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古典派のコンチェルト・グロッソ

1. コンチェルト・グロッソとは

 「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」はバロック時代に使われた音楽の様式です。オーケストラは、独奏(ソロ)も担当する「コンチェルティーノ」と、総奏(トゥッティ)のみを担当する「リピエーノ」に分かれます。つまり、オーケストラの中にいるそれぞれのパートの代表者(首席奏者)が、時にはソロを弾いたり、他のパートの代表者たちと数人でアンサンブルをしたりするわけです。ソロ(協奏曲)・室内楽・オーケストラという三つの要素が詰まっています。一度に色々楽しめるわけですから、当時、大変流行しました。

(J.S.バッハの《ブランデンブルク協奏曲》も「コンチェルト・グロッソ」の一種と言えるでしょう)

 この「コンチェルト・グロッソ」という様式が生まれた背景には、宮廷の限られた予算の中で人件費を捻出するために「少数の優れた演奏家を雇い、残りのお金で平均的な演奏家たちを雇う」という構造が関係しているのではないかと、前回の記事の第一章で指摘しました。一方で、社会が近代化していくなか、(1755年のミュンヘン宮廷をはじめとして)楽師たちの給与も合理的で統一的なものが目指されるようになります。
 確かに古典派の時代になると、「コンチェルト・グロッソ」は廃れます。音楽史的に正しい解釈では、「コンチェルト・グロッソはバロックの時代に流行するが、廃れ、20世紀の初頭になって新古典主義などが台頭すると、それらはストラヴィンスキーやバルトークらによって復古される」となるでしょう。
 あるいは「協奏交響曲」というジャンルとの関係性が指摘されますが、このとき想起されやすいベートーヴェンの《三重奏協奏曲》やブラームスの《二重協奏曲》の場合は「独奏者が複数人いる」のであって、「オーケストラのメンバーが独奏も担当する」コンチェルト・グロッソとは構造的に異なります。ベートーヴェンやブラームスの「協奏交響曲」のソリストはオーケストラの「前で」演奏しますが、「コンチェルト・グロッソ」のソリストはオーケストラの「中で」演奏します。

 では、「コンチェルト・グロッソ」という構造は、古典派になると本当に廃れたのでしょうか。給与体系が古典派の時代になってすぐに変わったのは、一部の宮廷です。多くの宮廷ではそれまでと同じ給与体系(演奏家によって給与に大きな開きがある)であったにも関わらず、「オーケストラのメンバーがソロも担当する」ことがなくなってしまうのでしょうか。

2. コンチェルト・グロッソの残滓(1)交響曲

 高い報酬を得る演奏家というのは、つまり名手です。オーケストラに名手がいるならば、彼らの能力を最大限引き出して、王侯貴族たちにその音楽を聴かせるのが楽長たちの務めでしょう。古典派になると「コンチェルト・グロッソ」は廃れますが、オーケストラ作品のなかにその構造や精神が残っているものもあります。

