見出し画像

文章を書かないと死ぬ

私は文章を書いている。こんな風に。インタビュー記事も書くしエッセイも書くし小説も書くし企画書も書くし詩も書くしレポートも書く。そのすべてが誰かにちゃんと読んでもらえるなんてことは絶対にない。だって私には別にファンがいないから。その人自身が好きならその人が書いた文章を読みたいという需要があるし、その人の文章に読む価値があると評価されればまた需要はある。私は魅力的な人間ではないし、社会的に評価されるような面白いあるいは素晴らしい文章なんて書けない。私自身とか私の文章が熱烈に好きなんて人はいない。それでも大学では誰かが文章を読んでくれるような場が多くあったりするから素敵だしうれしいという話は1度置いておいて。結局だから私なんかの文章にはなんの意味もない。じゃあなんで書いてるんだろう。自己満足のため?承認欲求のため?どっちも合っているような気も違うような気もする。私が文章を書くのは人生を肯定するためだ。生きててよかったなんて心の底から思ったことなくて人間関係ってものがすごく苦手で家族ともなんだかギクシャクしちゃった私はすぐ人生に否定的になってしまう。好きなこととかやってて楽しいことは幸いたくさんあるので人生の時間でそれをひたすらできるならいいし、いつでもなんでも楽しむというモットーは実践できていて強がりじゃなく実際楽しい。けどやっぱりずっとずっと幸せな気分でいられるかというとそうじゃないときもあって、私はそんなときに頼っていい人がいなくて淋しいし逆に言えば誰にも本当の意味で存在を必要とはされていないのだからウィンウィンで人生終了したいと思ってしまうこともあって、泣いたりする。さて文章を書くとき、そこには全部が出ると思っている。その人の、全部が。言葉というのはもう既にあって文章というのはその無限の組み合わせだ。ちょっとしたことを同じように書いても全く同じにはならない。文体もそうだし句読点の位置とかひらがな片仮名漢字の使い方とかもそうだし。無限の組み合わせから生まれる無限の文章のうちのひとつひとつは絶対に唯一無二だ。あなたにしか書けないし、私にしか書けないものがある。それに価値があるかないかは関係なく確率的な意味で。その言葉をどこで覚えてどうしてここでこう書いたのかとかルーツは探りきれないほどあって、つまりそれがその人の今までの人生だ。文字づかい言葉づかい文体は趣味や知識って感じがするけど、文章には思ったことを書くわけだから当然その人の経験と感情と思考もそこにある。泣いたときの気持ちも、不幸な経験も、恥ずかしい黒歴史も書いてしまえば文章というひとつの形になる。何か1つのことに一生懸命取り組むより色々かじりたいけどその色々も片寄っていてあんまり役に立たないような私のやり方だとしても、文章にしてしまうときには問題なく役に立つ。そうして人生の全部を使って文章は作られる。文章はその人の全肯定だ。私が文章が好きだからそう思うのだとしても、私にとっては全肯定である。とすると文章を褒められるのはそりゃあ嬉しいし、私自身でも文章にでもファンがついて読んでくれたら最高だなと夢見ることもあるけど……。そのために強くて優しい人間になりたいし、もっと素敵な文章が書けるように努力したらいいのかな。私は先述した通りなんでも楽しめばいいと思っているので努力とか嫌いだけど楽しみながら知らないうちに努力ができればいいのかもね。こんなところで毎日どうでもいい文章を打つことも、書けば書くほど少しは進歩するならいつか努力と呼べるのかもしれない。今日21歳になりました。おめでとうという言葉をたくさんもらって、生きなければいけないから文章を書きます、今年も。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?