感情の置きどころ、マージナリアに思うこと

最近、久々に高校生の国語の教科書を、読む機会があり、今だに古典として掲載されている夏目漱石の文章の赤裸々ぶりに、赤面していました。作家は、気持ちを隠しているようで、隠せない、正直だなぁと思います。

日々があっという間に過ぎて行くのですが、クラシックの野外フェスがあったらいいなぁと思っていたら、同じことを考えている方がいらっしゃった。「stand up!classic festival」目覚めよクラシック!ってことでしょうか。

東京芸術劇場のホールは好きなホールです。
ホールまでの道のりも結構好きで、吹き抜ける風を感じながら、天井を見上げ、エスカレーターをのぼるのもいいんですが。下りの風景は、外の景色も見えるので、クールダウンしながら、帰路につける。

美術館に行く予定もあり、ぶらっと行ってみました。

池袋といえば、ウェストゲートパーク。「ぶくろー」と、もしも、長瀬くんが歩いていたら、『ウェストサイド物語』みたいな、モブが起きるのか?と、想像しながら歩いてみたら、サテライトビューキングで、野外上映、多くの学生服姿をお見かけし、なぜか、とても嬉しくなりました。野外もホールでも楽しめる会場作りで、待ち合わせしたわけではないけれど、懐かしい方をばったり会場でお見かけし、笑ってしまいました。

合唱や和太鼓など、ボレロと和太鼓……って、8分音符の音の粒が14対10の割合で揺れているふりこが、戻ってくる、そんな感じで、人の話し声も含めて、池袋の街は、木管楽器がよく響くように思いました。

先日、阿佐ヶ谷や高円寺を歩いていても、街の音というものがあり、抒情詩と叙景詩について、考えていました。

教授が、高校生の頃、電車通学していた時に、人と人の間に挟まっていて、電車の音を聴いていた話を思い出していた。

荻窪は、弦楽器、国分寺は、笛の音、なんて、個人的な感情が、街の音に乗る。個人的な感覚によるものです。

風景に重なる感情は、誰かにとっては、聴こえない無音のようですが、対話の中ですと、ふと、無言になる時、無言で歩いている時、立ち止まる時、風や雨の音だけが響く時、言葉を失う時、音楽を感じる時でもあります。

久々にYouTubeのラボを聴く機会があり、しばらく考えていた、もやもやしたものを整理するために、書いてみる。

自然の音に音楽を感じるのは、自然そのものが、人間の感情の置きどころになっているからではないかなぁと思う。気持ちをふと、風景に重ねられる時、自然の中に音楽を感じる。

「風の歌を聴け」って、マージナリアみたいだと、今さら思う。

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