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研究は推し活なのです。ゼミでは同人活動をするのです。

「テレ東のドラマが面白い」ことを妻に話したら、日本のドラマはせせこましくて、日常の細かなしかことやってなくて、面白くない。それに比べて中国ドラマはスケールも大きく衣装も綺麗で、いかにも予算が掛かっているなという感じで観ていて楽しい、と言われた。

圧倒的!!!!予算の!!!差!!!!(カイジ風

これはいかんともしがたい。確かにそれに比べたら日本のドラマなどショートコントみたいなもんだ。

かつて「トレンディドラマ」などといって、日本のTVドラマ全盛期があった。それが華開いたのは日本全体に余裕ができたから。作る側で予算が潤沢にあって、細かな経費の使い方など誰も気にしていなかった。

もちろん、中国ドラマにも駄作は多くある、らしい。しかし「数打ちゃ当たる」の精神は重要だ。裾野が広いからこそ、山は高くそびえ立つ。ものすごい数の駄作の中からとんでもない作品が生まれ出てくる。

ここまで書いてきて、聡明なる御同輩の皆様方は感づかれたと思いますが、これはまったくそのまま、学術研究の世界にもあてはまってしまう。日本が失われたウン十年の間に、やれ稼げる大学だ、やれ競争的な研究環境だ、やれ一部の「見込みある」研究に重点配分だ、やれ1円単位で経費使用理由説明書が必要だとやっているうちに、あれよあれよというまに中国に追い抜かれた。

創造的な領域において、どういう環境であれば優れたプロダクツが出てくるのか、これほど明確な比較事例はない。

中国のドラマで典型的なのは「後宮もの」(ただしそれは必ずしも現実の歴史的考証に基づかない「後宮ファンタジー」な場合も多い)らしい。いわゆる時代劇に女性同士、人間同士のドロドロが展開される。後宮もの、実は日本製コンテンツとしても一部に人気がある。ただしそれはライトノベルや漫画になる。

例えば「薬屋のひとりごと」は、花街で働いていた薬屋の娘 猫猫(まおまお)が攫われ、後宮女官として働き出すところから始まる。そこで暮らす人々の生きる苦悩が描かれつつ、主人公はさまざまに起こる事件を薬学的知識で解決しながら、大きな陰謀に迫っていく。

あるいは「ふつつかな悪女ではございますが〜雛宮蝶鼠とりかえ伝〜」では、次期正妃候補ながら病弱な女性の黄玲琳(こう れいりん)が、それを妬む低位の側室候補の女性 朱慧月(しゅ けいげつ)から呪いを受け、体が入れ替わってしまうところから始まる。しかし玲琳は意外にもたくましく、そこから傍若無人ともいえる展開が繰り広げられる。

どちらも「なろう系」と呼ばれる、小説投稿サイトへの掲載が元となり、出版・漫画化されたものだ。なろう系には異世界転生もの(死んで生き返ったら別のファンタジー世界に生まれ変わるという展開のお話)が多いのだが、上記の2作品はとくに主人公は転生してはいない。後宮ものはあまり転生しない傾向にある気もする。転生するのはなぜかいつも、中世ヨーロッパ的剣と魔法の世界ばかりである。そしてなぜかそこには「東の国」というのがあって、和食だとかを主人公が嗜む。ミソとかナットウとか作り出す。

まあそれはよいとして。閑話休題。

なろう系からデビューする小説家は増えている。またそれを作画することでデビューする漫画家も増えている。小説投稿サイト自体は収益化できるものではない(できるところもあるが)。なろう系からデビューするコツは小説を完結することだ、と誰かが言っていた。それだけ小説投稿サイトには完結していない、書きっぱなしのお話も多い。つまり作者は皆、好きで書いている。いわゆる同人誌のネット版である。「いいね!」や感想をもらえることがその創作のモチベーションなのだ。

