近衛秀麿『オーケストラを聞く人へ』

音楽家、近衛秀麿(1898-1973)を知っているだろうか。
近衛家は飛鳥時代から続く藤原家の直系で、兄は日独伊三極軍事同盟を締結した際の内閣総理大臣近衛文麿である。秀麿は音楽特使として1924年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、帰国後はのちにNHK交響楽団となる新交響楽団を設立、君が代や越天楽のオーケストラ編曲は現在でも演奏されているし、マーラーの交響曲第4番の世界初録音など、日本における西洋音楽の、あまりに大きなパイオニアである。また、ドイツ滞在中にはその立場を活かし、迫害されたユダヤ人の国外脱出にも協力した*1。しかし、彼の名は同時代の他の音楽家たち、山田耕作や、今でもサイトウキネンオーケストラに名を残す斎藤秀雄、9歳上の瀧廉太郎や、10歳下の朝比奈隆らに比べ、あまり有名なものとは言えないだろう。この音楽の巨人の名が、なぜ、だろうか。
『オーケストラを聞く人へ』はその名の通り、オーケストラに関する入門書である。同時に、単なる入門書の領域を超え、音楽の真髄へ近づこうと試みる音楽評論でもあるだろう。
本書は、楽典の教科書のように、まず楽音や騒音の話から始まり、倍音の構造、そしてオーケストラに登場する楽器の説明を、多くの譜例と共に紹介している。ベルリオーズ=リヒャルト・シュトラウスの名著*2を元にした仔細な説明はもちろん、演奏家ならではの、情熱的に楽器の特徴を炙り出す記述には目を見張るものがある。しかし、本書のハイライトは、1970年の改訂にあたって加えられた「あとがき」であると、私は考える。
近衛秀麿は、「古典派や、ロマン派の名曲は、百年前、主として当時の住民たちが心をときめかせた駅馬車の音やリズムを基調にしてい」るとし、現代人のテンポ感覚は「バイクやスポーツカーのスピード」、「ジェット機や新幹線」によって狂わされたと言う。そしてひと時代前のコルトー、パデレフスキー、フルトヴェングラーらの演奏に回帰すべきだと続ける。チャイコフスキーの音楽を例に、「あの世紀末の焦燥感」がなければ「音楽を恋うる心は納得しない」と述べる。当時の音楽情勢を嘆いているのだ。そして、「才能豊かな新人たち」が「古典曲の楽譜が語りかける本来の音楽の姿を把握し、その意味を正確に再現しようと言う自覚に目ざめた時」、「次の音楽の黄金時代が、(中略)築かれるに違いありません」として、終える。
近衛が述べたチャイコフスキーの例は、レオポルト・モーツァルトが『ヴァイオリン奏法』*3が末尾で述べた、「楽曲のアフェクトを適切に表現する」ことが音楽的に最も大事だと言うことと全く同じであろう。そして、この「あとがき」を書いた数年後から、西洋音楽ではピリオド楽器での復古演奏・研究*4が盛んになり、それはまさしく「古典曲の楽譜が語りかける本来の音楽の姿を把握」することが原点になったムーブメントであり、現在において、少なくともバッハや古典派の音楽では主流となったピリオド演奏が「黄金時代」であるとしても、過言ではないのではないか。そして、そのピリオド奏者たちは、まさしくレオポルト・モーツァルトの本をもとに研究・演奏を展開していった。近衛は、予期せずとも、ピリオド演奏の流行を、予言していたのだ。
ここで私が、予期せずとも、と加えたことには、理由がある。先に述べた通り、近衛は、フルトヴェングラーらの演奏に回帰すべきだと言っていたし、ピリオド楽器等に肯定的でなかったことは、本書を読めば明らかだ。チェンバロという語を用いるときは、毎回のように「ピアノの前身」という注釈をつけていた。
当時一般的でなかったであろうチェンバロに対する親切な説明と取ることもできるだろうが、他の場面でも近衛の楽器に対する進歩主義的な考えは露見される。それは、コントラバスに関する項である。その歴史的説明では、三弦だったものがGDAEの四弦となり、「ところが、第四弦まででは最低音の楽器にしてなお不十分で、多くの作曲家の欲求を満たすことができないため、さらにその下へ、長三度低いC線を追加した」と五弦について述べる。しかし五弦の楽器はその操作性の難儀さがあり、「新たに発明されたのが、いわゆるC装置」とし、「最近ではアムステルダムのコンセルトゲボウや、ウィーンのフィルハーモニー管弦楽団のコントラバス全員が、これを装置しているのを見かけましたから、遠からず全欧米にゆきわたることと思います」と締めた。
四弦目を延長し四弦にも関わらず五弦の音域までカバーできるC装置*5は、その合理性から、現在、アメリカのほとんどのオーケストラで採用されているし、イギリスやフランスなどヨーロッパのオーケストラでも多く使われている。しかし、合理性を獲得することで失われた音色があることも事実で、現在ドイツのほとんど全てのオーケストラで五弦の楽器が使用され、ウィーンフィルも現在では五弦に戻り、C装置は使われていないのだ。
鍵盤楽器の主流がチェンバロからピアノへと変わったのも、管楽器が産業革命とともにキーの数を増やしたのも、そしてコントラバスのC装置が開発されたのも、楽器の「進化」ではなく「変化」だった、というのは、21世紀の音楽シーンを考えれば自ずと分かる、疑いようのない事実であるだろう。
近衛に予言された未来と、無理解によるその否定。この矛盾こそが、残念ながら近衛が現在、名を忘れられた原因だと断罪するのは、彼の偉業に対して、あまりに失礼だろうか。
私は本書を読み、この原稿を書くにあたり、数年ぶりに近衛が指揮する演奏を聴いた。そこには紛れもなく音楽のアフェクトが表現され、その情熱的な音楽は、私の「音楽を恋うる心」を大きく刺激したのだった。

近衛秀麿『オーケストラを聞く人へ』1952/1970年、音楽之友社。

*1菅野冬樹著『近衛秀麿 亡命オーケストラの真実』2017年、東京堂出版。
*2 エクトル・ベルリオーズ=リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』1844/1905年。
*3 レオポルト・モーツァルト『ヴァイオリン奏法』1756年。日本語訳は1974年に塚原晢夫氏により初出版、2017年には久保田慶一氏により新訳が出版されている。近衛秀麿が日本語訳をこの時点で読んでいないことは明らかだが、原書を読んだかどうかは分からない。
*4 作曲された当時の楽器・演奏法を復元し、演奏すること。
*5 先述の『管弦楽法』によると、ドイツの音楽家Max Poike氏により発明された。Cマシーン、エクステンションなどとも呼ばれる。日本で使用される機会は少ない。余談だが、筆者はC装置の付いた楽器を所有・使用している。

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