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ちっちゃな優しさをシェアしたい。

ある日曜日、急に雨が降ってきたから、最後の直線を全速力で走った。頑張ったお化粧が全部ダメになっていくのを鼻で感じて、ムッとした気持ちとブルーな気持ちが混ぜこぜになった。

駅に着いてすぐ、券売機のそばに折り畳み傘の袋が落ちていたのを見かけた。拾おうか悩む余裕も持てず、そのまま通り過ぎた。その日はずっと、傘の袋を探している人の姿を想像しては落ち込んでしまった。楽しみにしていた舞台を見ながらも、心の引っ掛かりが取れなかった。こんなことなら、さっと拾って駅員さんに届ければよかった。ベージュ色で小さな黒色の模様がたくさん入っていた傘の袋。持ち主のところに帰れただろうか。

他人に優しくできる余裕をいつも持っていようと決めた時に、思い出したエピソードだ。みんなの中にも、一つくらいこんな思い出があるんじゃないかと思う。

書いたり発信したりすることで、何を達成したいのか?と考えたときに「ほんのちょっと他人に優しくできる世の中になるために、何か貢献できたら」が自分なりの答えだと気づいた。そのためにはどこでどういうことを書いていけば良いのかは、まだ考え中なのだけど。

優しい人が多い、と感じている方が、他人に優しくできるし、毎日の小さな幸せが増えるんじゃないかと思う。つまり、他人から受ける優しさをより多く見つけられた方が、幸せだし、世界は優しいものになるのかもしれない。

他人から受ける優しさは、認知しなければなかったことになってしまいがちだ。相手の優しさによる行為だと解釈しなければ、自分にとっては優しさを受けたことにならない。

非専門家のコハルが考える「認知」「解釈」とは
例えば、電車に乗っていて、向かいの席の人からじっと見られているとする。自分の容姿を気にしていたら、ブスなうえに変な服装だから見て内心笑われてるんや、と思ってしまうけど、これは勝手な解釈である。もしかしたらものすごく可愛いと思って見られているのかもしれないし、その服持ってる〜と思って見られているのかもしれない。友達に似てて驚いているのかもしれない。出来事そのものには意味がない。出来事にはいろんな可能性があるのに、自分の考え方のクセに従って毎度1つの解釈に固執することを、認知の歪み、と言うようだ。自動的に自分が不幸になるように解釈する癖があると自覚しているなら、「認知の歪み」を自覚して他の解釈を考えるトレーニングをすると良いみたい。気になる方は認知行動療法で検索してみては。

誤っていたらご指摘ください

優しくしてあげたのに感謝されない!とムッとしてしまうことも多々あるけれど、相手が自分の優しさを認知できなかっただけだと考えてみてはどうだろう。

相手が非情なのではなく、優しさを感知するアンテナが弱いだけなのかもしれない。それか、何かの事情でアンテナが弱っているだけかも。そんな風に想像してみる。自動で繋がった結論とは違う結論に、意識して辿り着いてみる。それだけで何か変わるかもしれない。

私が「優しいなあ!」と感じた出来事をシェアしていけば、それを読んだ人が「そうか、あの人のあの行為は優しさから生まれているのか」と新しく認知できるようになるかもしれない。当たり前だと思うより、ありがたいなあ!優しいなあ!と感じた方が、毎日ちょっとだけ幸せになれそうだし、そうして余裕が増えたら、その人も誰かに優しくできるかもしれない。

優しさのコレクション、というと、語弊があるけれど。優しさのトロフィールームのようなマガジンを作っていけたらなぁ。

皆さんが「他人からの優しさ感じた話」や「自分のしてるちょっといいこと」を発信してくれたらとっても嬉しい。コハルに話してくれるだけでもいい。温室育ちで周りの人にも恵まれて、あまちゃんなまま大人になってしまったけど、そんな私だからこそ伝えられるものがあればいいな。

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