未実装センチメンタル
「夏祭りに行こう」と、小百合が突拍子のないことを言う。
あたしはベッドの上、つるりして心地よい掛け布団から半分だけ顔を出し、足元のほうにちょこんと腰かけた小百合を見やる。ニコニコ笑ってる。朝から元気だね。
「まだ春だよ」
外はしとしと雨、つつじ咲き乱れ落ちて五月末だ。ゴールデンウィークあたりになれば早々に夏の気配を感じ取れる昨今とはいえ。
「季節なんて待ち侘びているうちが花だもん」
そっか、と妙な理屈に納得しかけたところで、そういえばこれを言っているのが小百合であることの意味を、寝ぼけた頭で遅ればせながら理解する。確かに、それならば。
小百合は二か月前から、ときたまあたしの部屋を唐突に訪れるようになった。元々、人間びっくり箱というか、いつでも周りが予期せぬ行動ばかり起こす素っ頓狂な人間ではあり、突拍子のないことばかり言うのはいつものことなのだけど。
この子にはもう、夏は来ないのだ。そう思うと無理な願いも叶えてやりたくなる。
「……行こうか、夏祭り」
あんまり喜ばれても癪なので、わざと布団をかぶってぼそぼそ言えば、
「うん!」
元気なお返事が返ってくる。ベッドのスプリングが軋んで、満面の笑みで大きく頷く動作まで瞼の裏に浮かぶ。
〇
幸い今日は土曜日だったので、ゆっくり夏祭りについて考えてみる。小百合にとっては学校をサボろうがなんだろうが関係ないのかもしれないが、あたしは平日をこなして人生を続けていかねばならない。
「夏祭りといえば、やっぱり浴衣だよね~」
土曜日なのにセーラー服のまま、紺色のソックスに包まれた脚をばたばたさせる小百合はのんきなものだ。そういえば浴衣なんて何年も着ていない。なんなら、親に着せてもらっていた小学生時代以来……いや、中学生のときにやたらピンクの、きらきらしたのを強請って買ってもらったような。これは若干の黒歴史。
「浴衣着るなら、どんなのがいい?」
「うんと夏っぽいの。朝顔とか、花火とか!」
想像しただけで可愛いと思う。少なくともきらきらのピンクより、断然センスがいい。いつもおろしたままの髪の毛を結い上げてうなじが涼しく、帯に適当なうちわを突き刺して背筋がぴんとする感覚が懐かしく蘇る。最初はちょこまかと狭い歩幅で、心なしかお上品に歩いていたのに、人ごみでもみくちゃになって多少着崩れた帰り道は、いつも通りの大股で。
「小百合は帯、自分で結べる?」
「えーできない。そういうのって、やってもらうんじゃないの」
「いや、浴衣だったらそんなに難しくないはず」
さっそくYouTubeで『浴衣の着方』を検索してみれば、ひとりでもできるって動画がいっぱい出てくる。適当なものを二倍速で再生してみる。
「たしかに、できそうかも」
「でも左右とかわかんなくなりそう」
帯を右から上に重ねてどうたらこうたら、を見てあたしは既にこんがらがっている。人にやってあげる分には、なんとかなりそう。ふたりで協力すれば、あるいは。
「最初、どっちの襟が上か間違えちゃったら、死に装束になっちゃうもんね」
小百合はケラケラ声をあげて笑うけど、笑えないギャグだ。小百合に言われちゃ。
動画の中の早送りの人たちは着付けが終わったみたいで、明るい空色の地に大輪のひまわりが咲く浴衣に、サーモンピンクっぽい帯と赤い鼻緒が華やかだ。洋服だったら派手な気がする色とか柄でも、和服だったらアリな気がするから不思議。
「これ、小百合に似合いそう」
「ほんと? うれしい」
スマホの小さな画面を一緒にのぞき込んでいたから、いつでもいたずらっぽい瞳を細めて、薄い唇はきゅっと口角をあげて、微笑む表情が間近に迫る。あたしは引っ込み思案で友だちも少ないから誰ともこんなに近くで笑い合ったことなんてなくて、それでも小百合なら嫌じゃない、と思う。
「花音は、ストライプとか大人っぽいやつが似合いそうだね」
不意に名前を呼ばれると、意識してしまう。鼓動が少し早くなる。今さら遅いよね、ごめんね。
〇
「りんご飴は絶対たべたい」
「あたしは焼きそば」
ぺろぺろとなぶって少し遠いような飴の味を感じるのも、たまらずガリリと歯を立てるのもいいけれど、どちらかといえば茶色いソースがよく焼けて濃い味の麺をもそもそ食べたい。紅しょうがはもちろん必要、黒いクラゲも入っていたらいい。
「あとね、フランクフルトと唐揚げ!」
