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花畑に棲む

女の子って、お月さまみたい。満ちたり欠けたり、ひとときもその形を保たない。だから可愛くて、狂おしくて、糸惜しくて、意地らしくて、刹那くて、ぎゅっと抱きしめたくなる。
もちろん、それは人間の女の子だけじゃなくて……。

はじまりは新月の夜。
あたしは、大事なものだけぎゅうと詰め込んだ、はち切れそうなリュックを背負って、下唇を噛みしめていた。なんだか変梃に歪んだ、ぼろぼろの小屋の目の前で。
すぅと息を吸い込んで、そっと扉を叩く。コツ、コツ、コツ。あたりにはひとつの灯りもなくて、すべてが闇に沈んでいる。ぼろ小屋から漏れるかすかな光も、窓からたった二センチのところで力不足と途切れ、真っ暗の中でひとり。あたしはノックの応答を待つ。
……ええと、もう一度、叩いた方がいいかしら?
さっきよりほんの少し力強く拳を握り、顔の高さに掲げた瞬間、その声は聞こえた。
「合言葉は?」
地の底から這いあがってきたような深いアルトのガラガラ声に、あたしはほっと胸をなでおろした。よかった。扉の隙間に顔を近づけて、ささやく。
「合言葉は、『人間お断り』」
扉の向こうでクツクツと笑い声。それからもう一度ガラガラ声が低く響く。
「質問をふたつ――」
突風が吹いて、闇に紛れた植物たちが一斉に揺れる、音がする。そのざわめきはぎょっとするほど大きい。ここは広い広い原っぱの真ん中。それも、ただの原っぱじゃない。あたしはぶわりと広がるスカートを抑えながら質問を待った。
「ひとつめ、『美しき花たちは?』」
「『美しき者のために』」
「ふたつめ」
軋みながら扉がほんの少しだけ開き、黄色い瞳がぎょろりとあたしを見た。さっきまでのガラガラ声とは違う、唸るような声が云う。
「『それならあなたは一体何者?』」
黄色い目をまっすぐに見つめ返して、もう一度大きく息を吸い込む。ここら一体に漂い続けている、噎せ返るような花の香りを全身に沁みわたらせるように。五月の一番暗い夜、この広大すぎるお花畑は、生き物たちの目がないのをいいことに、ものすごい早さで咲き乱れはじめているのだ、きっと。強く甘い香りに少しめまいがして、目を閉じる。脳みその震えが収まるのを待って、あたしは最後の質問に答えた。
「あたしは『魔法少女』よ」
ガラガラ声と唸り声、それからもう一人分の新しい声が短い時間、クツクツコソコソヒソヒソと楽しげに弾み、やがて音を立てて扉が開いた。

