばかりのビルだ。

電化製品、火力、原子力発電所、東海道新幹線、コンピュータ、銀行システム、私たちの生活のありとあらゆるものの中に会社の技術が活かされていた。

そして時代の追い風を受け、会社は日本から世界へ向け、貪欲に、組織の翼を広げ、大きくなろうとしていた。

会社が世界を凌駕する時に使うのは

コンピュータやシステムなどの機械の力だろうか。

いや、違う。

特に1980年代前半においては、マンパワー、まさに、社員一人一人が力を合わせ、技術を開発し、市場を切り開き、死に物狂いで会社の発展を支えていた。

「ユニクロ帝国の光と影」の著書、横田さんがこの時代、この会社にいたら

腰を抜かしたに違いない。


会社が成長、拡大を目論んでいた当時、一人一人の社員に振り分けられる仕事の量と、求められる質の高さは殺人的なものだった。

無茶ぶりというやつだ。

毎晩、12時過ぎまで仕事をする。その後、上司が呑みに行くとなれば、お供する。

土、日、出勤も当たり前だ。

社内のどこを見渡しても、ほとんどの社員が抱えきれない量の仕事をさばくために深夜まで仕事を続けていた。

私もこんなものか、と思っていた。

企業の成長というものは、必ずしもきれいな結晶で成り立っているものではない。社員一人一人の、努力、叱責、協力、ひらめき、疲労感、達成感、家庭崩壊、よろこび、使命感、精神崩壊、いろいろなもので押し上げていくものなのだ。

努力、達成感

入社して2年間は工場で勤務していた。ある時、自分の担当業務の論文発表を課せられた。資料作りにも苦労したが、発表練習はその何倍も苦労した。

発表一週間前にようやく完成した資料を使って上司と同僚の前で発表練習をしたが、言葉がうまく出てこなくて、上司に散々なダメ出しをされた。

そこから私の努力が始まった。発表までの6日間は、工場の勤務が終わってから発表の練習をした。一人で会議室にこもり、すらすらと言えるようになるまでひたすら練習した。

朝方、寮に着替えと1、2時間の仮眠をするために帰り、朝の8時には再び出勤をし、通常の業務をこなした。そして、また練習。

フラフラになりながらも、どうにか、人前で発表できるまでに仕上げ、数十人の前で発表する当日を迎える。

睡眠不足の極限にいた私は緊張を通り越し、妙な高揚感の中、あっという間に発表を終えた。

満足する出来の発表だった。

発表を終えて上司にあいさつに行った。窓から入る光がいつもと違ってキラキラしていた。周りの世界がワントーン明るく見えた。

全力を尽くしてやりきった!

ろくに寝ていないのに体はとても軽かった。


その年に、私は海外営業部門への転勤が決まる。

2年間、みっちりと厳しく私をしごいてくれた先輩がいた。口数が少なく、あまり感情を表に出さない人だった。

私が2年間のお礼を言うと、やわらかな笑顔で

「よくやったな、いつでも工場に帰って来いよ」と言ってくれた。

温かい、気持ちのこもった言葉だった。この工場での先輩との日々、怒られ、指導された毎日を思い出し、いろいろな気持ちで胸がいっぱいになった。私はこらえきれなくて、涙があふれ、しばらく言葉が出せなかった。

夜の送別会では、逆に職場の女性陣が涙を流し、次のステージへ進む私へエールを送ってくれた。運動会や演劇発表会、忘年会や社員旅行。忙しい時間をやりくりして練習したり、準備をした。楽しい思い出は今も忘れない。