「それはない、コンビニのと変わんない。せめて牛串」
「じゃあそれも全部食べよ?」
どれもこれもお祭り価格で六百円も取られて、特別美味しいわけじゃないのに楽しいからいいか、と思う。せっかくの浴衣を汚さないように、少し前のめりで串を食むお行儀の悪い様子が目に浮かぶ。あれもこれも、と思い付きで両手をいっぱいにしてしまった欲張りな小百合をあたしは笑って、手を貸してあげる代わりに一口ずつ貰うのだ。
「しょっぱいものばっかりで喉乾くよ」
「そしたらかき氷食べればいいの」
小百合にしては、ナイスアイデア。今どきのやたら大きくて派手なやつじゃなくて、ストローの先っぽを切り開いてスプーンにしたのが刺さってる、大急ぎで削りまくるだけのガリガリ氷。どれも同じような味がする、やけに鮮やかなシロップを真剣に選んで、でもそれは味じゃなくて色を選んでいるってわかってるからいいの。
「小百合は、ブルーハワイでしょ」
「……なんで当てるの」
どうせ口の中を真っ青にして、べぇっと見せつけてくる。粒立った舌の表面の、ほんらいのピンク色が青色の色素に染まって緑がかった怪しげな色になっているのを。ゾンビ映画に出てくるゾンビも、あれは腐っているんじゃなくてブルーハワイのプールに入っただけなのかもしれない。なんだかベトベトしてるし。
食べ物の話をしておなかがすいたのか、小百合が眉尻を下げて、あーあとため息をつく。
「なんかさ、アイスは冬でも食べられるけど、かき氷は夏しか無理だよね」
「あ、わかる」
夏だって、かき氷を食べたあとはふるりと鳥肌が立つし温かいお茶が飲みたくなる。氷って本当は食べるようなもんじゃないんだなって思う。あれは暑さゆえのお遊び。
あたしは、快適な室温の中、ややしっとりとしてぬるい自分の頬に手を当てる。身体が体温を一定に保ってくれていて、それが生きているということだ。
「暑すぎても死ぬし寒すぎても死ぬ」
「私達って、弱いね」
困ったように笑う小百合に、ああなんで死ぬとか言っちゃったんだろうと後悔する。もっと相手のこととか考えて喋れたら、もっと友達とかいただろうから、あたしはそういう人間だ。それでも今までは誰のことも大して気にせず、お気楽でよかった。
ほんとうは、小百合がこの部屋にいないときでも、あたしはあなたのことで頭がいっぱい。深入りするとはこういうことで、自分以外のことで気もそぞろになるというのは初めてかもしれない。それでもこの感情はまだ、不確定でぐらぐら揺れる。
〇
アニメキャラのお面とか、カラフルなヨーヨーにスーパーボール。お祭りが終わった瞬間に魔法が解けてがらくたになるものをきっと、小百合は全部欲しがるだろう。暗い夜道で今を限りとやたら輝くそれらを、あたしは心底切なく眺めるかもしれない。
「射的もしたいな、バーンって」
人差し指と親指で、銃のポーズをする小百合の、にひひと意地悪な笑顔。引き金を引くまでもなく、いつからかとっくに撃ち抜かれているあたしの心臓。こんなにも鮮血がとくとくと流れ出ているのに。
「金魚すくい、やったことないな」
「え、花音のおうちってペット禁止なの?」
「そういうわけじゃないけど、なんか苦手で」
赤のイメージから連想して、思い出す。屋台のライトの下、ひらひら泳ぐ金魚は目を惹く。小さなころはただ素直に、きれいなものが欲しかった。あの三角のビニールに入れて、小さな赤色を得意げに持ち歩く同級生たちが羨ましかった。
あたしもやりたい、と言うと、ちゃんとお世話できるの? 生きてるんだよ? と言われてこわくなった。生きているものをあんな風にゲームにして売って、アクセサリーみたいに持ち歩く人たちがとても残酷に見えた。
「きれいだからって人間の都合で、あんな風に扱って、それでも死んだら悲しんだりとか。意味わかんないなって思っちゃって」
我ながら極端な思考回路だ。きっと同級生たちはちゃんと水槽を買ってもらって、毎日せっせと餌をやって、子どもが産まれたら喜んだり、死んでしまったらお墓を作ったりして命の大切さとか学んでる。あたしはどうしてこんなに、ひねくれているのだろう。
「じゃあさ、金魚じゃなくてお花とか浮かべたら可愛いんじゃない?」
「……お花すくいってこと?」
「そうそう。とったお花を金魚すくいのビニールに差して持って帰ったら可愛いし。おうちの花瓶に飾れるよ」