「おはよう、チェリ。よく眠れた?」
朝からにこやかなのはフィフィだ。銀色の髪の毛を顎から耳のラインと一直線になる位置に完璧に結い上げて、ピンク色のサテンリボンをつけている。ギンガムチェックのエプロンもお揃いのピンク色。その下に纏ったワンピースも砂糖菓子のような淡いピンク色で、透き通る白肌によく似合う。
「ええ、ぐっすり」
「それはよかった」
フィフィの鈴のような声は今日もるんるんと跳びはねるよう。あたしに向ける笑顔には、小さな牙がきらりと光ってる。澄んだ赤い瞳を細めたかと思うと、そのままキッチンへ行ってしまった。元気だなあ。
あたしはとりあえずダイニングに向かうと、先客がひとりテーブルに突っ伏している。フィフィとは対照的に元気じゃなさそうなその後頭部に声をかける。
「メイサ、おはよう」
「う~ぅん」
唸るようなワイルドな声が一層ひどいダミ声だ。机に散らばるふわふわ、というより今はごわごわの栗色の髪の毛がもぞりと動き、そのまま止まった。昨日の夜と同じ、派手な紫と緑のカーディガンを着ているところから見るに。
「また飲み過ぎたの?」
「そう……」
恨めしそうにこちらを見あげるのは黄色い瞳。髪の毛と同じ栗色のまつげがばさばさと濃密にその瞳を縁取っている。そんな目をされても、あたしじゃどうしようもない。リカに云って薬を作って貰わないと。
「ここにもだいぶ慣れたみたいね」
「リカ! おはよう」
思い浮かべたその瞬間にどこからともなく現れたのは、一見純情乙女のヴァージンヘアほどにどす黒い赤髪を縦ロールで揺らして微笑む、リカ。今日も真っ黒なフリルのブラウスをきっちり着込んで、エメラルドにサファイヤ、見たこともない大きさのダイヤモンドなんかを胸元にごろごろ転がしている。
「あの、メイサがこの通り二日酔いで。お薬が欲しいのだけど」
「リカ……たのむ…………」
あまりにも弱々しいメイサの声にニヤリとして、緑の丸い瞳があたしに軽くウインクを放つ。四捨五入したら三百歳とは思えない可憐さ。魔法のように……じゃなかった、魔法で小瓶をどこからともなく取り出すと、メイサの頭が突っ伏すテーブルに、コツンと置いた。
「お飲みなさい、三秒で良くなるわ」
艶めいたアルトのガラガラ声だけが、彼女の長い人生経験を分かりやすく示している。それ以外の部分は本当に、若々しい魔女だ。
「ありがと……、う~ん、生き返る!」
薬を大胆に飲み干すメイサの大きな口には、吸血鬼であるフィフィの細い牙とは違う、ギザギザの肉食獣の歯が見える。満月の夜に人間の肉を食いちぎるためのそれは仕舞われて、口角が上がるとへこむえくぼが愛しい。
「みんな、朝ごはんできたわよう」
フィフィの合図であたしたちはがやがやとテーブルを整え、それぞれの席に着く。あたしの席は、大きなテディベアが占拠していた余りの椅子をひとつ分けてもらったもの。見回すと、リカだけじゃない、みんな本当に少女のように軽やかで、自由で……。
「チェリ、食べないの?」
「あ、えっと、ううん! いただきます」
ピンク色が大好きな吸血鬼と、ちょいワルに憧れる狼女、いつまでも歳をとらない魔女、それから今は、さすらいの魔法少女であるあたし。ちぐはぐで可笑しなテーブルに見える? それとも――お洒落が大好きな仲良しガールズの、可愛いシェアハウスに見えているかしら? 後者であったら、あたしは嬉しい。
行かなきゃいけない場所があって、準備も必要で、次の満月まで少しだけ泊めてくれませんかとお願いしたあたしを、彼女らは快く受け入れてくれた。外から見るとぼろ小屋だけど、リカの魔法のおかげなのかちゃあんと広くて心地よく、ちょっとお洋服やアクセサリーで溢れてはいるものの、とっても素敵なこの場所で、三回目の朝食だ。
ふらつきながら立ち上がったメイサが窓を開け、濃密な花の香りが吹き込む。フィフィお手製のミートパンケーキは、塩味が効いていて美味しい。ここに来られてよかったなあって、ちょっと涙が出そうになって乱暴に食卓のバナナを毟る。
満月まで、あと十二日。

「この場所にとって、五月は最も素敵な季節よ」
柔らかくも熱い日差しがさんさんと頭頂を温める正午。くらくらするほど甘い空気にやられてしまわないよう、あたしは薄く息を吸いながら歩いている。隣には胸いっぱいに息を吸い込むフィフィ。吸血鬼の嗅覚ってどうなってるの?
「リカやメイサは、五月は匂いがキツい、なんて云うけど……」
考えていたことを見抜かれたように感じて、どきりとフィフィを伺うと、
「それってあんまりロマンティックじゃないわ。それにしてもあなたの髪の毛の色って本当に素敵」
ぽん、と優しく頭に触れる感触。すらりと細い指が楽しげに弾む。あたしの頬は少し火照り、おさげにしたピンク色の髪の毛が辺りの花々と同じようにざわざわ揺れる。
「フィフィはピンクが好きね」
「大好き! 甘やかなピンク色、たっぷりドレープをとったドレス、やがて香水の瓶に閉じ込められるための満開のお花畑――、そういうものを愛してるの」
「え、香水になるの?」
ちょうど花畑の真ん中くらいに辿り着いたあたしたちは、ぐるうりと辺りを見渡した。今を春べと、白や淡い紫、濃いピンクに黄色の花々がどれもこれも強い香りを放ちながら咲き乱れている。花の名前には詳しくなくて、フィフィのワンピースに咲くチューリップしか分からないのだけど。
「そうよ、ここは香水づくりのために人間が作ったお花畑。自分たちで作ったくせに、こんな強い香りは人間には毒だからって、逃げ出したの。わたしたちが住むにはとってもいい場所」
フィフィがゆったりと歩を進めるたび、ひらりひらりとチューリップが揺れる。銀色の髪の毛は昼間の黄色い太陽に当たって、真っ白に見えている。花畑の奥に踏み込むにつれて、香りと呼ぶにはもう強すぎる、どこか薬のような匂いに全身を覆われて、あたしは犬のように浅く息をするので精一杯。
「それに、花の世話をしたり収穫したりするから定期的に人間が訪れてくれるなんて、血を吸うには絶好のスポットよねえ」
うっとりと語る彼女の牙が煌めいて、目が眩む。色とりどりの花に囲まれたフィフィが、人間の喉頸に噛みつく姿が脳裏にくっきり映った。嘘のようなパステルカラーの風景に、一筋の紅い血が流れている。ぐったりと地に伏し、血色を失ってフィフィと同じくらい青白い肌になったその人間の顔は。
「ねえチェリは、どうしてここに来たの?」
尋ねられて、我に返る。酸素が足りず、ぜいぜいしながら口を開く。
「あたしの、元いた場所はここの風下に、あってね、小さなころから、微かな甘い香りと共に、花畑の噂を聞いて育った」
にっこり、フィフィを見上げた笑顔は眩しさに目が細まって、きっといつもよりずっと上手な笑顔になった。
「だからいつかここに来てみたかったのよ。夢だったの」
満月まで、あと十日。