 それは、「交響曲の父」とも呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)の交響曲も当てはまります。
 ハイドンは8歳でシュテファン大聖堂の楽長ゲオルク・フォン・ロイター(1708-1772)に認められ、聖歌隊のメンバーとして9年間働きました。しかし1749年、変声期を迎えたハイドンは聖歌隊を解雇されてしまいます。その後約10年間、ハイドンは定職を得ることができませんでした。
 20代半ばになってようやく就職口を見つけ、ボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長の座に就きますが、伯爵の経済的な理由によりたった数年で解雇されてしまうのでした。
 そして1761年、ついにハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長に就任します。その後楽長にもなるハイドンは、1809年に死ぬまでその職を続けました。
 さて、そのエステルハージ家に就職して最初に作った交響曲が、三部作《交響曲第6番『朝』》《交響曲第7番『昼』》《交響曲第8番『夕』》と言われています。これらの交響曲は、ソナタ形式の第1楽章に始まる全4楽章といういわば交響曲の「お決まりの型」となっています。
 とはいえ、19世紀の音楽に慣れ親しんだ我々が考える「交響曲」のイメージとは異なるものでしょう。当時のエステルハージ家にいたオーケストラのメンバーは全部でたった12人程度だったと言われています(1772年)。そしてこの三部作交響曲では、それぞれのパートにソロが登場し、彼らは独奏を披露したり、室内楽的なアンサンブルをしたりします。
 宮廷に就職したばかりのハイドン。そしてハイドンと「同期入社」の新人演奏家たちもいたようです。最初の交響曲は、自分の、そして仲間達の腕を魅せる最初の機会といったところだったでしょう。確かにその名前は廃れており、箱は「交響曲」となっていますすが、その中身は古典派の「コンチェルト・グロッソ」だとも言えるのではないでしょうか。
 それでは、ジュネーブ・カメラータによる親密で素晴らしい《交響曲第6番『朝』》の演奏をお聴きください。

 弦楽器だけで演奏される第2楽章では、ヴァイオリンとチェロが独奏を務めます。続く第3楽章の主部はフルートの独奏や管楽器だけの音楽(ハルもニームジークのようです)もあり、中間部では普段目立たないファゴット、ヴィオラ、そしてコントラバスにも独奏が登場します。終楽章でも独奏ヴァイオリンや独奏チェロ、ホルンの技巧的なパッセージなどがあり、華やかに曲は閉じ、快い『朝』を迎えることができそうです。

3. コンチェルト・グロッソの残滓(2)セレナーデ

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟、ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)も音楽家です。兄と同じく幼少期にウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊メンバーとなり、兄よりも若い弱冠20歳でグロースヴァルダイン司教の楽長となります。そして兄がエステルハージ家に就職した数年後の1963年にはザルツブルク大司教の楽長に就任しました。
 そんなミヒャエル・ハイドンが、ザルツブルクで1767年8月に作った《セレナーデニ長調 P.87》もまた、「コンチェルト・グロッソ」のような作品と言えるでしょう。

 兄が三部作交響曲を作った当時のエステルハージ家と比べると、ザルツブルクの宮廷オーケストラは巨大なものでした。1770年のデータによると、総勢38人です。それぞれのパートに複数の奏者がいたわけです。(つまり、同じ楽器でも給与の傾斜もあったのでしょう)
 このセレナーデにも、多くのソロが登場します。それは兄の三部作交響曲のような「ちょこっとしたソロ」ではなく、楽章全体を通してのソリストという趣です。第2,3楽章ではチェロとフルート、第4,5楽章ではホルンとトロンボーン、第7,8楽章では、フルート、ホルン、トロンボーン、ヴァイオリン、チェロのソロが大活躍します。このソロは、演奏するためには相当準備が必要でしょうし、つまり練習には時間がかかるでしょう。現代の目線を入れるならば、「手当」が必要だと言えます。

 さて、この《セレナーデ》に関しては、また次回の記事で細かく解説していきたいと思います。
 バロックや古典派という時代区分は、「交響曲の父」などの呼び名と同じく、後世の人々が与えたものです。確かにバロックと古典派には、明確な違いもあります。一世を風靡したコンチェルト・グロッソもまったく登場しなくなりました。しかし、音楽の歴史はもっと有機的に繋がっています。そういった繋がりを、楽しんでいただけたらと思います。

[参考文献]
ウルリヒ・ミヒェルス編『図解音楽辞典』1977年、角倉一朗日本語監修1989年、白水社。
小笠原勇美「モーツァルトのシンフォニーの研究」1984年、岩手大学教育学部研究年報第43巻第2号(1984.2)17~3。
新林一雄「18世紀ドイツの大規模な宮廷オーケストラにおいて受け継がれた楽器編成」2019年、東京藝術大学音楽学部紀要 45, 59-72。

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