想像したら、素敵だ。生き物だとうしろめたいのに、植物だったら平気な自分の感性も笑えるし、枯れてしまったお花を見て、もしかしてほどよく泣いたりできるかも。
「どんなお花がいいかな、水に浮かべるなら紫陽花とか」
「あたし紫陽花、好き」
生命力に満ち溢れて堂々とした夏の植物は、人間なんかより圧倒的に強そうだし、大きくこうべを垂れて枯れていく姿は迫力があれど、もの悲しい。小さなお花が寄り添い合って、ほんのり色づいたまま、夏の日差しに干からびても案外咲き続けている紫陽花くらいがちょうどいい。
窓の外からざぁざぁと、強まった雨の音。いつの間にか半開きになったカーテン。凹凸のあるガラス越しに、ぼんやりと色彩だけになった景色を眺めているうちに小百合は部屋から消えていた。
もうすぐ梅雨が来る。それから夏になって、ほんの少しの秋がそのまま冬になり、人々はコートにくるまれながら春を待つ。
でも、あたしたちどこにも行けないね。小百合はもうとっくに逝ってしまった。
あたしは五日間の仕事に疲れ切った土曜日の午前中、心地よい布団の中で丸まって、うつらうつらとお祭りの夢を見る。女子高生だったあたしたちが、手を取って特別な夜の町へ駆け出せたらどんなに良かっただろう。
春は必ず来るわけじゃない。花は必ず咲くわけじゃない。
悲しくてもそれが現実で、そういうことを理解するのが大人になることだと思っていたのに、大人になればなるほど、自分の気持ちや人生が報われるって無邪気という言葉では装飾できないほどグロテスクに信じ切ってしまう人もいる。それをみんな、幸せと呼んだりしている気がする。泣きたい。
〇
「やっぱり、おなかすいた」
ひとりごちても小百合は帰ってこない。冷蔵庫を開いても、使いさしの調味料たちと貰い物のビールくらいしかなくて、あたしはウーバーイーツのアプリを開く。
昼からビールを飲んでしまいたくて、お寿司でも食べようかと見てみても、三人前とか四人前とかばかりでムカつく。ひとりで食べてやろうかとも思ったけれど、海鮮丼という選択肢があることに気づいてこれにする。一番いいやつ、特選海鮮丼にしよう。
ようやくベッドから起き出して、水でばしゃばしゃ顔を洗い、パジャマを脱ぎ捨てる。こんな雨の中、どこにも出かける予定なんてなくて、結局違うパジャマを着る羽目になる。
海鮮丼を待ちながら、テレビでもつけようかと思って、テレビ台に飾られた一輪挿しと白い花に情緒を持っていかれてしまう。お葬式のにおいがする、私の苦手な大きな花弁。隣に写真立てでもあれば恰好がつくけれど、勝手に飾れるような写真なんて持っていない。だから仕方なく、みじめに、百合の花でも飾るしかないのだ。
あたしと小百合はただ、それくらいの関係で、つまり素っ頓狂な彼女と二人でどこかに行けたら楽しいだろうなあと夢想しながら眺めているだけの三年間だった。
二か月前、小百合が死んだらしいと、かろうじて繋がっていた高校時代の友人のSNSで知った。たったの二十五歳で、焼かれて骨になったらしい。あたしの知らないところで。
高校を卒業してしまってから、なんの繋がりもなかったのに。成人式のときの同窓会でちらりと見かけたり、インスタで誰かのストーリーに出てきたりしたときに、疼くような胸の内を隠すことはあったけれど。髪の色や服装やメイクが変わっても、突拍子もないことをして周りを笑わせて、くるくるといろんな笑顔を見せる小百合のことを、この世の誰よりも好ましく思うことはあったけれど。
思い出すのはとうに昔の、何度も何度も再生して、擦り切れてしまった場面ばかり。
「花音って名前、可愛いよね」
「え、そう?」
「うん、なんか語尾に音符がついてて、ウキウキした感じ」
移動教室で、適当に座ったら隣に小百合が来て、全然先生が来なくて適当に雑談をしていた。きっと、机の上に置いてあったキャンパスノートに、油性のマッキーで書かれたあたしの名前を見て、なんとなくそんなことを言い出したのだろう。
「小百合ってなんかおしとやか~って感じで、私に似合わなくない?」
自分のノートを指さして、小百合は言う。それも嫌そうな感じではなくて、思い付きで言っているだけなんだろうなと感じながら、あたしは会話がヘタクソで、
「いい名前だと思うけど。大人っぽくて、かっこいい」
とか言ってしまう。
「たしかに、三十歳くらいのお姉さんになったら、めっっちゃ似合うかもしれない」