荷物を置かせてもらっている二階の小部屋から、準備をして下に降りて行くと、さすがに慣れはじめた花の香りとはまた違う、異様な匂いが漂っていた。
見回すと、ダイニングテーブルで満足げに両の手を広げるメイサ。どろりとした色鮮やかな液体が閉じ込められた小瓶がいくつか転がり、メイサの尖った爪が瓶の中身と同じ色に染まってぬらぬらと光っている。なんだ、マニュキアの匂いか。
「あー、最高。綺麗に爪が塗れたから、もう狩りも家事もしないで、飢えてもいい」
メイサは嬉しそうに、自分の爪先をじっくり点検しはじめる。耳の上でふたつに結んだ栗毛がもしゃもしゃとその笑顔を縁取って、蛍光オレンジの肩があいたTシャツが今日もド派手だ。
「メイサ、あたし出かけてくるね」
「おーう、了解。仕事か?」
大きな荷物を抱え直してこくりと頷けば、メイサはひらひらと手を振ってくれた。
「いってらっしゃい、気をつけてな」
軋む扉を開いて、午後の花畑に繰り出す。一番近い木立に向かって、ちびちびと歩を進めながら、今日の朝びゅうんと二階の窓から飛び立ったリカの姿を思い出した。いいなあ、箒に乗って空を飛べたら。小さな足でぺたぺた進むには、この花畑は果てしなく広い。
まあ、あたしは魔女じゃないから仕方ないか、と溜め息。あたしは、魔法少女なのだから、とまた溜め息。
手提げで持ってきた荷物が随分てのひらに食い込んだ頃、まばらな木に囲まれた広場のようなところに辿り着いた。なかなかいい雰囲気! ぱらりと荷物を解けば、赤と白と水色、シャンパンゴールドを基調としたお洋服及び小物たちが転がり出る。
「ようし、変身よ」
誰も聞いていないけど、気合を入れるためにちゃんと口に出して、しばし。
「変身完了! えーと、未だ愛を知らぬ孤高の戦士。自分のことは自分で救うのよ。満月まであと七日……」
そうだ、決めポーズ。左手はコルセットのようにリボンが編みあがった腰に当て、右手でハートのステッキを斜め前方向に掲げる。チューリップをさかさまにしたみたいな形のミニスカートから伸びる厚底ブーツの左足で地面をしっかり踏みしめて、右足はきゅるんと跳ね上げる。高く結ったツインテールが揺れ、ティアラがきらりと光った。
「満月まであと七日。最盛の花畑にあたし参上!」
完璧っ! 役に立たない背中の羽根飾りをぶんと振って、くるりと回ったら、あたしはまさに魔法少女だ。どこにも鏡はないけれど、自分の立ち姿を俯瞰で想像して、胸が高鳴った。自分の頭の中に思い描く自分が一番可愛い、そうでしょ?
小さな自分の両手を見つめる。白のパイピングが施された水色の手袋、手首に赤いリボンと、金のハート刺繍付き。胸に自信が満ちてくる。あたしは大丈夫。あたしはあたしよ。
そのあと日が暮れて小屋に帰るまで、あたしが何をしていたかは、絶対に秘密。その夜は三人に口々に、赤くなった目を心配されることとなった。

