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服を選ぶのが苦手な私が1着のコートを選ぶまで

「このあとどうしようか?」

昼過ぎの、少し客足が引いたバーガーキングで夫に質問が投げかけられる。

私はタルタルチキンバーガーを食べながら、この前親から「ずっと同じコートを着ているようだが、いい加減買い替えたらどうか」と指摘されていたことを思い出していた。

そのことを伝えると夫は「じゃあ時間もあることだし買いに行ってみようか」と提案してくれた。

だが前回、「何でもいい」と選ぶことを放棄したことで自分の中にある「好き」が分からなくなったという記事を書いた通り、私はその作業は苦手なものであった。

前回のnoteについては下記を参照してほしい。


特に「服を選ぶ」というのは更に苦手な部類である。

ただ、ファッションに興味がないと言えば嘘になるし、その時の私は「すみっコぐらし」の劇場版を観て大いに感動して気分が良かった時であったから、少し考えた後に「行ってみようか」と答えたのだった。


そして、私はショッピングモールという戦場に再び足を踏み入れる。

夫は元テナントリーシング(空いた土地にハマるいいお店を探して誘致する仕事)であるため、服の店についても知識が深かった。そのため私が気に入りそうな服屋を何軒かピックアップし、案内してくれた。

いくつかコートを手に取り、なんとなく羽織ってみる。

…よくわからない

これが自分にとって「好き」なものなのか?

首を捻っていると店員さんから「サイズや色違いのご希望ありましたら、お気軽にお申し付けください」と声を掛けられる。だが、まず自分はどんなものをご希望なのかが分からない。

相変わらず考えれば考えるほど、ドツボにハマるような気がするし、何より時間を取って一緒に店を廻ってくれている夫に申し訳ないという気持ちが膨らみ、ついには、どうせ大してファッションについて詳しくないのだから、適当にサイズの合うものを買えば良いのではないかという投げやりな思いが頭をよぎっていた。

だけど、それではこれまでの自分のままだ。

ここで思考を放棄するとまた自分は意見が何もない「空っぽ」の人間になってしまうような気がする。

それから私は覚悟を決めて、愚直に何着も羽織ってはピンとこない…という作業をどんどんと繰り返していった。

すると、少しずつだが、いくつかぼんやりと分かってきたことが出てきた。

以下、ファッションについての自分の気付きを箇条書きに並べていく。

「可愛らしい」モデルを広告に載せているブランドの服は全体的に小さい。

華奢な女の子をターゲットにした服作りになっているのだろうか。デザインはとても愛らしいものが多いが、自分のような肩幅が広めの人間が着ると若干着苦しさを感じる。そしてそもそも大きいサイズもあまりない。

当たり前なのかもしれないが、ターゲットにしている層のイメージに近い、あるいは憧れの存在をモデルとして起用しているのだ。それはデザインの好みだけでなく、体型、体格も。(もちろん本人が気に入れば何でも着たら良いと思うが、今回は「何を着たらいいか分からない人間」に向けて記事を書いているのでそこは御容赦いただきたい)

同じ型のものでも色で印象が変わる

普段、私は冬物は深い緑やネイビーなものをよく買っていたのだが、何着も色々なコートを着た自分を見ていくうちに、どうやらベージュやオレンジ系のもののほうが顔色が良く見えるということに気付いた。多分肌の色に起因するものだと思う(よくわからないがイエローベース、ブルーベースなど、肌の色にも種類があるらしい)が、それを何となく導き出すことができた。

シルエットでも人の印象は変わる

先ほどの色の話と似たようなものだが、同じ色合いのコートでもシルエットが違うと(今しがた「ライン」という表現があることを知った。大まかに服のシルエットの種類にはIライン、Yライン、Aライン、Xラインとあるそうなので気になる方は調べてみて欲しい。)同じ人間が着ているのに、体格が変わったのかと思うほどに印象が変わって見えるのだ。もしかするとこれは服を選ぶ事において常識の部類なのかもしれないが、とりあえずこれは義務教育にはなかった。


そこまで気付いたことをボンヤリと考えて、私ははた、と我に返り、ニコニコと上機嫌で付いて回っている夫に目を移した。

「…貴方は何軒も自分じゃない人間のための服選びに付き合って苦痛を感じないの?」

私がそう尋ねると、彼は「まあこれが女性用下着であれば苦痛に感じただろうけど」と前置きしたあと(女性用下着を夫と選ぶというのは夫どころか妻である私にも精神的にダメージを受けそうだなと思った)

「でも、選ぶのは楽しいよ」と答えた。


えらぶのはたのしい


それは日本語のはずなのだが、理解するのに時間がかかった。

そして、そもそも何故私は選ぶことを放棄して「何でもいい」と繰り返すようになったのかを思い出した。

といっても大した話ではない。

幼少期から買い物へ行きたい時に車を出すのは唯一免許を持っている父だったのだが、その父はとてつもなく気が短い。(地元広島の方言で「いらち」という)少しでも選択を迷おうものなら、いらちな父の機嫌は明かに悪くなっていて幼心にいつも怯えていた。そして私が成長してからはなるべく父のいない所で服を選んでいたが、面倒な事に私と母が2人で出掛けると「そうやって自分だけ除け者にする」といって、また機嫌が悪くなるのだ。(こうして文章にすると本当に面倒くさい)

