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僕はいつどこで死ぬのだろう

僕の幼少期。それはよくいる子供だったんだと思う。
僕は小さい頃、記憶にあるのは保育園児の頃から枠に捉われないと言ったらかっこいいんだけども、ただただ協調性の低い子どもで、人が作った遊びよりも自分で遊びを作ったり、1人でヒーロー妄想をして楽しんでいた。宇宙のことを考え始めると自分のことがちっぽけに感じてきて、ふわふわとした感覚になって終わりなき悩みをグルグルと考え始めてしまう。そんなよくある幼少期を過ごした。

23年生きた現在。「死生観」についてふと考えた。

https://twitter.com/kutsuzawa_desu/status/1351128465496539138?s=21

先日、僕が密かに敬愛しているくつざわさんのツイートをみた。彼女はJOKERという映画に出てくるセリフ

「I hope my death makes more cents (sense) than my life.」-この人生以上に硬貨(高価)な死を望む-
と彼女の死生観「死して初めて意味を成す」という部分が重なったと綴ってた。

彼女が生きる理由、死が怖い理由は「未練を残して人生を終えること」「誰かを残し逝き、残した者を悲しませてしまうこと」の2点。

僕はくつざわさんのツイートを見て、死生観について考えてさせられている訳だが、ちょうどぼんやりと考えていたタイミングで、今ホットな漫画「BEASTARS」を1巻分読んで、さらに考えさせられた。この漫画は擬人化された草食動物と肉食動物が混合している高校生活を描いているお話しだが、冒頭で1匹の草食動物が肉食動物に襲われ食べられてしまうところから始まる。
その食べられた草食動物と仲の良かった肉食動物は言った「彼は無念だったと思います...やり残したことが...たくさんあって」

僕の死生観、死にたくない理由は「やりたいことがあるから。」「死ぬ時には小さな子どもや家族、友達からあいつは凄かった、おもしろいやつだった」と言われて息を引き取ること。

でも、常に死を意識して生きている訳ではない。
「死ぬこと以外はかすり傷」の気持ちで生きてはいるが、明日が来ると思っているから、夢をもって進んでいるし、3年以内にはあれしたい、こんな家族を持ちたい、70歳までにこれしたい...といった「未来」の話を想定している。
来年この世からいなくなっている「未来」は想定していない。

よくある話だが、もしも明日死ぬとしたら何をする?みたいな質問をして、毎日明日死ぬかもを想定して1日1日を大切にしなさい的なことを言う人がいるが、実に非現実的だと感じる。

1日を大切にすることは良いことだと思うが、毎日死を意識して生きていたら勉強といったインプットはしなくなるし、貯金等の貯める行為もしなくなるだろう。そうするともしも1年後生きていたら、生きづらくなるのは目に見えている。大きく羽ばたけなくなる。

僕は死ぬまでに「夢を語ることが良しとされ、大人が子をサポートする街を作ること」をする。
やりたいことはいっぱい。

だから日々、死を意識して1日を全力で生きるよりも、僕は明日あることを信じて日々を生きていく。1日のどこかに手を抜く時間があってもいいじゃん。

おらに元気をわけてくれぇぇぇ