ダイニングテーブルは山盛りの料理でいっぱい。そもそもダイニングテーブル自体が魔法でいつもの倍くらいのサイズになっていて、それ以外の家具はごちゃごちゃと端に寄せてある。 
まずは七面鳥の丸焼き。中から肉汁を吸った各種きのこたちがごろんと転がり出している。それからたっぷりのバターがのせられた、熱々のマッシュポテト。チーズがとろけるオニオンスープに、肉団子入りのミートソースパスタ、紫キャベツが鮮やかな大盛サラダは手作りレモンドレッシングで。つぎはぎのレースカーテンが夕焼けで茜に染まり、視界にオレンジのフィルターがかかって一層それらを美味しそうに見せている。
「ねえ、もう食べてもいーい? ねえってば」
「ちょっと待ってよフィフィ、あとこれを持っていくからっと……」
キッチンからメイサの声が聞こえて、フィフィはお行儀悪くカトラリーを鳴らす。
「最近どうもね、食欲がわくの。なんでかいつもより人間の血が吸いたくてしょうがなくって、紛らわすには食べるしかなくて」
「今日は思う存分食べたらいいじゃない!」
あたしはフィフィに思いきり笑顔を向けて、そそくさとキッチンに手伝いに行く。いつもみたいにあたしの頭を撫でようとしたことはその白い腕の動きでわかったけど、鮮やかだったピンク色の髪の毛の、根元が少しずつ黒くなってしまっていることが気がかりで。
キッチンに聳えているのは、少し崩れかけてはいるもののなんともゴージャスな三段ケーキだった。全体は白いホイップクリームで覆われていて、宝石のようなアラザンと、シロップ漬けのカラフルなチェリー、そしてダークチョコレートの欠片が散りばめてある。ケーキの一番上にはLICAの文字。そう、今日はリカのお誕生日パーティー。世界一可愛い二百七十七歳を盛大にお祝いするの。
「せえのっ」
メイサとあたしでケーキを運ぶ。フィフィが歌い出すお誕生日の歌。リカはいつもよりちょびっと割増しで豪華な黒レースでドレスアップして、ニコニコ座っている。赤い巻き毛を高い位置でシニヨンにして、優雅に揺らしつつ。
「はっぴばーすでーでぃあ、リカ~!」
メイサもフィフィも、実はあたしもいつもとは違って黒いミニドレスを着込んでる。歌は続く。メイサは黄色のリボン、フィフィは赤いリボンを頭につけているのも、お揃い。リカは緑のリボン、あたしは黒のリボン。
「はっぴばーすでー、とぅーゆー……おめでとう」
「おめでとー!」
「おめでとう、リカ」
歌が終わればワインやらビールやらを思い思いにあけて、グラスを掲げる。
「メイサ、フィフィ、それからチェリ、本当にありがとう」
「リカみたいな優秀な魔女と一緒に暮らせて、ほんと最高だよ」
「わたしも! 今日のドレスもすごく素敵。これからも仲良くしてね」
「あたしも、偶然だけどこの日に立ち会えて、みんなと一緒にお祝いできてうれしい」
「それじゃ、乾杯!」
あたしは苺のお酒をぐいと飲み干した。アルコールが頭をふわっとさせる。ここのところ、頭が痛くてなかなか寝付けず、あまり体調がよくない。でも、今夜は楽しみたい。
奪い合うように七面鳥にかぶりつくメイサとフィフィを横目に、リカが真っ赤なワインをちびちびと飲んでいるのが見える。あんまり様になっているものだから、見つめすぎて気付かれた。微笑みながらあたしの方へやってくる。
「チェリ、最近、あまり元気がないわね」
ぎくり、そこまで気付かれていたとは。
「あのふたりはやけに食欲旺盛だし、どっちもどっちの五月病かしら?」
微笑むリカはやっぱり少女のよう。手を取られ、ばちっと目が合う。リカと目を合わせると全てを見透かされているような気持ちになる。もしかしたら、そうなのかもしれない。それでも……。
それでも、満月まではあと、たったの三日だから。
「大丈夫、あたしのことは心配しないで」
「云いづらいことでも、いいのよ。魔女がダメなら吸血鬼でも狼女でも」
「本当に、大丈夫だから」
リカは困ったように眉をさげて、あたしたちは手を離した。
「私たちを頼っていいのよ。自分を、大事にしてね」
「……ええ。ありがとう、リカ、大好き」

