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柿の種 より

僕はこのごろ、ガラス板を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、
その割れ方を調べている。はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである。
ごく軽くたたいて、肉眼でやっと見えるくらいの疵をつけて、それを顕微鏡でのぞいて見ると、球の当たった点のまわりに、円形の割れ目が、ガラスの表面にできて、そこから内部へ末拡がりに、円錐形のひびが入っているが、その破れに、無数の線条が現れ、実にきれいなものである。
おもしろいことには、その円錐形のひびわれを、毎日のように顕微鏡でのぞいて見ていると、それがだんだんに大きなものに思われてきて、今ではちょっとした小山のような感じがする。
そうしてその山の高さを測ったり、斜面の尾根や谿谷を数えたりしていると、それがますます大きなものに見えて来るのである。
実際のこの山の高さは一分の三十分の一よりも小さなものに過ぎない。
この調べが進めば、僕はひびを見ただけで、直径幾ミリの球が、いくらかの速度で衝突したかを言いあてることができるであろうと思う。
それを当てたらなんの役に立つかと聞かれると少し困るが、しかし、この話が、何か君の俳諧哲学の参考にならば幸いである。
今まで、まだやっと二、三 百枚のガラス板しかこわしていないが、少なくとも二、三 千枚ぐらいはこわしてみなければなるまいと思っている。

寺田 寅彦
「柿の種」岩波文庫

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" ADHD " について
2年前だっただろうか、本屋で偶然手にした発達障害の本を見なければ、自分を受け入れることは難しかったと思う。今まで上手くいかなかった人間関係も、自分自身のメンタリティーの変動、そうゆう性質だったのだと知り、100倍くらい、随分と生きることが楽になりました。
もちろん、これについて賛否両論あるかと思う。人間は多かれ少なかれ程度の違いはあれど、そうゆう”弱い”部分がある。なんでもかんでも、疾患だの、◯◯症だのと、病気にするのが好きな現代で、逆に”正常”とは何かと問いたくなる。けれども、自分は"ADHD"だから、こうなって、こうゆうことになる、だから、そうならないように、こう対処しよう。と、かなりポジティブに生活できるようになったのは事実である。
実は小、中といじめられていた時期があり、小学校の低学年で既に、死にたいと普通に考えていた。周囲から見たらそんな風には見えなかったかもしれない。人と馴染むことが難しいし、興味のあることが違うことも、話を合わせるのがこんなに難しく苦痛なものかと。とにかく、常にみぞおちあたりが、暗くてドロッとした冷たいものが渦巻いている感覚があった。そして、17、18歳くらいに精神病と診断されたのは、自然な流れかもしれない。
今思うと、全てのことが良かったと思えるし、必要な課程だったと感じる。
今は本当に元気になったし、芸術の世界で表現できることも、いろんな人のおかげで生きることに希望がある。

だから、ここで言いたいのは、悲観的な話をひけらかしたいのではなく、単に、自分の性質、癖、遺伝子的な特質を理解することで、本当に生きるのが楽になることがあるなということである。
もし、幼少期の自分に話せることがあれば、「今から、あんたは大人になるにつれて、女の子の集まりや、クラス同士の飲み会が苦痛になってちっとも楽しくないと思うけど、そういう性質だから、人に無理に合わせなくても良いのだからね。何かたった一つで良い、飛び抜けて才能を伸ばすことだけに専念しなさい」と言いたいと思う。

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