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知ることのない遠い世界の出来事

 ドヤ街に住む仲間の一人から紹介された現場は、かなりの重労働で、荷物の運搬や足場の組立てなどが延々と続き、なまった身体のオイラにはかなりキツい仕事だった。
 けれど、今夜のメシさえ確保出来るかどうかも分からぬオイラの生活では仕事の選り好みなどしている場合ではない。
 ホームレスのような生活を始めて二年、とにかく生きるためにはカネが必要だ。そのためだったらどんな仕事でも引き受けるしか方法みちはない。
 とにかく仕事にありつける。それだけでも御の字だ。
 それにしても、現場指揮者の日雇い作業員への扱いは酷いものだ。モタモタしているとすぐに怒号が飛び交い、次から次へと目まぐるしく重労働が続いた。

 ようやく昼過ぎになって、わずかばかりの休憩時間が与えられた。オイラはへとへとになって道路脇の日陰、コンクリートの石段に座り込んだ。
 あれだけの肉体作業をして配給された昼飯はジャムパンひとつと紙コップに入ったホットコーヒーだけ。
 それでもオイラはパンにかぶりつき泥のような色をした味気ないコーヒーを胃に流し込んだ。
 ふと気付くと斜め後ろあたりに老人が腰を下ろし何かぶつぶつと独り言を言っている。
 シケモクだろうか、左手で短い煙草を指に挟み、地面にはおそらく焼酎か何かだろうプラスティックの容器を置いている。
「疲れたかい、兄さん」
 老人はあさっての方向を見ながらそう口にした。他に誰もいないのだからおそらくオイラに話しかけているのだろう。
「あ、いや、まあ、久しぶりの仕事なもんで」
「そうかい、ここの連中は人づかいが荒いからな」
 老人は煙にむせた様に顔を顰めてため息混じりにそう呟いた。
「あんたも雇われてるのかい?」
 オイラの質問に老人は、ほんの少し間を置いて、それには答えず、質問を返して来た。
「兄さん、歳はいくつだい?」
「41っす」
「41? わしはその歳の頃はがむしゃらに働いたもんさ」
 出た。これだ。今時の若い者は、とでも言いたいのだろう。自分の若い時と比べて、辛抱が足りないだとか、根性論を持ち出し、何かしらの自慢をしたいのだ。まあよくある事だ。いろいろと苦労を重ねて生きて来たのだろうが、その度にオイラは辟易してしまう。
「あんたは若い時は何をしてたんだい?」
 オイラは老人にそう訊いてみた。
「うん? わしかい? そうじゃの、外国に飛ばされたりしたものさ」
「外国?」
 ああ、戦争だな。レイテ島とかパラオとかそんな南の島々か、それとも、中国の奥地とかビルマとかそんなとこだろう。
「南方かい? それとも大陸の方かい?」
 そう尋ねてみると、老人はこう答えた。
「はじめは大陸だったが、すぐに北の方の島国に渡ってな」
 北の方の島国? オイラはそれがどこかは直ぐに思い浮かばなかったが、サハリンだとか、そんなところを連想した。
「そうかい、大変だったな」
 老人はほんの少し笑った。

 オイラはチラッと老人の皺だらけの汚い顔、細く奥まった目でも見てやろうかと思い、振り返った。
 皺? 皺は無かった。小皺の一つも無い。色黒でもなく、透き通る様な白い肌だ。
 細く奥まった目? いや、大きな二重の黒い瞳がぱっちり開いてキラキラ光っている。
 老人は焼酎のコップを手に取りストローを口に咥えた。
 ストロー?
 ああ、なんだ、よく見るとそれは焼酎なんかではなく、タピオカミルクティーというものではないか。
 ゴツゴツした薄汚れた太い指先でコップを掴み……、
 いや、スラリとした細い指先でカップを持つそこには綺麗なネイルが施されている。
 ホームレス特有の加齢臭と薄汚れたボロ布のような衣服……。
 いや、芳しいまでのパヒュームの香りとアイドルさながらのひらひらとした淡いブルーのステージ衣装。
 オイラはマジマジと老人の姿、顔形を見つめ直した。
 何日も洗っていない半分禿げかけたボサボサの頭髪がそこに……。
 いや、艶々とした黒髪がサラサラと風になびいて、清潔感そのものしか見出せない。
 なんてことだ! この世にはこんな綺麗な人間がいるのかと、オイラは目を疑った。
「あんた、名前はなんて言うんだい?」
 どうせ、源さんとか、ヒデさんとか、留さんあたりか……。
真野凛華まのりんかです。よろしく」
 老人、いや、少女はそう言って微笑んだ。
 鈴が鳴るような綺麗な声だった。そして、天使のような微笑み。
 少女は「リンカちゃん、そろそろ次はじめよっか?」とスタッフに優しく声をかけられて「ハーイ!」と明るく返事をしてサッと立ち上がる。そして、こちらに軽く会釈し手を振るとスラリと伸びた細い脚で颯爽と駆けて行った。

 アイドルの写真撮影の屋外現場。これが今日オイラが派遣された仕事先だ。
 まもなく午後の作業が開始される。
 オイラは片隅に置かれたアイドルのプロフィールを手にした。
 なんで勝手に老人だと思い込んでしまったのか不思議でならない。
 老人(実は少女だったが)の言ってた事は嘘ではなかった。
 ニューヨーク生まれで、5歳の時にイギリスに移り住み、14歳から日本でモデルの仕事を始めている。現役女子大生らしい。スタンフォード? あまり聞かない名前だけど、どうやらお金持ちのいいところのお嬢さんらしい。シケモクだと思っていたものは喉を守るためのミストか何かだったようだ。
 オイラには知ることのない遠い世界の住人なんだろうな。そして、いつのまにか歪んだ目でしか世界を見れなくなってしまっていた自分自身をほんの少しだけ、恥じた。

「おい、日雇い! モタモタすんな次のセットの用意だ」
 オイラは生意気なADに呼ばれて仕事に戻った。


おわり

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