顔がなかったのは悪意ではなかったんだ。 『愛しのせりー#3』
荒野のような荒れ果てた土地に女性が一人立っている。その女性の顔は黒く塗りつぶされていて、手にはその場所には似合わない綺麗な花を持っていた。僕がいつも彼女に抱いていた感情、また今目の前にいる彼女に思ったこと。ありのままの表現が紙の上に繰り広げられていた。
「楠くんには私ってこう見えてるんだね…」
やってしまった、と僕は思った。彼女の表情は曇りに曇っていて、心なしか震えているようにも見えた。
「ごめん」
とくに人と関わったことのない僕にはこの一言しか出てこなかった。
彼女は黙って絵を見つめていた。紙の隅から隅までミリ単位で何かを探しているかのように、僕の絵から彼女の大きな目は離れることはなかった。僕はその間何をしたらいいのかわからずに、ただ待つしかなかった。何を考えているのか、もしかしたら紙をやぶって出ていってしまうのではないか、不安を抱えていた。
そんな時間が過ぎ、彼女はすっと立ち上がった。うつむきがちな僕は、すらっと伸びた足から細いウエスト、艶やかな長い髪の順番に顔をあげて、やっと彼女と目があった。気づかないうちに僕の前まで彼女は近づいていた。この瞬間、死の直前のように時間がゆっくりと流れて、
彼女と僕は、キスをしていた。
「え」
唇が離れた後、そんなありきたりな言葉しか僕の口から出ることはなかった。彼女は泣いていた。
「楠くん、ありがとう」
キラキラしていた。ただただキラキラしていた。もう夕日も落ちかけていてわすがな西日なのにも関わらす、彼女の頬を伝う涙は光に反射していた。その潤んだ瞳にまっすぐに見つめられた僕は、火をつけられたように熱くなっていた。
彼女が教室を出ていった後、「え」以降なにも言葉を発せれなかった僕は、ただただ熱くなった体を落ち着かせるしかなかった。何が起きたのか、誰かに説明しなくちゃいけなかったとしても不可能なくらい、頭の回転が止まっていた。
「おい、下校時間だぞ」と、担任の先生が見回りにくるまで、僕は真っ暗教室でただただ彼女の唇の感触を思い出していた。それは決して変な気持ちではなくて、非常に芸術的で感動的で、染み入るほど温かな体験だった。
家にとぼとぼと帰っている時もそれを忘れることは出来なかった。突然キスされたこと、失礼極まりない絵に対して「ありがとう」と言われたこと、その後泣いていたこと、どれに罪悪感に似た感情を持ったのかはわからなかったが、胸が苦しくて仕方なかった。そしてあの時の映像を絵にしなくちゃいけないんじゃないかと、使命感に満たされた。
早く家に帰りたい、とぼとぼとした足取りは、どんどんと加速をし、ついには走っていた。こんなに息を切らして走ったのはいつぶりだろうか。さっきまでそこまで感じなかった鞄の重みも、伸び過ぎた髪の毛も、周りの視線も、全てが邪魔でしかなかった。
この世界が僕と彼女しかいなくなればいいと思った。
部屋についた途端、急いで紙とペンを持ち、出来る限り自分の脳裏にあるあの映像を投影した。自分は映写機なんだと言わんばかりに。今まで自分のためにしか書かなかった絵に”自分”を無くそうと必死になった。
そして暗かった空が明るくなった頃に完成した作品は、あの時衝撃を受けたキラキラと同じくらいの光量を放っていた。すぐに思った。「彼女に見せたい」と。全く眠気はなかったし、お風呂に入ってないとか、着替えてないとかそんなどうでもいいことは一旦捨てて、また学校に向かっていた。さすがに早過ぎた教室には誰もいなかったけど、時間が経つに連れてぽつぽつと席が埋まっていき、始業のチャイムが鳴った。そう、
彼女はあの日からしばらく、学校に来ることはなかった。
歪な恋愛小説「愛しのせりー」をのんびり投稿中。このおはなしは純愛?狂愛? 結末にむけて色が変わる不思議な物語です。