見出し画像

大学は沼にハマるための場所

(写真は帰り道に見つけた「大雪渓酒造」のお酒。なかなかお目にかかれないので即買いでした。初夏向きの低アルで酸味の効いた、香り高いお酒。とてもおいしかったです。)

大学の業務の一環で、学生からインタビューを受けた。

「今読んでいる本は?」と聞かれたので、オーディオブックだけれど、と前置きした上で、『ボタニカ』と『本好きの下剋上』、あとマンガたくさん、と答えた。学生があまりよい顔をしていなかったので(zoomインタビューだからあくまでも私の主観で、別にそんなことなかったかもしれないが)、期待していた答えと違っていたかもしれない。ごめんね。

もっと大学のセンセイらしく、『〇〇学』とか『〇〇理論』とかの方がよかったのかな。でも、本って基本娯楽物だからねえ。とはいえ最近、「読書」も私の研究対象になりつつあるけど。(読書学会に入りました)

「大学生に伝えたいことは?」とも聞かれた。

ちょっと悩んだ末、大学は学問でも趣味でもなんでも、好きなことを突き詰められる場・時間だから、なにか関心があることがあれば、とことんやってほしい、と答えた。自分が大学に入ったときは(これも聞かれた)、高校までの<学校>では抑圧されてきたのが開放された感覚があって、アルバイトとか友人との遊びとかボランティアとか、とにかくやりたいことをいろいろと好きなだけ、した。沢木耕太郎の深夜特急読んで、友人と1ヶ月海外貧乏旅行に行ったり。

そして大学院のときだったか、『脱学校の社会』(イヴァン・イリイチ)を読んで、それが言語化されているのにびっくりした。学問、特に社会学はそうやって、個人と取り巻く社会についての現象を言語化することが、とても魅力的に思ったものだ。

でも今はだいぶ大学も<学校化>がすすんだから、「やらされる」ことが増えた。ボランティアも「やらされる」ことのひとつ。そんなんでは誰も、魅力的には思わないよね。学問をする学生も少ない。勉強=勉めて強いる経験だけで、卒業していく。あー。

そういえば『ボタニカ』も『本好きの下剋上』も、どちらも好きなことを突き詰めている人の物語だ。前者の『ボタニカ』は牧野富太郎の小説だから、まさに学問そのもののお話でもある。どちらも主人公は、とにかく強い熱量で、自分の好きなことをつきつめていく。巻き込まれる周りは大変だ。みんな淡々と日常を営んでいるなかで、一人だけ非日常の<祝祭>を続けている人がいるのだから。

植物学の権威となる牧野富太郎は豪商の生まれである。しかし家業に目を向けず、高額な器具や本を好きなだけ買い、ずっと外を出歩く。当然、家業は傾く。本妻であるいとこを放っておき、愛人との間に子どもを山のようにつくる。いずれにしても、学問は「かぶれる」、つまり「沼にハマる」ものだという表現が、しっくりくる。

『本好きの下剋上』の、中世ヨーロッパ風異世界に転生した主人公マインは、前世(現代日本)では根っからの本好きだったのに、転生先は本がほとんど普及していない世界。それでも諦めず、本を普及するために「下剋上」に邁進していくのだが、そこで巻き込まれる人たちは、マインになんとか常識的な行動をとってもらおうと頭を悩ます。その際に「本」を餌にしてマインを釣ろうとした人は、ことごとくその100倍は痛い目を見るのである。

日常の延長からは、そうした「沼にハマった」非日常の熱狂は、そうそう生まれるものではない。だからこそ、非日常を仕掛ける祝祭装置の場として、大学が社会には必要なのだろう。

それは学問をする者にとっては、ずっとそれを好きなだけしていてもよい、という天国であるとともに、周りのコミュニティにおいては、自分たちに害をなす者たちを高い象牙の塔の中に囲っておいて、非日常が外に漏れ出さないための幽閉装置でもあるのだ。大学の中に日常を持ち込むのも、野暮なのだ。大学は学校では、ダメなのだ。狂った人たちが狂う方法を教えるところだから。

学生インタビューの前の時間、4回生ゼミでは、AIを使って英語論文を読んでみよう!ということで、Scispaceを使って、以下の論文を読んでみた。

Bhattacharjee, A., & Mogilner, C. (2014). Happiness from ordinary and extraordinary experiences. Journal of consumer research, 41(1), 1-17.

この論文は、「自分の人生が後どれぐらい残されているか」という感覚(未来時間展望度)によって、幸福感を感じる経験が異なる、という調査結果を出している、興味深い研究だ。調査結果からは、以下のことが分かっている。

「非日常的な体験は、日常から外れた稀有な体験であり、人々の注目を集め、記憶に残るため、人生のどの段階でも幸福感を得ることができる。日常を構成する平凡な瞬間は、未来が無限に広がっているように見えるため見過ごされがちだが、自分の命が残り少なくなっていることを実感するにつれ、平凡な体験が幸福に寄与するようになる。」

Bhattacharjee & Mogilner (2014) p.13

つまり「非日常」とは、まだ未来も、自分自身すらもわからぬ人間のほうがビビットに幸福を感じる。さっきも書いたが、学問とは非日常。だとすれば、若い人が学問という沼にハマるのも、おかしな話ではない。若いときに学問にかぶれる幸せというのを、大学でどれだけの学生に味合わせられるか。それは、地元のお酒を酒屋で見つけていそいそ買うような、日常に小さな幸せを見出しながら生きるようになってしまった自分が今「つきつめたい」、ささやかなことでもある。

ついでに言うと、今日読んでたマンガは『映画大好きポンポさん』。これも映画に狂った映画バカ達の話だった。とてもよかったです。


この記事が参加している募集

連休に読みたいマンガ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?