「誤配」としてのヴォルフトーン。

 ドイツ語でヴォルフトーンWolfton、英語でウルフトーンwolf toneと呼ばれるそれは、低弦楽器を演奏した際に、その音と楽器の胴体が共振したときに発生する非自然的な倍音である。要するに「うねり」だ。狼が啼くようにウォンウォンとした音がするから、そう名付けられたそうだ。コントラバスにおいては特にG♯の音で頻出し、だいたいF♯からB♭の間で発生することが多いだろう。
 すべての音をなめらかに均等になるようコントロールすることが求められる近代的な演奏家にとって、勝手にうねってしまうヴォルフトーンは、常に頭痛の種である。ヴォルフは絶対悪であり、発生しないように様々な手段を用いて対処する。弦や表板にウルフキラーと呼ばれる器具を装着することや、駒を削ることなどがよく知られた方法だ。しかしそれらを行うことによって、楽器の響きは軽減され、全ての音がこもった感じになることも少なくない。共振しないように響きを抑えるわけだから、当然である。しかし多少響きを失ってでも、演奏家にとっては操作不可能な部分が残ることの方が脅威であるというのは、その「手術率」を見れば明らかである。
 しかし、ヴォルフトーンは、本当に絶対悪なのだろうか。
 コントラバスにとってヴォルフが発生しやすい(と私が体感する)音であるG♯/A♭やA♯/B♭の音は、鍵盤楽器の古典調律では歪みが出やすい和音を構成することが多い。調律にもよるが、CメジャーやFメジャー、Dメジャーは純正に響き、(それらが登場する)EメジャーやA♭メジャー、特にF♯メジャーなんていうのは非常に濁った和音になる。バッハのミサ曲ロ短調のキリエをはじめとしたロ短調の楽曲では、ドミナントであるF♯メジャーが濁っている(あるいは、うねっている)ことが、効果的に使用されているとも言えるだろう。コントラバスのヴォルフにも近いことが言えて、必ずしもヴォルフのないクリーンな音色がすれば良いのではなく、心が抉られるような和音のときに、自分でも忘れていたところでヴォルフが発生し、それがえもいわれぬような音色として発揮されることがある。非常に個人的な偏った考えだろうが、例えばRossiniのCelloとのデュオ曲では、A♯にヴォルフのある楽器で演奏すると和声感のある響きとなり、これは演奏家の意志によって達成することができない音色の変化である。私は、ヴォルフの持つこのような側面を捨象することが貧しいことではないかとさえ考える。
 私が抱く古楽器への興味も全く同じ構造である。先に述べた古典調律をされた鍵盤楽器は、作曲家や演奏家の意志とは無関係に、決して均等ではない音程感覚で演奏される。ハンドストップ奏法を用いることによって音階を演奏することが可能になったナチュラルホルンにおいて、どの音がハンドストップされる音(ホルンのベルに手を入れることによって音程を操作し、鼻を摘まれたような音や、キーンとした音になる)かというのは、演奏家の趣味によって決まることではなく、作曲家でさえ(それがソロ曲ならまだしもアンサンブルの中では)全ての音をハンドストップされるか否かという判断を持って作曲したわけではなかろう。それは人間の意識の外側で選択される音の「ひずみ」や「うねり」であり、そして聴衆はそのようなところにこそ、音楽的な痛みや苦しみを体験するのである。
 そもそも芸術音楽の役割は、聴く者に対して人知を超えた体験を与えることである。期待されたものを期待通りに提供するのは芸能であって、娯楽音楽の類である。人知を超えているのが芸術音楽であるから、人知によって——すなわち人間の意志だけで芸術音楽を作り出すことは不可能である。人間の意識の外側で発生するヴォルフは「誤配」であり、ネガにもポジにも、多くの可能性を孕んでいる。近代的な主体である演奏家にとって、「誤配」は脅威であり、殲滅対象だ。しかし、芸術において、それは必ずしも捨象されるべきものではないのではないだろうか。

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