日はとうに沈んでいるのに、花畑はほの明るい。満月の夜だ。静かな足音が近づいてきて、立ち止まる。息遣いが聞こえるほど近いけれど、姿は見えない。なぜならあたしは今、地面に倒れ伏しているから。
「ねえ、あなたって、やっぱり」
この二週間で聞き馴染んだ、唸り上げるような声。なんとか頭をお空に向ければ、お月様がふたつ? じゃなくて、黄色い瞳だ。ふさふさの睫毛から零れ落ちそうなほど、ぎらぎらしていて素敵な野性。背後の本物のお月さまは、薄い雲にかくれんぼ。
「そうよ、あたしはただの人間よ」
人間には強すぎる花の香りにもうすっかり嗅覚はやられてしまって、花畑のど真ん中にいても、なにも感じない。自分自身があの狂気的な甘い匂いそのものになってしまったみたいな感覚。
「それ、フィフィに?」
メイサがあたしの首筋を指さす。自分では見えないけど、たぶん綺麗な穴が二つあいていて、そこからたらたらと血が流れている。最後の夜だから、と散歩に出ようとしたあたしに、一緒に行くと云うからふたりで歩いた。なんで食欲が止まらないのか、人間の血が吸いたくてたまらないのか分かったのよ、とフィフィは云った。あたしは、そう、と答えた。彼女は紅い目を潤ませて、あなたから人間の匂いがするからよ、と。それからほどなくして、ガブり。
「血を吸われるのは変な感覚だった。別に痛くはなくて、ただ立っていられなくなって、今は少し寒いの。春なのに、可笑しい」
「チェリ……なんで?」
そう尋ねながらも、じゅるりと涎をすする音。二週間一緒にいたくらいで、気にしなくていいのに。あたしはただの人間なんだから。フィフィもさっき泣きながらここを立ち去った。吸血鬼や狼女の本能を前にして、ここまで理性が働くなんて想像以上。想像以上に……ここは素敵な場所で、素敵な女の子たちの棲家だったのだ。
「むしろ、ここまで上手くいくとは思ってなかったの。新月の夜を選んだのは、合言葉のあとにあたしの匂いを確認するであろうあなたの、狼の力が一番弱い夜だから。五月のこの場所なら、もしかして、満開の花畑が人間の匂いを消してくれるかもしれないって」
ドキドキしながら扉をノックした日が、もうずっと前のことのように思える。
魔法少女になんてなれないのに、それでも魔法少女のフリをしたのは、『人間お断り』だからってだけじゃなくて、魔法少女みたいになりたかったから。いっとう女の子らしくて、可愛くて、狂おしくて、糸惜しくて、意地らしくて、刹那くて、ぎゅっと抱きしめたくなるような、そんな自分になりたかった。昔から憧れだった、この場所で。
「あたしは醜いの。どうしたって周りより醜いとしか思えなくて、そこから抜け出せなかった」
「チェリは、綺麗だよ」
メイサが口を開くと、大きくて鋭い歯の隙間から、ぼとり、ぼとりと涎が垂れてくる。色も褪せ、根元がくっきりと黒くなったあたしの髪の毛に、粘り気のあるそれが絡みつく。
「人間の価値観を持ち合わせないこの場所で、あたしもはじめてそう思えた。あたしって、きっと綺麗だなあって。魔法少女に変身した日は、それで感激して、ずっと泣いてた」
青白い頬や血走ったような瞳、絡んだ茶色い毛に下品で大きな口、しゃがれ声と趣味の悪い宝石、そんな風に彼女らを罵るのと同じ口で、何を云われたって問題外だってわかったの。ここに来られて、よかった。もうどこにも帰ることはないけれど。
「楽しかったわ、ありがとう」
風が吹いて、雲が流れた。大きな大きな満月がゆっくり顔を出して、眩しく花畑を照らし出す。
遠くから微かにあたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、月の中に、箒に乗ったとんがり帽子のシルエット?
瞬間視界が暗くなり、がぶり、と小気味よい音がする。喉笛が機能しなくなる前に、あたしは「ふたりにも、よろしく伝えて」と云った。

おわり

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