そして母は母で私と趣味が合わない。

母は優しいので多少迷ったところで何も言わないが、趣味が私とズレているので私が何となく「これがいいな…」と思ったものに(本人は無自覚だと思うが)あからさまに難色を示すのだった。そして母が良いと思ったものをコレこそ似合うものだと娘に薦める。幼い頃は自分で買う財源も無いため、結果的に母の選択に誘導され、その何とも思わないものを買ってもらう。

そうした経験を繰り返すうちに服選びは「どれを選べば母が正解というのか」という事に趣旨が変わっていった。

そこに私の好みはない。

私にとって服を選ぶ事は「はやく終わらせなくては周りを不機嫌にするもの」であり「母の正解を探ること」であり、少なくとも「たのしいこと」ではなかった。

そして自分でお金を稼ぐようになった今でも、その概念は消えず、亡霊のように付き纏っていた。

これでは苦手にもなるだろう、と他人事のように思う。

ファッションに詳しいか否かに関係なく、自分の好みを遠まわしに否定されて、ゆっくりと考えることを悪とされていたのだから。

だが今回、目の前の夫は、私がある店で良い服が見つけられなかったとしても決して不機嫌にならずに次の候補へ案内してくれたし、どの服が良かったという感想を夫自身はほとんど言わずに私にどれが良いと思うのか根気強く聞き出してくれた。

正直、その行為だけで選ぶことへの苦しさは、半分くらい減っていた。


そして何軒も回った後、やっと「これは…?」と思うコートに幾つか出会う事ができた。

「これ…良いかもしれない」

そう私がおずおずと呟くと夫は「じゃあ、こういう型のものが他にないか、もう何軒か見て決めようか」と言った。

(まだ私が確信を持っていない事に気付かれているな…)

そう思いながら、もう何件かまわっていると1着のコートを見つけた。

それはコバルトブルーのダッフルコートだった。

普段なら絶対にこの色は選ばない。

よくわからないけどファッションに詳しい人間じゃないと、こういう色は着てはいけないんじゃないか…と思う位ハッキリとした色だ。

だが、私は敢えて着てみた。

「…意外と悪くない」

鏡に立つ自分は、結構悪くなかった。それどころか、ちょっと良い気もする。夫の方を見ると、うんうんと同意してくれた。

少し嬉しくなり、これにしようかと言いかけたが、違和感に気付く。

このコートは体にピッタリとフィットしている。ということは、これから寒くなって厚着をすれば、このコートは途端にキツく感じるのではないか?

店員の人にワンサイズ大きいものを聞くと、そこから上はネットでの販売しかしていないという。

試着して決められないというのならば、ちょっとやめた方がいいかもしれないし、そもそもこのコートは秋の今の季節のもので、私が探している冬のコートではないらしい。

「どうしようか?」と夫は聞いた。

ふむ、と私は考えたあとに

「あの店にもう1度寄ってみていいかな」と聞いた。


実は私はもう1着気になっていた。

それはメンズのコートだった。

生地は厚いが柔らかくて動きやすいしメンズだからSサイズでもゆとりがある。Iラインのシルエットだから大きめでもスッキリとした印象がある。そしてなんといっても私が良いなと思った色、オレンジがあったのだ。

ただ、これはメンズだから、と何となく選ばなかったのだが勇気を持って羽織るとそんな事は全然気にはならなかった。

店員さんも「女性の方もたまに購入されますから、お気になさらなくても良いと思いますよ。」と言ってくれた。

「どう?」夫が尋ねる。


「…これにしよう」


かくして、私はやっとコートの購入が出来たのだった。(ちなみにここまでの文章で3602文字だ。よく分からないが、1着の服を買う描写にしては長い気もする。)


たかが、コートの1着を選んだ話である。


だけれども、私がこの人生の中で初めてと言っていいほど自分の意見をしっかりと持ち、その中で納得いく服を選んだ瞬間と言っても過言ではない。

選べなかったのは、単に色々と見比べてみるという作業を疎かにしていたからだし、それをしなかったのは、選ぶ事を楽しいと思えなかった理由があったからだ。だからといって別に親を憎むなんてことはない(ある意味、「選ばない」という選択をしたのは自分な訳だから。)だが、少し知らないうちに着けられていた枷が外れたような気分だ。


とかなんとか、もっともらしいことを書いているけれど、単純に良いコートが手に入って嬉しかったし、今私のクローゼットにはお気に入りのコートがあるという事実はとても幸せなことだ。


たかが1着のコート

だけど

それだけで、人は幸せになれる。



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