精神崩壊

「会社に行きたくない」

「眠れない」

「どうすれば良いのか、わからない」

夜遅く、寮に帰って布団に入っても眠れなかった。

会社のことを考えると、眠れなくなった。

ようやく眠れても、今度は朝が起きられない。

入社5年目の私は、食欲もわかず、シャツもよれよれ、ネクタイもずれて、フラフラの状態で生きていた。

きっかけは、上司の広げた大風呂敷の後始末だ。海外向けに開発した大型コンピューターをある企業に貸し出す、というできもしない約束をその上司はしてしまったのだ。

その後、上司は私に、その業務全てを押し付けた。仕事の内容は主に、いろいろな方面に謝罪に向かう、というものになった。

一番迷惑をかけた、できない約束を信じて大型コンピュータの到着を待っていた企業にはシステムエンジニアと一緒に謝罪に行った。もちろん、激怒された。

その頃から、私は眠れなくなった。

会社にいる間は、人との会話を必要とする仕事はできなかった。自分一人で完結できる仕事のみを、虚ろな心と脳で処理した。

ある休日の夜、

「もうだめかもしれない」

と思って、私はある場所へ向かった。

父と母の居る実家だった。

一人でいたくない、とにかく実家に帰りたかった。

父と母は何も言わず、私を受け入れてくれた。


朝起きて、母親の用意した朝食を食べる。

焼いたトーストには、バターがのっている。

目玉焼きか、ゆで卵、サラダも小鉢に用意されている。

ティーバッグでいれた紅茶は透き通っていて、湯気が立っている。

久しぶりにまともな朝食を食べて、朝早く、千葉から御茶ノ水の本社へ出勤した。

終電に間に合うように帰宅する。もっと早く帰宅すると、母親の用意した夕飯が待っていた。

普通のご飯、味噌汁と、ふろふき大根と、金目鯛の煮つけ。

私は、寮生活をやめてしばらく実家から出社することにした。

毎朝、朝ご飯を食べるようになった。

帰宅後、夕飯を温めてくれる母親と二言三言、会話をして、夕飯を食べて風呂に入って寝る。

ようやく私は、夜、眠れるようになった。

そんな生活を1ケ月ほど続けた。

ある晩、母親が言った。

「いい加減、寮に戻りなさい」

両親は「いつまでも、いても良いよ」とは言わず、

私の背中を押して寮に戻したのだ。


野戦病院だったのだろうか。

温かい実家の空気で私は元気になり、鳥かごから小鳥を放つように、母親は私を寮に戻らせた。

鳥は、鳥かごで生活を長くすると、野生に戻っても、元の感覚を忘れ、外の世界では生きていけなくなる。

母親は、私が、

親がいなくても、外の社会で生きていけるように、

私の様子を見て、タイミングを図って、

鳥かごから出したのだ。


おかげで私は精神を崩壊する一歩手前で、気力を取り戻し、今に至るまで元気に生活できている。

当時はどこの会社でも、従業員の何名かがあまりの激務に精神を患い、自らの命を絶つ、という事件が発生していた。

私の会社も例外ではなかった。

私は、ただ、運が良かった。

企業の成長というものは、必ずしもきれいな結晶で成り立っているものではない。企業とは若者の輝く未来を奪い、命をも飲み込んで、成長するのだ。


朋友

私は2回、中国の北京に赴任し、仕事をした。

最初の駐在は天壇公園の近くに住み、毎日運転手が自宅に迎えに来てくれた。

当時の北京は戦後間もない日本のようで古い建物、舗装された道路は穴ぼこだらけ、多くの市民は自転車を通勤に使っていた。

最初の駐在では、同い年の中国人の社員、陳さんと二人で協力しながら仕事を進めた。

中国の人は、私が誰とでも分け隔てなく接することに驚く。

私は地位の高い人、低い人、誰にでも敬意を払って接するからだ。

会社の同僚、運転手とも同じように接し、ご飯を食べ、酒を飲みかわす。

相手の地位によって態度を変える日本人が多い中、中国人の社員は私の姿勢に親しみを感じてくれた。


一番大変だったのは、地方政府のコンピュータシステム導入の入札に挑んだときだ。政府に提出する提案書は200ページにも及び、何十部も製本して提出しなくてはならない。日本人と中国人のペアになり、担当を決め、10人で三日三晩徹夜して作った。最終夜はみんな、ハイになってしまい、大声でどなり散らしながら提案書を仕上げた。これも今となっては楽しい思い出だ。

ずっとペアで仕事をしてきた同僚の陳さんとは、本当に仲良くなった。

弱いのに、ついついお酒を飲みすぎて意識をなくしてしまった私を何度助けてくれたことか。毎度毎度、陳さんは私を肩で支え、自宅や出張先のホテルのベッドまで運んでくれた。

中国では沢山の友(朋友)ができ、何かあると朋友が助けてくれた。彼らとは中国を離れた今も交流が続いている。


2回目の駐在の大きなミッションは、中国での合併会社の立ち上げだ。私がプロジェクトリーダーとなり、中国に本社と5つの支社を半年で、設立登記、税務登記、事務所の契約、内装工事、ネット環境の整備を済ませ、従業員80名の移籍を行うのだ。

