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【短編小説】つるっと。#4 最終話

以前、文学系投稿サイトで発表していた創作物を加筆修正して再掲しています。 以前投稿していたサイトからは削除してあり、現状この作品はnoteのみで発表しています。


前回

生きる。

 目が覚めると便意は消失していて、冷えたのか肛門が痛い。

 私はそろりそろりと立ち上がり様、ズボンと下着を引き上げて解錠し、扉のノブを回しつつ外に押したのだが、どうしたわけかうんともすんとも言わない。
 鍵の具合が悪くなったのかと思い、なんどかがちゃがちゃさせて確認したのだけれど、異常は感じられず、快調である。 
 私は頸をかしげ、もう一度扉を押しつつ磨りガラスの小窓から外を覗いて悲鳴を上げた。

 小窓の真下、扉の真ん前にゴマだら頭が見えたのだ。

 なにをやってんだ、こいつは?

「こら、そこをどかんか!便所から出られないじゃないか!」
そんなことを言いながら扉をぐんぐん押した。

 まったく動かなかった。

 私はしばらくの間、そんな感じでひとりわぁわぁ騒いでいた。

 小窓を叩き割ってそのガラスの破片による次女の強制撤去も考えたが、次女は孫を抱いているはずであり、迂闊に攻撃すると被害が孫にまで及ぶ可能性があると思うと実行を躊躇してしまう。
 私は強行突破を諦め、軟化政策に切り替えた。次女を宥め賺し諭し持ち上げご機嫌を伺い、泣きながら懇願した。

 しかし次女は微動だにしない。

 便所にあるのは水と紙だけである。

 激烈な空腹感が襲ってきた。

 そして日が暮れる。
 そして夜が明ける。

 そしてまた日が暮れる。
 そしてまた夜が明ける。

 どんどんどんどん日が暮れる。
 どんどんどんどん夜が明ける。

 もはや何がなんだかわからない。

 私の髪は随分と伸び、便所の紙は喰い尽くして最近は水だけで命を繋いでいる。
 もう暴れもしないし泣きもしない。
 当たり前のように便所で暮らしている。
 座って眠るという行為が長時間睡眠には向かない事を学習し、私は狭い便所のリノリウム貼りの床に、便器に巻き付くがごとく身を丸めて眠る技術を体得した。

 居間から聞こえてくる妻の鼾とテレビの音。そして次女の長い呼吸。時折孫がきゃっと笑う声もきこえてくるのだが、やはり次女の腕の中、この扉の前にいる気配がある。

 なんたる長い時間座り続けているのだ?なんの修行だ?
 いや、もうそんな事すらどうでもよろしい。
 最初の不条理感さえも消えた。
 小窓から覗くと、次女の頭は黒々としている。
 私も次女も髪が伸びた。

 キャッキャッと孫の笑う声が聞こえた。

 私は便器のふたをおろし、その上に腰掛けて足を組み、次女と同調するように長い呼吸を始める。
 孫の笑い声がまた聞こえた。
 私は半眼で更に呼吸を整える。
 やがて私と次女の呼吸に妻の鼾が同調を始めた。
 しばらくすると、孫の寝息も聞こえてきて、これも私たちの呼吸に同調する。
 この家の住人が同じ調子で呼吸して、ただひたすらに生きている。
 生きるために必要なものって、あんまり多くはないんだと気付く。

 我々はなぜこんな事になったのか?という疑問がちらりと脳裏をかすめたが、やがて消えてしまった。

 確かに結果的にはこうなったのだ。だが、今がこうである限り、過去を想ってもなんの意味もないではないか?
 息を吐いて。生きている。
 息を吸って。生きている。

 また孫が笑い、廊下の突き当たり、私の部屋の窓からこの便所の小窓まで、真っ赤な夕焼けが差し込んでいる。

(了)

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