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夏の通り雨

 入社当時、同じ部署に竹内さんという先輩女子がいた。年齢は私より一回りほど上だったが、独身で嫌味の無いさっぱりとした性格で、右も左も分からないその頃の私としては随分頼りにしていた存在であった。
 まもなくしてそれとなく誰かから聞いたのだが、竹内さんは他部署のY部長と不倫関係にあるとの事だった。そのため社内の女子だけに限らず男性社員達も竹内さんには何となく距離を置いて接しているように感じられた。
 当初は私もその話に耳を疑い、少し引き気味に思ってしまったのは否めない。何しろY部長という人は何かにつけて評判の良くない人だったからだ。
 何故、竹内さんがあんな人と? と何度となく首を傾げた。その噂の信憑性などは分からなかったが、火のない所に煙は立たないと言うから、あながち出鱈目では無いのだろうと思った。
 しかし、そんな良くない伝聞を聞いたとしても私の竹内さんを見る目に変化は起こらなかった。とにかく常に冷静でそつなく仕事をこなすその佇まい、立ち居振る舞い、言動、どれをとっても素敵としか形容し難く、先輩女子として、いつしか彼女は私の目標であり、憧れの存在でもあった。
 
 数年が経ち、私が仕事にも社会にも慣れて部署も変わり、竹内さんと接する機会が少なくなってしまった頃、彼女はいつのまにかひっそりと退社してしまった。迂闊にも私は後になってからその事を知ったのだった。
 だから未だに私は竹内さんにお別れの言葉もお世話になったお礼の言葉さえ、伝えられずにいる。
 同じ頃、Y部長も関西方面の支社に転勤して行った。二人の間に何かあったのか、あるいは何も無いのか、それは今更知る由もない。けれども、二人とも居なくなったという事実は私の心の内部に澱のように沈み込んだ。

 竹内さんとの間で思い出すことがいくつかある。
 いつだったか、多分飲み会か何かの帰り道。たまたま同じ方角だった竹内さんと私は、二人してタクシーを捕まえようと小走りした。季節も今頃、夏の気怠い暑さの漂う夜更けだった。ぱらぱらと降り出した通り雨の中、ハイヒールの音を立ててビル街の舗道で流しのクルマに乗り込んだ。
 その日、竹内さんはあまり口を利かなかった。元々饒舌なタイプでは無いので、私もそれほど気にはせず、静かに流れる時間に身を任せていた。タクシーのウインド越しに雨粒が滲んで流れ、赤や黄色そして青い光がゆらゆらと私達の横顔を照らした。
 ふと気がつくと、彼女の頬に光るものを見出して私はハッとした。それはいく筋もの線を描いて、滑らかな肌を湿らせていた。彼女は声も出さず身じろぎもせず街並みを見詰めて姿勢を崩さずにいた。
 その涙が何によるものなのか、それは分からない。ただ触れてはいけないものだと私は認めて、平静を装いシートから伝わる小さな振動に身を任せていた。
 けれども不思議なことに彼女から伝わって来る雰囲気は穏やかなもので、そこには怒りも哀しみも感じさせはしなかった。むしろ爽やかで清々しい空気を私はそこに感じ取っていた。
 それはまるで夏の通り雨みたいに、渇いた心を潤す冷ややかな時間であるかと思わせた。
 車内に流れる音楽は静かなジャズだったか、ヒットソングだったか、今となっては記憶もあやふやだが、その僅かな時間は私をひとつ大人にさせた。
 そしてもう一つ思い出すことがある。
 それはまた別の日、別の時間。
 珍しく二人で取り留めもなく雑談をしていた。
 おそらく私は近い将来の夢など楽しげに語っていたのだろう。
 彼女はにこやかに私の話に相槌を打っていたのだが、
「でも不倫だけはしちゃダメよ。不幸になるだけだから」
 と、唐突に若い私に明るくそう言った。
 その時はあまり深く思いもしなかった言葉だったが、その響きはそれから胸の奥に深く染み渡った。

 そのあと幾度かの季節を通り過ぎ、沢山のいろいろがあった後、当時の竹内さんと同じ年頃になった現在、時折、懐かしき日々を回想する。今の私があの頃憧憬した彼女のような存在になれたかどうかは全くもって不明ではあるが、それなりに確立したものを身につけて日々を暮らしている。
 住まいも一度二度移り変わり、現在はりょうちゃんという相棒に恵まれルームシェアをしている。りょうちゃんは今の私にとっては一緒にいて一番心の休まる話し相手だ。
 そう言えば私は竹内さんとの話をりょうちゃんにしたことが無かったなとふと思う。
 話をすればどうしても不倫の恋愛について話をすることになり、おそらく否定も肯定もしないであろうりょうちゃんの優しさを私は再び思い知ることになる。

 それに竹内さんの人生について、私は驚くほど何も知らない。
 幸福であったか不幸であったかさえ。
 でも、同時にそれは他人が決める事では無い、あくまで、自分が感じ取るものだと思う。
 もしも、あの時、竹内さんが自分自身を不幸だなんて思っていたとしても、それは一時的な通り雨のようなものであったと思いたい。
 その後の彼女のことは何も知らないが、きっとそうであったと思いたい。
 心からそう思いたい。

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