今、日本のコンテンツビジネスを支えているのは、こうした裾野の広いアマチュアリズムである。無償で読んだり書いたり、お互いに批評し合う、同人的な場の広がりが商業的作品、あるいはそのなかでも特に優れた「山のてっぺん」を産んでいると言って良いだろう。

言い換えれば「表現の自由」「集会の自由」というのは、創作の山のてっぺんを高くするための、日本が必死で護っていかねばならない、数少ない源泉なのである(山なのに源泉、というのも比喩の統一ができてなくて気持ちが悪いが)。

さて聡明なる…くどいからやめますが、これを研究の世界にも一定当てはめて考えると何が言えるのだろうか。ひとつは「研究の自由」が脅かされることはビンボー日本がますます科学立国から遠ざかる道であるということ。そして「すそ野」を広げる努力も怠ってはいけない、ということかと。(もちろん研究資金が潤沢になることに越したことはない!)

研究の自由についてはいろいろ言いたいことはあるけどここでは詳しい言及をせず、裾野を広げる努力について少し書き述べておきたいと思う。それは研究者を増やす、ということより前の、学部生レベルで仕掛けていくことではないかと考えている。ただしそれは「大学院に行こうね」という話でもない。要は「研究を愛する人」を増やせないか、ということだ。

2019年に『在野研究ビギナーズ』(明石書店)という本が出版されている。同書では大学に属さずに「研究活動」をしている人たちが、自分たちの研究の進め方について語っている(ただしそこでは、結局は大学院でのトレーニングを一度経て、また大学とのつながりも持ち続けないといろいろ効率は悪い、という話も書かれている)。

2年ほど前に、ネットで、長野市の善光寺境内でハトの数が減っている、という信濃毎日新聞の記事が流れてきた。コロナ禍で参拝客が減った影響らしい。驚いたのは、それを確認できたのは、毎日境内にいる鳥の数をカウントしている人がいて、その人の観察結果によるものだったことである。恐れ入った。これも立派な「研究」だ。こうした在野研究者が増えればよいとも思うが、ただそうした「研究する人生」を選ぶひとは、まだまだ一部の人に限られるだろう。さらなるすそ野はなんであるかを考えると、先に「研究を愛する人」という表現をしたが、そうした「研究愛好者」を増やせないかと考える次第である。

研究愛好者とはどんな人か。たとえばそれは、学術的成果を仕事や生活に生かす人だ。いまや農家とは、英語の論文を調べて、農薬の毒性や機序について理解している人たちである。また最近、「婚活」について経営学者が研究した論文がネットでバズり、本として出版されるに至ったことがあった。そうした、何かわからないことや、気になることがあれば日常的に論文を読んでみる、という「研究愛好者」が増えるならば、日本の科学のすそ野はものすごく広がっていくのではなかろうか。

しかしそこには、どれだけ「ちゃんとした」論文なのかを見分ける力も求められる。その力を身につけるにはやはり、大学院である程度専門的に研究をしてみた経験がないと、難しいのかもしれない。しかし学部卒でもそれをトレーニングする機会を設ければ、一定それは身につけられるのではないだろうか。たとえば査読なしの論文よりも、査読ありの論文の方が学術的な「確からしさ」は(確率的に)高い、という知識を知っておくだけでも、論文を読むリテラシーとしては十分意味がある。

あるいはそのことも含めて、「卒業論文」を一度しっかり書いてみるというのは、研究の同人創作を手習でしてみるという経験になる。卒論とはつまり、自分が「萌え」る内容について、一度突き詰めて自分の「愛」を表現してみる作業なのである。

ということで推しへの愛と萌えは、これから私のゼミの重要なテーマとします笑。研究への垣根を下げ、裾野を広げるために、授業やゼミで「布教」をしていきたいと思っています。

それはそれとして、研究予算の総額増大と、獲得・執行の手続き簡素化は必要です!!これはこれで、声を大にして言っておかないとね。日本の科学が滅びます。

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