コンテンツの質を左右する「心理的情報量」
コンテンツの質を考える尺度として「情報量」があります。
テキストより画像、画像より動画のほうが情報量が多いので、例えばレシピなどのハウツーなどは、テキストより動画のほうが伝わりやすい。
じゃあ、テキストは情報量が少ないから質が低いのか、といえばそうでもない。
なぜなら情報には、「物理的情報量」と「心理的情報量」があるからです。
例えば俳句や短歌。
俳句や短歌の「物理的な」情報量は、5・7・5の17音や、5・7・5・7・7の31音、そして文字列が指し示す「意味的情報」ですが、そこから人が受け取る「心理的な」情報量はもっと大きい。
カエルが古い池に飛び込んだという描写に静寂を感じたり、戦のあとの平原に広がる夏草という描写に自然の雄大さを感じたり。
書かれている情報が、心のなかでそれ以上の広がりを持つとき、人は驚きとともに感動するのではないでしょうか。
「心地よさ」も情報
心理的情報量は、俳句や短歌のような「情景」に限りません。例えば「音」や「リズム」。
歌手の中村佳穂さんが、Official髭男dismの「Pretender」の歌詞を評して、こんなことを書いていました。
サビの「君(の)運命(の)ヒト(は)僕じゃない」の助詞の(の)(の)(は)の順番が絶妙だと思ってて、これが(は)(の)(の)になったとすると「僕(は)君(の)運命(の)ヒトじゃない」となって意味は同じなのにメロディにはまらないんです(ぜひ歌ってみてください)。私は歌詞を書く時後者で絶対書いてしまいがちだからこの詩は凄い
出典:ナタリー
これ歌ってみると確かにメロディにハマらないんですよね。
きみのうんめいのひとはぼくじゃない
ぼくはきみのうんめいのひとじゃない
文字数もまったく同じなのに。言葉の並びが変わるだけで、「音」や「リズム」が変わり、メロディにハマらなくなる。
こういう言葉運びで変わる「音声情報」に「心地よさ」を感じるかどうかも、心理的情報量に関わりそうです。口に出して読みたくなるリズムって、妙に心地いいですものね。
意味の外にある情報が、心のなかで大きく広がっていく。「韻を踏む」行為も、テキスト情報以上の心地よさ(=心理的情報量)を狙って生まれたのかもしれません。
心理的情報の大きさが質を左右する説
テキストだろうが動画だろうが、物理的情報量以上に、受け取ることで広がる心理的情報が大きいほど、強く印象に残りやすいのでは?と最近思ってます。
圧縮された情報を持つコンテンツが、心の中で解凍され、容量が膨らんで存在感が増すイメージ。
「情景」や「耳ざわり」以外にも、「匂い」「感触」「味わい」「色気」などなど、物理的情報以上のものを意識すると、クリエイティブも少し変わるかもしれません。
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