日本でも大変なミッションなのに、ここは中国。

5つの支社へは飛行機で移動し、一日がかりとなる。

そして全ては中国の文化、中国の法律にそって進めなくてはならない。

タイトなスケジュールの中、中国人社員が気持ち良く、最大限のパフォーマンスができるかどうかが、このプロジェクトのカギになる。

この時も沢山の朋友が力になってくれた。

如果池田先生的事、我会全力以赴帮忙的。(池田さんのいうことなら、全力でやります。)

現地スタッフ20人と協力しながら、目標通り半年で全てを遂行することができた。

*如果・・・~なら  先生・・・~さん 

 我・・・私   的事・・・〜の言うこと

 会・・・~するつもりだ、当然~するものだ

 全力以赴・・・全力で~する  

 帮忙・・・助ける



一方日本での私は、どうだったか。

中国と同じだった。

相手の地位によって態度を変えることはしない。

上司にも、部下にも敬意をもって接する。


しかし、中国にいたときほどは評価されなかった。

上司からの受けが悪かったのだ。

理由は簡単で、敬意をもって接してはいたが、上司のご機嫌を伺ったり、こびへつらうことをしなかったからだ。

上司の意向に沿った結論ありきの会議は、日本ではよく開かれる。

意見を求められた部下は、上司の持っていきたい結論をアシストする意見を言う。

しかし、私は状況を分析して客観的な意見を言う。

上司とは反対の意見の時もある。上司にとって面白くないのは当然だ。


つくづく、サラリーマンには向いてない。

自分でもそう思うし、ときどき周りからも呆れられながら言われた。


逆に部下からは中国と同じように慕われた。

何かを押し付けることはしなかった。

細かいダメ出しもしなかった。

昔、上司にできもしない約束を押し付けられたという苦い経験が、

自分が上司になったときは部下を守り、成長をサポートする人になろうと思わせてくれたのだ。

自分の後ろ姿を見て学んでもらい、後ろから支えるようにしていた。


こうして、38年、私は会社を勤め上げ、4月に退職した。

コロナ禍の中、最後の出勤日は、ほとんどの従業員が在宅勤務だった。

そんな中、2年間面倒を見た部下が、わざわざ出社し、目を潤ませて最後の退勤を見送ってくれた。


武士


私は自分の利益のために人を出し抜くこと、

自分を守るためにウソをつくこと、

意味もなく、不用意に誰かを傷つけることを

この38年

一度もしなかった。


この巨大な組織の中で、自分の道を曲げずに生きてこれた自分を誇りに思う。

そして、人を疑わない、真っすぐな人間に育ててくれた両親に改めて感謝している。


人々は、私とすれ違っても、誰も振り向きはしないだろう。

テレビや雑誌に取り上げられるような活躍はしていない。

だが、忘れてはいけない。

すれ違っても誰も振り向かない

誰にも振り向いてもらえない、認めてもらえない

そんな大多数の人間がこの国を支えているのだ。


その中には、自分の道を真っすぐに進む者がいる。

それは、武士だと思う。


心の中に刃を持ち、

自分の信念に誇りを持ち、自分の道を極める武士だ。

私の刃は一度として人を傷つけなかった。

誰かを守るため、誰かを活かすためにこの刃を使った。


私と妻の間に子どもはいない。

しかし、私が守り抜いたもの、守って育てた人の心にきっと私の思いは宿っている。

私が守ったものが、さらに誰かを守り、

私が育てた思いを、きっと誰かが花咲かせてくれる。


日本には、すれ違っても誰も振り向かない

誰にも振り向いてもらえない、認めてもらえない

そんな人が多数を占めている。


駅の構内には、名もなき武士が

背筋を伸ばして歩いている。

自分の信念に誇りを持ち、弱きを助ける名もなき武士が

誰かを守り、誰かを活かしている。

名もなき武士が、

あそこにも、ここにもいる。


そうやって私たちは、身近な人を守ることでこの国を支えてきた。


次の世代の人へ。

時間はあっという間に過ぎてしまう。

無意味な人間関係や、何かに妥協することで

あなたの刃を錆びさせてはいけない。

常にその刃を磨きなさい。

人を守るため、

人を活かすために

その刃はあるのだから

武士として、常に刃を磨きなさい。


次の世代の人へ

下を向いて歩いてはいけない。

常に武士としての誇りを胸に

前を向いて歩きなさい。


わたしも

刃を磨き続け

いつか

武人であるあなたとすれ違うから。




以上、池田隆一さんの棺桶に入れたいお話でした。


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     私は池田さんのインスタが好きです

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あとがき


