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帰国日記①パスポートの耐えられない軽さ

飛行機の中はすいていて、1列に2,3人の割合で席に着いている。2つ前の席には運動選手の女の子たちが乗っている。長い髪をひとつに結んだ綺麗な10代の子たちだ。彼女たちはおそろいの赤いユニフォームを着ている。

飛行機が動き出してしばらくすると、私は腕置きを上げて、通路側の席から真ん中の席に移った。U字型の枕を持ってくるのを忘れたから、不安定な首のままうたたねをした。

飛行機での眠りから覚めたときいつもそうであるように、喉が痛くて、ここがどこなのか分からない。もう暗くなった機内のななめ前で、背の高い研究者みたいな風貌の男の人が、熱心に映画を観ている。

機内食が運ばれてくる。
チキンと野菜の煮物のようなものと、サラダ、それからチーズケーキ。ケーキは甘ったるくて半分残した。あとでお菓子が出るんだから、それに分厚い板チョコもまるまる一枚カバンに入っている。

文庫本を読んだり、映画を流したりしながら、私の緊張はより強まる。ごぉーーっという終わりのない音と、客室乗務員が元気に踏み鳴らす薄いカーペットの音。トイレに立ったあとで念入りに首や肩のストレッチをする。貸し切りの1列の座席で足を思いっきり開いてみる。

あと3時間半で到着するという、いちばん退屈でため息が出る時間に、後ろから肩を叩かれた。日本人の女の人が、「ごめんなさい、ペン貸してくれる?忘れちゃって」と言う。私は2本持っているうちの1本を渡す。オランダに住む日本人がそうであるように、あまり恐縮しないし、貸してもらえるのが自然というような言い方だ。そんな言い方が私は好きだ。

お菓子は平たいゴーフレット1枚だった。私の嫌いなゴーフレット。私はそれをカバンの底にしまいこんだ。キャラメル味のせんべい1枚なんて、お腹に入れてもむなしくなるだけだ。

だれかが窓を開け、水色の光が飛び込んでくる。それで目を覚ました人たちが、伸びをする。朝食は、チーズクロワッサンとヨーグルト。それにアップルジュースをもらう。あったかいパンとチーズのにおいがあたりに漂う。さて、日本の空港は、本当に醤油のにおいがするんだろうか?

通路に並んだ前の男の人が振り向いて、私に、「バンコク行きに乗り換えるにはどうすればいい?」とたずねた。私は「知らない。私は乗務員じゃないし」と答えた。

 そのようにして私は成田空港に着いた。


身体をむりやり動かして、脱皮するかのように、機内から出る。

窓付きの廊下を歩いていく。朝のまぶしさに目が痛い。ノートパソコンや本やノートを入れたリュックが重い。

廊下を過ぎると、パイプ椅子がずらっと並んだところに着いた。背中に①から⑳までの番号の紙が貼ってある。小さな人たちが、声をかけながら、私たちを座らせた。

それは、まさに小人というような、華奢な小さな人たちだった。男の人も女の人も。挙動も声も小さく、ささやくような話し方だ。私は滑走路側の⑨に座り、飛行機の見える窓辺に書類入りのファイルを置いた。そこに、小人のうちの1人の女性が、背を曲げて近づいてくる。

「失礼いたします、書類を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」

その声は、細くて色の白い枝を重ね合わせたような、風が吹けば飛ばされてしまうような繊細なものだった。私は、何を言われているのか、分からなかった。言っている意味は分かるけれど、彼女がにこにこしながら私に近づいてきて、ささやき声でそれを言う意味が分からない。

ショートヘアの女の人は、色が透けるように白い。彼女は私の椅子のそばに膝をつき、渡した書類に目を通す。

「英語のほうも記入していただいたんですね。ありがとうございます。どちらかで結構ですので・・・」

ほかの席でもひとりの客にひとりのスタッフが付き、書類を見てまわっている。通路をはさんだ隣の中年男性が、横柄に足を広げて座り、その姿勢以上に横柄な口をきいた。「ねえ、これで合ってんの?この書類はどうすんの?」

私は急速に腹が立った。その男に重いリュックをぶっつけたいくらいだった。傲慢な態度の日本人のおっさんが、こんなにも人をいらつかせるものだとは思わなかった。そして、とてもびっくりしたことに、私はその男にだけいらついているのではなかった。この部屋全体に、すごくむかついていた。小走りで近寄ってきて、丁寧すぎる言葉で話しかけてくるスタッフに、身体が震えるほどの憎悪を感じた。

そして、同じ便でオランダから日本に着いた人たちが、同じような戸惑いを感じているのが分かった。さっきまで大柄で大きな声の、打てば響くような物言いの客室乗務員たちに囲まれていたのだ。この小さくて、細くて、子どもに諭すような優しい声で、丁寧に丁寧を重ねて的を得ない言い方をする人は一体なんなんだ?

 

そこからPCR検査場に向かうまで、スタッフたちは何度も私たちの書類を確認する。このテーブルの次はあのテーブル、その次はあっちのテーブル、というように、何度も。彼らは赤いフェルトペンでチェックをつけたり、〇で囲ったり、日付の判子を押したりする。白衣をつけた人もいれば、スーツ姿の人もいる。忙しそうに書類がまわってくる人もいれば、ひまそうに突っ立っている人もいる。

この作業は、日本の役所仕事の冗長さと滑稽さを煎じて煮詰めたようなものだった。何十人もの職員がペーパーワークに追われている。紙の書類は要領を得ない書式で、書類にはナンバーや題名がないから、何の書類なんだか分からない。さっきの横柄おじさんは、「次どこに行けばいいの?こんなんじゃわかんないよ」と叫び声を上げている。

外国からいきなり純度100%の日本式お役所仕事にぶつかり、私は耳がキンと痛くなった。

スタッフは毎回パスポートを見せてくださいと言う。確認し終わると、書類にはさんで返す。ある女のスタッフは、床にパスポートを落とし、私が拾うまで気が付かなかった。この人たちには、外国に住む人間にとって、パスポートがどれだけ大事なものか分かっていないんだ。お薬手帳みたいな気軽さでほいほいと人手に渡したくないものだと。ああ、ああ、こんなところにあたしは帰ってきたかったの?オランダで夢に見ていた日本は、どんなに美化されていたかな。

 

私は彼らと自分のあいだに太い仕切りを引いた。

それは私がもう普通の日本人として彼らと仲良くはできないということの表れだ。彼らがすることを、興味深く観察する外国人のような目線だ。

私が嗅いだのは、醤油のにおいではなく、甘ったるくぬるい日本のにおい。言いたいことに丁寧語をくるむことをおもてなしだと思っている接客。効率という概念のない完璧主義。ミスをなくすために人員を増やし、多数のスタッフと客が接触する本末転倒を疑問にも思わないおかしな人たち。おかしなことだと言われると、きょとんとする怖いくらいの無垢さ。

さっきのおじさんはまた文句を言っている。さあ、スーツケースを取って、さっさと空港を出よう。外は、少なくともここよりはましだろうから。

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