「小百合は大人になっても、おしとやか系にはなれないでしょ!」
向かいに座っていた他の同級生が突っ込みを入れてくる。みんなでげらげら笑う。あの頃はそれくらいのことでいつも楽しかった。その中心にはいつも小百合がいた。
「あーウケる。じゃあさ、花音と小百合、名前交換しよっか」
小百合があたしの目を見て、突拍子もないことを言う。花音ちゃんって大人っぽいし、そっちのほうが似合うわ~なんてガヤが入って、でもあたしは小百合から目を離せない。
「私の名前、あげる。だから、ちょうだい」
にこぉっと目を線にして微笑むから、あたしはやっと視線を逃れる。そのあと自分がなんて言ったのか、結局なんの授業だったのか、なんにも覚えていない。
小百合は結局三十歳になれなかったし、名前くらい、いくらでもあげたのに。でもやっぱり小百合は小百合だ。あたしには名前なんていらないから、両方持ってていいよ。
そんなことを今更思うくらい特別だったのに、クラスメイト以上の親しさにはなれなかった。誰にだって人生があって、小百合だって悩んだり泣いたりしただろう。あたしは結局、小百合の笑った顔くらいしか知らない。悲しむ資格なんかない。ううん、資格とかそういうんじゃないのはわかってる。
あたしは本当にひねくれもので、金魚すくいもできないし、勝手になにかと密接になっておいて、当たり前に永遠ではないそれが失われて心底悲しそうにするのは、その悲壮さが「あまりにも」に様子だと、そんなの自作自演なのにと思ってしまう。小百合の死を、SNSで悲劇のように書いている彼女と比較的親しかった同級生たちのアカウントを覗き見ては、嫌な気持ちになる。
ピンポンが鳴って、あたしの特選海鮮丼が届いた。ビニール袋をくしゃくしゃと剥いで、まだちゃんとあたたかいご飯の上に、別容器に入ったお刺身を盛り付ける。全然メニューの写真と違うけど、お醤油にワサビを溶いて回しかけ、白いホタテを汚してしまえばもうどうでもいい。
いただきます、と手を合わせる。あたしはご飯食べて元気に生きてる、生きていくしかない。だからこんなのは、未実装のセンチメンタルでしかない。
〇
特選って書いてあったくせに安物のマグロは筋がキツくて、グミみたいにずっと噛んでいる。こんなの詐欺だ。冷えたビールののど越しだけが美味しくて、ぷはぁと息を吐く。
小百合は生魚が苦手だった、今はもうなにも食べられないけど。
「あ、花火も見たいな。でも夏祭りと花火大会って、別物か」
と、天井からひょっこり顔を出す幽霊。まだその話終わってなかったの?
「海も見たい。山もいいけど私は海派」
「魚嫌いなくせに」
「とっくに克服したけどね、それ。花音は昔のこと、ほんとよく覚えてる」
ベッドの上でお行儀悪く海鮮丼をかっこんでいるあたしの目の前まで下りてきて、びしっと指を差す。にやにやと、また意地の悪い笑顔。生きてるあたしよりよっぽど表情豊かな小百合の言っていることは、本当? あるいは全部妄想? ビールをぐびびと飲み干せば、脳みそがふんわり軽くなる。現実から遠く離れて、あたしは今どこにいる?
普段昼からお酒なんて飲まないから、少しくらくらして、またベッドに寝転がる。ねえ、小百合が言ってたことくらい、全部覚えてるよ。当たり前じゃん。あなたがセーラー服を脱ぎ捨てて、教室の片隅にいた地味なクラスメイトのことなんてさらっと忘れて、泣いたり笑ったり――できれば笑っているほうが多かったらいいけど――して、そして勝手に死んでしまった間、忘れられなかったよ。
「あたしばっかり、バカみたい」
「なにが」
「返事しないでよ」
「するよ」
「死んでるくせに」
「……」
静かになって、あたしは目を閉じる。おなかがいっぱいで心地よい。このまま寝れる。まじでしょーもない土曜日だ。起きたら風呂に入って、雨が止んでたら買い物に行こう。
パキッ! と大きな音がしてびくりと跳ね起きる。飲み終わって置いておいたビールの缶が凹んでいる。
「ねえ、そういうことされると本当に幽霊みたいだからやめ――」
「さっきから何考えてんのか知らないけど、地縛霊って心残りのあるところに出るんだよ」と、小百合がまた、突拍子もないことを言う。あたしは……。
あたしは、少しだけ赤くなった頬をアルコールのせいにした。
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