思えばすっごく、不思議な偶然でした。

私は何も考えず、2週間前の日曜日、池田さんに声を掛けました。

「池田さん、こんにちは!そろそろ池田さんのお話書きたいんですけど、いつお話を伺えますか?」

なんと、私が声をかけたその場所は、後で聞くと、かつて池田さんが勤めていらした会社の本社跡地でした。

そして、お互いの都合で、お話をその日に伺うことになったのですが、適当な場所が見つからず、

二人でコーヒーをテイクアウトして、かつての本社のすぐそばの路地に腰かけてお話を伺ったのでした。

池田さんの棺桶に入れたいお話は、最初はご両親への感謝の気持ちがメインでした。一通りお話を伺い私たちは別れました。

「今までのサクラさんの主人公に比べると私の話なんか。。。」

「何をおっしゃいますか、池田さんは良い人だから、絶対大丈夫です」

なんて言いながら。


物語の軸のようなものが私の頭の中に「スッ」と通ると、後は言葉が上から降りてくるので、ただタイピングすればよいのですが、

今回はその「スッ」という感覚が、なかなか来なかった。

1960年代の時代背景や、かつて池田さんが勤めていらした会社、本社ビルの写真、1990年代の北京の様子いろんなものを調べて

申し訳ない、と思いながら、池田さんに何度も連絡をして当時のお話を深く伺いました。

そして、ようやく、ようやく

ジワジワと真っ直ぐな筋が見えてきて

最後に

「スッ」と軸が通りました。

その軸は、池田さんの仕事を通じた生き方そのものでした。ご両親への感謝はそこに含まれていたのです。

物語を書き進めるうちに、私がかつての本社跡地で池田さんに声をかけたこと、本社近くでお話を伺ったことが、偶然というか、神がかっているな、と思いました。

未来からのレールが敷かれていて、

私は何かの導きで池田さんの物語を書くことになり

池田さんもご自身の過去を深く振り返ることになりました。


多分、私たちの意思を超えたところで、

この物語が書かれることは決まっていたんだな、と思います。


だから、この物語は、

私と池田さんの運命を変えることになるのではないかと思っています。


予定調和から外れた、何者かの意思のままに私たちは運命の舵を切った、

そんな感じがします。


昨晩、大方の下書きを終えたときに、涙がでました。


「スッ」という感覚がようやく降りてきてくれたこと、

その感覚に忠実に物語を書き終えることができたこと、

私の質問に何度も付き合って下さった池田さん、

全てにありがたさを感じて泣いてしまいました。


最後に中国語の解説をしたいと思います。

中国でのエピソードを伺った時に

池田さんは、中国人のスタッフは「池田さんのいうことなら、やってやろう」という気持ちで仕事をしてくれた、とおっしゃいました。

だから私は、中国語に訳して

如果池田先生要、我就帮他。(池田さんのいうことなら、やってあげよう)

と書きました。

「就」という言葉がポイントでした。これはちょっとした強調詞で「助ける」という意味の「帮」を強調させています。ただの「助ける」、よりも、「より気持ちのこもった助ける」になります。

「池田さんのいうことなら、考えるまでもなく助ける」

というニュアンスが含まれます。

しかし、池田さんに下書きを見て頂いたら

如果池田先生的事、我会全力以赴帮忙的。

と訂正が入りました。

「池田さんのいうことなら、当然全力で助ける」

とニュアンスが変わり、更に「助ける気持ち」に「全力」が込められました。


池田さん、すごいなーと思いました。

文化も、生きてきた人生も違うのに、よその国の人から全力で応援されるなんて。

これって、本当にすごいことなんです。


なのに池田さんはご自身の成し遂げられたことをちっともひけらかさない。

スケールが本当に大きい方だと思いました。


池田さんがかつて住んでいらした近くの天壇公園ですが、数年後、私は旅行で数日間、毎朝訪れていました。

太極拳の練習にまぜてもらっていたのです。鳥のさえずるなか、静かに動くのも気持ち良かったし、おじさんおばさんも、目が合うとニコニコ笑ってくれました。そこで仲良くなった大学生の女の子とは、自宅にお邪魔してジャージャー麵をいただいたり、翌年は私が日本の食材を持ち込み、彼女の家族に天ぷらとおそばを作ったりしました。

国籍を取り払えば、私たちはただの人です。

だから、お互い、ただの人として世界中の人と仲良くなれれば良いのにな、と池田さんのお話を伺ったり、当時を思い出しながら思いました。


万里の長城のように、長い物語に、最後までお付き合いくださり、

本当にありがとうございます。


心の刃を磨きましょうね。

サクラより。









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